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「宙吊り」の宙吊り――ほとんど不可能なものとしての宙吊りを経験すること

「宙吊り」が流行している。

われわれは今や一つの問いに対して、絶対的に正しい解答を求めることなどできない時代に生きている。あるいは少なくとも、絶対的な正しさを求めることが真でも善でもないということを知っている。それでもなお強力で魅力的な言説を前にすると、それに追従してしまう傾向にあるというのもわれわれの本質的な性向であろう。「宙吊り」という術語はこの様な状況において重用されている――とりわけ現代の哲学をめぐる言説において極めて多く散見される。あらゆる事柄を決定不能なままに留め置くこと、あるいは更にあらゆる事柄を経験しているこの「私」なる存在の根拠を揺さぶること。このことを宙吊りと呼び議論の中心に据えるのである。思索を進める上で、「宙吊り」を前景化させることは一つの誠実な思考のあり方であるだろう。確かに。しかしながら強力な(かつ野蛮な!)言説に「宙吊り」を対置することが、果たして本当に効果的なことだろうか? われわれは既に、「宙吊り」にアクチュアリティを覚えることができていないのではないだろうか。それが思考の前提ではあっても、「宙吊り」に拘泥することはニヒリスティックな感傷をそのままにしておくことと同義ではないか。あるいは少し言葉を変えれば、強力な言説、理想、理念、イデオロギーに抵抗するための「宙吊り」という戦略が、再び一つのイデオロギーとして機能してしまっているのではないだろうか。 今なお「宙吊り」と言い続けることに、果たしてどの様なダイナミズムを感じ取れば良いのだろうか?

(上で「対置」という言葉を使った。しかしながら「対置」は、二つの概念や事物が規定されているという条件でのみ可能となる。「宙吊り」はこの意味で徹底されていない。「宙吊り」なるものが真に可能となるとすればそれは、「宙吊り」という概念がそれ自体で宙吊りにされるという限りにおいてでしかない。この様なプログラムはほとんど不可能である様に思われる。どの様にこの袋小路から脱すれば良いのだろうか。)

池田亮司という現代芸術家がいる。彼は電子音楽と特異な映像メディアを用いて「宙吊り」というイデオロギーに抵抗し続けている人物である。彼の一つの鍵となるのは、「知覚の宙吊り」である。このことについて、宙吊りをめぐる哲学の一つの起源を扱いながら論じていくことにしよう。

キルケゴールの有名な文句に「不安は自由のめまいである」というものがある。端的に言えば、自由と不安とは表裏一体だということである。人は自由であるがゆえに来るべき未来に自らがどの様な状況に陥るか分からないという強烈な不安に駆られる。この限りで不安は恐怖とは異なる。恐怖は明確な対象を持ち、自らが脅かされるかもしれないという直接的な被害を念頭に置いた感情である。それに対して不安は「漠然としている」というまさにそのことが契機となる感情である。したがって例えば、「このままだと私は将来経済的に困窮するかもしれない」などといった感情は、不安ではなく恐怖だと言えよう。キルケゴールは、この様な不安から単に逃避するのではなく、真に不安を解消するためには、キリスト教者であらねばならないという議論を展開していたのであった。

ここで不安はあくまで乗り越えられるべきものとして扱われている。しかしながら、より積極的に不安の概念を自らの哲学の中心に据えた人物がいた――そしてこれが宙吊りの哲学の一つの起源であるのだが――すなわち、サルトルである。キルケゴールの場合、不安の原因を完全に「自己」の精神に帰していたのだが、サルトルはその原因が絶対的な偶然性、決定不可能性、そして「無」であると言った。われわれは様々な恐怖を避けるため、その都度様々な策を講じるだろう。しかしながらそれらの策は失敗するかもしれない。何らかの事件の介入によって破綻するかもしれない。自らの意志とは無関係に他人が邪魔をしてくるかもしれない。偶然的な作用を鑑みれば、厳密な意味で恐怖を解消することは不可能なのである。この時、「私」が次にどの様な決定を下すかということももはや定かではなくなるだろう。「私」という作用因が後景に退くという仕方で、恐怖の総体から絶対に逃れられないという状態を、彼は不安と呼ぶのである。

ここで重要なことは、サルトルが決してこの不安を消し去ろうとしているのではないということである。彼にとって不安は決して逃れることのできないものなのであり、更に言えば存在することとは不安であることと同義なのである。そして、むしろこの不安こそが今の自分とは異なる未来の可能性を担保しているということになるのである。言うまでもないことだが、ここで「不安」はまさしく宙吊り状態を示している。次に起こる事柄が確定していない状態、自らが(数分後であれ数年後であれ)来るべき未来にどの様に存在しているかが、全くもって闇に覆われている状態――これこそサスペンスの本義である。この文脈に即して言うなら、「存在とは宙吊りである」。

では話はここで終わりだろうか。いや、一つ大きな問題が残っている。強調しておかねばならないことだが、われわれは日常的にこの不安を避けるように生きている。あたかも不安など存在しないかの様に、あるいはあたかも「私」なるものが死ぬまで一貫した存在であるかの様にふるまう。ただしこれは単に精神の作用によるものではない。少なくとも「心の持ちよう」などといった表層的な問題であるのではない。われわれをこの様な虚偽へと駆り立てるものは、物理的な「知覚」の制約によるところが大きい。

端的な例として、「目」について論じてみよう。われわれの目は、一点を集中して見ている時でさえ、極めて細かな振動を常に継続している。実はこの振動こそが視覚を成立せしめているものなのである(一点の曇りもない真っ白な部屋に入ると、目の前に広がる「白」は、一瞬にしてブラックアウトしてしまう。全く動きのない対象を知覚することは不可能なのだ。ちなみに、白いピンポン玉を二つに割って、両目にかぶせるなどすると同等の経験ができる。この場合「真っ白」とは言えないが、それでもやはり知覚機能は停止してしまう)。これはもう少し大きな枠組みでも同様である。例えば通勤、通学などで日常的に同じルートを選択していると、途上に何があるのかなどといったことは殆ど把握されない。視界には入っているが「見えない」のである。本当は細かな差異があるはずなのだが、日頃培われたルーティンはわれわれの視覚をどんどん矮小化していくことになる。日常――あるいは「現実」と言っても良いかもしれないが――は、現状を維持するために必要なもの以外を省略する傾向にあるのだ。その意味では、「保守」というのは本能的、本質的なものであろう。この限りで、現実においては宙吊りなどというイデオロギーが介入する余地がないかに見える。すなわち、思考のレベルで宙吊りを訴えてもそれは上手く機能しない。まずは知覚を宙吊りにすること――普段の「私」の知覚が一面的なものでしかなく、どれほど固化してしまっているかということについて知ること。ここから出発する必要がある。

池田亮司の作品群は、主に彼の構成する音楽、映像、そしてそれらを含めた空間から成立している。多くの場合音楽も映像も常に速度を変え、濃度を変え、デジタル感を極めて全面に押し出したものであり、慣れていない人からすればそれ自体で単に日常から乖離した経験を得ることとなる。しかしながら彼の作品において最も重要な事柄は、空間の構成の仕方にある。すなわち、鑑賞の形態は「自由」であるとされているのだ。鑑賞者は作品である空間に侵入すると、常に流れている音楽を耳にしながら、壁から壁に、あるいは天井から床に投射された映像を見ることとなる。最初は全体を一望できる場所に立つ者が多い。次第に座ったり、寝たり、歩いたり、走り回ったり、更には踊りを踊る者もあらわれる。この時、彼らはプロジェクターと映像が投射されている壁/床を遮る様に位置取ることも多い。したがって、作品は数十分でループしているのだが、その都度あり様は大きく異なる。ここでは様々な知覚と運動が交錯することになる。作品の細部に目を凝らす者、位置によってどの様に知覚が変化するかを実験する者、積極的にパフォーマンスをすることで作品の一部になろうとする者、何時間もその場にとどまり、特異な空間の中に自らが溶け込んでいく経験をする者、あるいは彼らの運動を眺めまわす者など、あり様は様々である。作品の経験を通じて、自らの知覚の変容のプロセスについて極めて自覚的になるのである。作品それ自体に「宙吊り」の契機が内在している訳ではない。しかし、体験後確かにこれまでの日常と同等の知覚を保つことはできなくなる。池田亮司はこの場の創出を極めて自覚的に行っているのである。

しかしながら池田亮司の語法もまた、一つの知覚のあり方を規定し始めている。似たような作品の創出を続けていればこれはもはや当初の企図を遂行することができない。「一つの」。私はここまでの文章で何度かこの語を強調した。宙吊りの契機は、絶対的に一つの作品に内在していたり、常に既に散見されたりする様なものでは決してない。そうではなく、あくまで一つの瞬間、一つの経験、一つの知覚――これらを日常的に模索していかなければならないのである。

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