印刷

それでもなお、作品

 「映画的なもの」と「映画的でないもの」――この区別を求めようとする試みはおおむね、極めて古典的な問いに帰着する。2400年前、アリストテレスという哲学者は「演劇の本質とは何か」について考えていた。それ以来人間は常に、絵画とは、文学とは、そして芸術とは何かと考え続けてきた。「本当の芸術」、「芸術の本質」とは何であり、「芸術でないもの」との違いはどこにあるのかということについて思索をめぐらせてきたのである。「映画的なもの」と「それ以外」という問題設定は、この長い歴史の延長線上に位置づけられるだろう。

しかしながら現代ではここに、大きな問題が登場する。もはや一つの芸術作品について、「どこからどこまでが『作品』なのか」ということが分からなくなってしまっているのである。結局のところ、「作品とそれ以外」という区分が極めて曖昧になってしまうことになる。例えばインタラクティヴ・アートのことを考えてみよう。一人ないし複数人の「作家」が、一つのオブジェを作ったとする。しかしながら彼ら「作家」は、これで作品の完成とは認めない――すなわち「観客」が作品に接する仕方、その様な不確定で流動的な一連の鑑賞運動も含めて作品とするのである。時間がたつ度に入れ替わり立ち替わり往来する「観客」が既に同時に「作者」であることを要請され、結果として「作品」は確固たる一つの相貌を失うことになる。更に、デジタル技術が介入することでこのインタラクティヴ性は飛躍的に増大する。渡邉大輔は『イメージの進行形』の中で、現代の「映像圏」について次の様に語っている。

 

いわば、映像圏では特定のテクストに接するひとびとの無数の行為(コミュニケーション)の連鎖すべてが、場合によってはひとつの均質なテクスト=リアリティを為す/成すのであり、そこでは「作品/観客」、あるいは「表象/現実」という対立関係は跡形もなく熔解してしまう。おそらくここにわたしたちは、蓮實的な「表象」の問題系とは異なる、新たな映画・映像に対する批評機軸を見出さなければならない。筆者の考える映像圏とは、まさにその一つの試みなのである。(p.146)

 

現代において各映像作品は、もはや確固たる地位を有していない。ニコニコ動画におけるコメントやタグづけなどに代表される様に、作品はそれ自体でコミュニケーションとして働いており、互いにフィードバックを続けながら自己増殖していく。その意味で、映像の内と外はもはや厳密に区分できるものではなく、「現実」をも内包した「映像圏」を考えなければならないとするのである。蓮實重彦や「蓮實的」な人々が見えるものとしてのスクリーンに焦点をしぼり、それによってその裏側にある見えないもの=表象不可能なものを神秘的な仕方で探ろうとしていたのに対し、映像圏において絶えず見えるものとなりうる

しかし、本当に作品と観客、内と外は「跡形もなく熔解してしまう」のだろうか? 厳密な意味でそうなるのだとすれば、世界の全ては「映像圏」でおおわれているということになる。確かにそうした言い方が不可能な訳ではない。映像という言葉を用いる時さらにラディカルに、我々の眼とは既に映画的な構造を有しているのだ、眼を有する動物は生まれた時から映画的なのだ――という議論が不可能な訳ではない。しかしながら「全てが映画的である」と言うことは、「映画的なものは何もない」と言うに等しくなってしまう。「映画的」という均質的な場が存在すると指摘するだけでは、そこに何も意味や価値が生起しないことになってしまうのである。

勿論この様なことについては、渡邉も十分に理解していた。ただし、彼が映画(的なもの)に可能性を見出そうとする時、その中心では蓮實的な価値体系が強く働いているのではないだろうか。渡邉は、土本典昭の『海とお月さまたち』を引き合いに出して次の様に語っている。「この映画のなかで、緩慢に揺れる漁船の甲板から、陽に焼けた黒い肌を晒す老練の漁師が海中に垂らした釣り糸で鯛を漁る印象深いシークエンスがある。〔…〕不可視の海底に向けて指先の感覚を研ぎ澄ましてく漁師の手の動きが、その下で一定のリズムのもとにたゆたう、可視的な水面の波の表情からは明らかに異なる「非同期」の時間――魚が釣餌を咥え釣り糸が一瞬張りつめる瞬間――を鋭く見出し、それに反射的に「同期」(「選択同期」!)しようとする、その微妙だが、決定的な重なりあいこそが最も濃密に観客の前に示されることだろう」(p.203)。この様な記述が、蓮實的な「表象不可能なもの」の問題系から逃れている様には思えない。渡邉がここで「微妙だが、決定的な重なり合い」と呼ぶもの、あるいはそれが出現する瞬間は、いわく言いがたい素晴らしさ、すなわち表象不可能なものの範疇に留まっている。

結局のところ、この「いわく言いがたい素晴らしさ」をなんとか可視化する、という作業しか残されていない。ただしこれは作品に内在しているものであるというのではなく、やはり我々の経験に際して生じるものであると言わざるを得ない。そしてまたここで「経験」と言う時には、絶対的な「今ここ」という瞬間が問題になっているのではなく、既に「映像圏」という土台の上にいるわれわれの経験が取りざたされなければならない。作品の分析が可能であるとすれば、作品それ自体ではなく、無限の複雑な関係のなかからすくいあげられなければならないだろう。必然的に、この様な分析は多数でなければならないことになる。例えば、一つの言説が極めて影響力を強く持ち、誰もが信じ込む様になってしまった時、もはやその言説は経験から最も遠いところに位置していると言える。結局のところ、「映画的なもの」を感得するためには、絶えざる可視化の運動、すなわち作品化が必要であるということになるだろう。平坦な映像圏に拘泥することではなく、度毎に見て取れるリズム、凹凸をすること、そしてそれによって自らが起伏の一端を担うこと。土本の「作品自体」への分析というシークエンスでは自らを裏切ってしまったにせよ、渡邉大輔が企図していたのはこの様なことではなかったか。作品という境界が曖昧になってしまったからこそ、作品化の作業を賭していくことが必要なのである。

文字数:2559

課題提出者一覧