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足の裏から始めること

ちょうど一年ほど前、日高勝之という社会学者が『昭和ノスタルジアとは何か』という著作を発表した。ここでは、テレビドラマ、映画、あるいは漫画といった様々なメディアにおいて昭和という時代がどの様に表象されてきたのかということが論じられている。昭和へのノスタルジーをネタにした商売が流行っているということは、普段マス・メディアに触れているものならほとんど誰でも気づくだろう(「またテレビで懐かしの歌謡曲特集やってるよ」という会話が巷でどれだけなされていることか!)。しかしながら日高の議論において最も重要なことは、「昭和ノスタルジア」の対象が昭和それ自体ではないということだ。すなわち昭和を題材にした作品のうちにも、昭和に対する作者の態度が表れているのであり、決して単純な過去称賛などではないというのである。「それは近過去へのストレートな懐古ではなく、むしろ回顧を志向し、当時への郷愁、愛憎、悔恨、不満、反省、弁明、正当化などが混在した複雑な心情と考えることができよう」(註1)。これは極めて当たり前の主張に見えるかもしれないが、改めて強調しておく必要がある重要な事柄である。われわれは決して過去をありのままに生きなおすことなどできないのであり、文書や映像、諸芸術作品などといった蓄積の中から、総合的に「昭和の記憶」を再構築するにすぎない。恐らく、この様な不安定さの内にこそノスタルジーの力が存在していると言えるだろう。われわれはこの様な「昭和の意味」の不断の更新という運動のなかで、終わることのない昭和を反復することになる。

歴史と記憶とのこの様な関係は、決して日本における「昭和」の問題に限ったことではないだろう。過去を、少しずつずらしながらも「到達できない理想」として再生産していくというこの運動は、いつの時代、どんな場所でも繰り返されてきたことである(註2)。しかしこの「過去」というのが、あまりにも近い過去であるというのが「昭和」の特異なところであろう。ここに二つの世界大戦と敗戦という契機があまりに大きく作用しているということは間違いない。日本が一度リセットされるという経験は、神話を一から作り上げるのに十分な動機となりうる。しかしながらあえて別様な見地を導入するなら、昭和は日本において最も「高さ」への志向が強まった時代であると言えるだろう。

ドナルド・キーンの著作に代表される様に、日本における「美」は、はかなさ、簡素さ、小ささと関係している――などとよく言われる(註3)。しかしながら東京タワーの建設を皮切りに、都心では100mをゆうに超える建物が乱立していくことになる。もちろん、このことの裏には経済の伸長やそれに伴う地震に耐えうる様な技術の発達ということもあっただろうが、それでもやはりこの時期にようやく高層ビルの建設に着手していくことになったということは注目に値する(註4)。ここで高さというのは、単に経済力や技術力を示すにとどまらない。高さは普遍的に「知」の問題と深くかかわっている。例えばバベルの塔の神話を考えてみれば明らかであるが、天まで届く塔を建てるという運動は、全知全能の神と同等の知を獲得したいという欲望に支えられている。あるいはまた「巨人の肩の上」という比喩(註5)などにも見られる様に、西洋では常に「高さ=遠くまで見渡せる見識」を表しているのである。日本は高さを志向することで、和魂洋才から脱して初めて本当の「欧化運動」に取り組むことになったということではないだろうか。すなわち、全てを見知るための欲望に駆り立てられる様になったのである。無数の情報を乗せた電波を発信していた東京タワーが、昭和と「高さ」の象徴として機能してきたことは決して偶然ではない(註6)。

このことが昭和にのみ生じた事象であるかは分からないが、少なくとも昭和に顕在化してきた出来事であると言えるだろう。そしてこの高さ=知という見地からすれば、グーグルアースや、カメラを搭載したドローンもこの延長線上にあると言える。これらのガジェットもまた、高い位置から出発してわれわれを俯瞰するという構造を有している。平成における、これらの新たなおもちゃの重要性は、誰しもが気軽に、いつでも使えるという点にあるだろう。われわれはいかなる時でも俯瞰の視点を持ち、全てを認識する可能性に開かれているのだ――と錯覚することになる。錯覚、もちろんこれは錯覚なのだ。高いところから眺めるその視点は、決してわれわれの足の裏を認識することができない。足の裏と地面との接触面を認識することができない。「知」なるものがあるとすれば、それは俯瞰の視点と同時にわれわれと地面との関係の仕方を知覚するものである必要があるだろう。やや余談になるが、ひとは成人して以降、どの程度外を裸足で歩いたことがあるだろうか。あるいはまた、アスファルトの上を裸足で歩いたことがあるだろうか? 車にとっては進みやすい舗装路も、裸足にとっては針の山の様に感じられる。このことは上からでは分からない。足の裏から始めなければならない。

現代日本演劇の一つの極、地点という劇団を紹介しよう。彼らは主としてシェイクスピアやチェーホフ、ブレヒト、あるいは日本なら芥川や太宰といった、有名な作家のテクストを再解釈する上演を行っている。再解釈とは言っても、物語の意味内容を伝えるということに主眼を置いていない。俳優はテクストを伝えるのではなく、テクストとして表れている文字を身体の内に置きなおすといったイメージで発話と運動を繰り返すこととなる。彼らにとって重要なことは、身体にどの様に付加をかけるかということである。例えば舞台装置が極めて重要な役割を果たしており、あるときはたくさんの飛び石が舞台上にちりばめられており、俳優は上演中ずっとその上を飛び回る。この上演では疲労も相まって危険な様にも見えた。ある時は舞台後ろから客席側に向かって坂になっており、俳優は倒れない様に常に重心を気にしなければならない。この舞台にいるだけで、彼らの身体は既にドラマをはらんでおり、物語など必要としない様に見える。同時に、テクストもまた彼らの身体を拘束する一つの要素として機能している。「わたしは」という台詞を「わたっ(裏声)し…は!」などと、完全に分節化してしまい、その様な調子で発話が展開されることとなる。物語に回収されないテクストの再構築が眼前で上演されるのである。俯瞰の視点、すなわち物語の意味内容の全体的把握から逸脱した形で、それでもなおテクストに依拠した上演という見事な演出を見せてくれるのである。

タイトルに「足の裏から始めること」と書いたが、私は決して「自然に帰れ」などと言いたいのではない。裸になれば直接的で本来的な体験ができるなどと言いたいのではない。あるいはまた、何でもかんでも体験しろとか、現実を足で踏みしめろなどと言いたいのではない。少なくとも地点が行っているのはその様な接触主義的、現場主義的、「現実」主義的な上演ではない。そうではなく、むしろわれわれが依拠してしまっている世界との関係の仕方――これをいかに異なる仕方で見ることができるか。これが問題になるだろう。

 

 

 

1.日高勝之『昭和ノスタルジアとは何か――記憶とラディカル・デモクラシーのメディア学』世界思想社、2014、p.446。

2.この問題については、フランスの哲学者ジャン=リュック・ナンシーが『哲学の忘却』の中で精緻に扱っている。ひとは、自らの生きている時代が危機に陥っていると認識した時(完全無欠な時代などありえないのだから、ひとはいついかなる時代に身を置いていても危機の渦中にあると考えてしまうのだが)、「存在したことのない過去」や神話に思いをはせ、それを理念化してしまうというのである。

3.ドナルド・キーン『日本人の美意識』金関寿夫訳、中央公論社、1990。

4.例えばベルギーのノートルダム教会などは16世紀初頭に既に122mを誇る建物として完成していたことを考えれば、日本の特異性が浮き彫りになるだろうか。

5.1159年にソールズベリのジョン『メタロギコン』のなかに著されている比喩。古代人という知の巨人がいるために、その上に乗っているわれわれは古代人と同等のものを見知ることができるという比喩。

6.ここでは高さそれ自体よりも「高さへの欲望」が重要であると付言しておこう。日高も先の著作で、東京タワーはしばしば「未完成なもの」として表象されてきたと論じている。なお、欲望というのは消尽しないということにその本性を持っている。すなわち、スカイツリーが完成したとしても既にその先が見据えられていることに注意しなければならない。

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