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「現実」への抵抗

●〈超〉現実主義の倫理学
現実という名の幽霊、われわれに漠然と、かつ強力な仕方で迫ってきているこの幽霊を問題にしなければならない。

何かを批判する際に、「現実」という語は無敵である。というのも、充溢した現実なるものはそもそもの初めから存在しないからである。「それは現実が見えていない」という言葉は、あらゆる言説に応答可能となってしまう。またここで「現実」という語が「いつか見えるかもしれない/可視化すべき」という限定のもとで初めて可能となっているという事態も指摘しておこう。すなわちこの語の使用者は、「現実」を完全に同定することの難しさを認めつつ、それでもなお疑いなき現実が確かに存在するということを前提している。
「リア充」という語の流行は、まさしく現実(感)が欠けているということへの強い逼迫感の現れである。ここでの「リアル」は、TVやPCのモニタ上の「虚構」に対比される形での現実ということに留まらない。それは満たされるべき「理想」として機能しているのである。しかしながら繰り返すが、「リアル」は決して完全に充実することはない。いかなる欲望も、満たされないということそれ自体がその条件になっている――この構図と全く同様に、「現実」は満たされることがないために強い推進力を生んでいるのである。
当然のことながら、ここで「現実」はどの様なものにもなりうる。「理想の現実」が初めから強固に設定されている訳ではない。広告や権力者や、漠然としたイメージなどから、理想の現実象が醸成されることになるのである。
10年ほど前に「戦わなきゃ、現実と!」という発毛剤のCMが有名になった。しかしながら戦うべき相手は「現実」それ自体ではない。それのみを現実だと思い込んでしまうという一つの理念が問題にされねばならないだろう。広告/イメージにより頭髪が抜けていくということが絶対的な悪であるかの様に考えてしまうという、まさにこのことに目を向けなければならない。現実という語が独り歩きして、その範囲が無批判に拡張され確定されるというこの事態を、〈超〉現実主義の時代と呼ぼう。勿論ここでの〈超〉現実とは、現実を超えたということを意味しない。現実それ自体が理想化した、転倒した「理想の時代」ということを言わんとしている。あるいは未来や手の届かぬ他者への理想ではなく、極めて動物的に充実した現在=現実への理想ということである。動物化というキーワードについては後で取り上げることにしよう。

 

●「現実」への抵抗の端緒
われわれにはいかにして〈超〉現実主義に抵抗することが可能となるのか。大きく二つの方向性を考えることができるだろう。すなわち、存在論と批評という二極がある。
一つには存在論――とりわけハイデガー以降の哲学者が言う意味での存在論である。極めて端的に言えば、「世界とは(あるいは限定して人間とは)この様な仕方で存在しているよね」というものである。世界はこの様に存在しているはずなのだから、この事象はこう考えることができるはずだ…などと、存在論は世界を記述する上で大前提となりうる「知」と言い換えることもできる。この存在論的レベルで言えば、絶対的な「現実」など存在しないのであり、〈超〉現実主義者に対して端的に「間違っている」と返答することができる。
もう一つには批評――何か対象に定位しつつ、扱う対象それ自体の及ぶ範囲を変更し、切断し、「別様に言うこと」を賭けるという意味での批評である。存在論的に言って、或る対象が明確で固定された一つの領域を占めるということはあり得ない。それでもなおわれわれはワタナベさんは確固たる一人のワタナベさんであると認識してしまうし、芸術作品には何か一つの確固たる「意味」があるのだと考えてしまう。すなわち、まったき「現実」だと考えられている事柄について、別様な現実への通路を開き、「現実」を失効させるという方法が考えられる。
この二つの方向は、ゼロ年代に度々繰り返されてきた「東浩紀―斎藤環論争」に即して考えることができる。東浩紀は、現代において「象徴界」が失調をきたしているがゆえに様々な問題が生じてきてしまったと論じる。正典に忠実なラカン派である斎藤環はこれに真っ向から反論し、現実界/想像界/象徴界という三複対は動かしがたい事実として存しているのであって、その機能が弱まるなどといったことは考えられないと言う。
ラカンの思想はいわば「精神分析的存在論」だ。大きな説明原理として機能する上述の三複対は、ラカンの存在論に立脚するならば絶対に保持されねばならない。しかしながら、存在論の大きな弱点は「世界はその様に存在していると言うのだから、じゃあもうそれ以上言うことはないじゃん」と言われてしまえば終わり、というところにある。象徴界の機能は担保されているのだから、特に何を問題視することもないじゃないか、というところで議論が終結してしまうのである。
存在論は思考の出発点としては極めて強力に作用するが、思考の実践としては弱い。東浩紀は、常にそのラカン=斎藤環的な実践的理論の弱さを指摘していたのであった。そして、『ゲーム的リアリズムの誕生』でまさしく現代社会における「現実」の領域がどの様な幅を持ち、機能しているのかということについて論じたのであった。
勿論、決してどちらの方策が良いという訳ではない。存在論を完全に捨象した批評は、いわゆる単なる「印象批評」にとどまらざるを得ず、理論としての説得力を持つことがなくなってしまう。存在論と批評は、思考の両輪として担保されるべきなのである。

 

●動物化時代の神――「自由」の後で(?)
「神」なるものへの問い、これは極めて「現実」への問いと近いものでありつつ、同時に両者は相反するものでもある。絶対に我有化することができないが、それでもなお、あるいはそうであるがゆえに欲望の対象であるものとして「神」と「現実」は似ている。両者は一つの理念として機能する限りにおいて共通していると言うことができる。しかしながら原理的に言って「神」は徹底的に反 – 現実的なものである。現実の中に置かれた「神」は、その究極的な機能を失効することになる。ユダヤ教において偶像崇拝が禁止されたというのは、まさしく神の絶対性――絶対的な反 – 現実性――を担保するためであった。絶対的な不在が神を神たらしめていたのである。この意味で、「神」は「現実」から最も遠いはずである。
それでもなおわれわれが、極めて現実的な諸事象に「神的なもの」を見てとってしまうという事態を考えねばならない。近年よく耳にする様になった「パワースポット」を例に挙げてみよう。パワースポットとは特定の寺社仏閣や、山、滝壺などの自然地帯を指しており、その場にとどまるだけで(あるいは瞑想するなどして)何か得も言われぬ力がみなぎってくるという事があるらしい。重要なことは、パワースポットの効能が「心が洗われる」などといった抽象的なものではなくて、神的な力によって実際に身体が元気になるといったものだということである。動物化時代の神は、まさしくこの様に現実的=身体的なところに作用するものとして存立しているのだ。
この問題に立ち入るため、最後に東浩紀が「身体」という語を用いる際の興味深い転回に言及しておこう。これは3.11以前/以降の変化よりも根本的なものである様に思われる。『動ポモ』前後では、彼は身体という語を極めてネガティヴなものとして扱っていた。すなわち、Aという刺激を受けるとBという反応をするという、純然たる機械というモデルをもとに身体を論じていた。これがすなわち「動物」的な身体のあり様である、ということである。彼は「この映画は良かった。何故なら泣けたから」という様な、象徴界の言葉がまるで機能していない言表の例を好んで用いていた。
しかしながら、ゼロ年代の後半に差し掛かるにつれ、彼は「近い人との身体の共感可能性」を一つのテーマとして掲げることになる。他者との差異を認識すること、あるいはその差異を積極的に認めること――この様な当たり前のことすらかなわぬ現代社会において、それでもなお隣の人の身体であれば理解、想像することができるのではないか、そうして初めて差異の肯定ができるのではないかと言うのである。
結局のところ「人間的な身体の回復」がテーマとなったのだ。人間的、どの様な意味で? 理性、想像力、共同、平等、自由…

(われわれを支配する現代の「環境管理型権力」を、動物化に関連付けて別様に「遊牧型権力」と呼ぼう。われわれはもはやノマドであるのではない。むしろ一定の環境下で自由に過ごさせてもらっている動物であるにすぎない。生命の安全と一定の「自由」とが保証され、その中であれば楽しく生きていけるという環境を有難く感じている動物である。飼育者の都合によりこぞって大移動することもあるだろうが、われわれは喜んで追従するであろう。
この様な状況下では「支配」に「自由」を対置することはもはや叶わない。あるいは少なくとも、その様な思考の実践に効力を期待することは難しい。「現状で構わない」と開き直っている者に対して、自由の旗を掲げることが、どれだけ彼らの「現実」に響くだろうか。自らの現実=身体の担保が第一義となっている生に、どれだけ抵抗することができるだろうか。)

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