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【Youtuber Hikakin と「映画的なもの」】

【Youtuber Hikakin と「映画的なもの」】

 

現在、すなわち「昭和90年代」とでもいうべき2015年の現代日本社会において、「映画とは何か?」、という問いかけに明確に答えることは難しい。かつて、特に「映画の世紀」とでもいうべき「昭和」の時代においてこの問いに答えるのは容易であった。映画館という外界からの光線と音を遮断した非日常的な暗闇の空間の中で、撮影されたフイルムを現像して、スクリーンに投影し、その作品を限られた上映時間において途切れなく、連続して終わりまで見続けるというのが典型的な「昭和」の「映画」のモデルであり、それに疑問を挟む余地はあまりなかったのである。

 

しかしながらこの「映画」の定義に当てはまらない、インターネットを媒介としたYoutube、ニコニコ動画、Ustreamのような多様な「映画的な」事象が見受けられる「「ポスト昭和」の2015年の日本においては、「映画的なもの」と「映画的なでないもの」とは、果たしてどのようにして区分されるべきなのだろうか。この問題を考察する上で参照したい事例として、ここではYoutubeの動画コンテンツ、とりわけYoutuberと呼ばれる人々のコンテンツを取り上げたい。Youtuberとは動画共有サイトであるYoutubeの動画再生によって得られる広告収入を主な収入源とする者をいう。実際にYoutubeの広告収入のみによって生計を立てている者の数は現在の日本においてはごくわずかなそうだが、それでも中には億を超える年収を稼ぐ者もいると言われている。

 

日本において最も著名なYoutuberの一人がHikakinである。HikakinはYoutubeにおいてHikakin、HikakinTV、HikakinGames、HikakinBlogの4つのチャンネルを運営しており、2015年4月現在において動画の総アクセス数18億回、チャンネル登録者数計530万人以上、月間アクセス1億回を超える、まさに日本有数のトップYoutuberである。Hikakinは人間の口だけでビートを刻むことで、様々な打楽器の音色を表現するヒューマン・ビートボックスのプレイを得意としており、自身のHikakinチャンネルでそのパフォーマンス動画をアップロードすることからYoutuberとしての自らの活動を始めた。

 

Hikakinの名前を一躍有名にしたのが、2015年6月17日にアップロードした『Super Mario Beatbox』である。この動画は日本国内の月間アクセス数1位を記録し、7月19日にはアメリカCBSにおいてトップニュースとして報道されることにもなった。その後2010年のYoutube世界ベストパートナーシップ500人に選出され、更に「WOWスタープロジェクト2010」でも優勝し、ラスベガスに招待されるなどその名を不動のものとした。現在ではTVやCM、バラエティ番組等にも活動の場を広げている。

 

このようなHikakinの華々しい活躍は、Hikakin信者といえる熱狂的な支持者を集める一方で、他方ではアンチHikakinという彼を嫌悪する人々を数多く招いた。特に彼がパスドラやモンストというゲームをプレイする動画や、お菓子やジュースなどの商品を面白おかしく体験する動画等は、その質が低いだけでなく、企業とタイアップしたステルス・マーケティングではないかとの批判を受けた。特にゲーム、漫画、アニメで子供達に大人気の妖怪ウオッチのグッズを遊びながら紹介する一連の動画は、Hikakinのファンの大半が子供達であることからも悪質であると非難されることが多い。

 

これらの批判や非難に対してHikakinは直接応答することを避けているようだが、デカキンというHikakinの物真似芸人が現れたり、又Hikakinの妖怪ウオッチのステルス・マーケティングを揶揄する動画が人気を博す現状に鑑みるに、Hikakinの質の低い動画によるアンチHikakinの増加自体が、一種の炎上マーケティングではないかという声も聞こえてくる。

 

ここで最初の問題提起に戻るが、果たしてこのようなYotuber達の動画、特に日本有数のYoutuberであるHikakinの動画は「映画的なもの」いってよいのだろうか。Hikakinの動画がそれを批判し、パロディ化し、揶揄する二次創作的な動画を生み出すことで、自分自身の商品価値を高めていることを考慮すれば、それは動物化した日本のポストモダン社会における、いわゆる「データーベース消費」の一例ともいえるのかもしれない。しかしながらそれは、「昭和」の「映画」のイメージから著しく逸脱するものであるのは言うまでもない。

 

初期のビートボックス関連の動画、シンガポールで2013年5月にエアロスミスと共演したことで話題となったようなヒューマン・ビートボクサーとしてのHikakinの動画は、いわゆるアーティストとしての動画であり、「映画的なもの」としての「昭和」的な映像作品の範疇に属すると言えるかもしれない。だがステルス・マーケティングとして非難される、「質の悪い」Hikakinの動画は、「映画的なもの」と呼ぶことは果たしてできるのだろうか。

 

これについては実際にHikakinの動画を見ながら判断する他ないだろう。試しにHikakinが強く批判されることが多い妖怪ウオッチ関連の動画を一つ参照してみよう。HikakinGamesに『妖怪体操アプリをやってみた』という13分足らずの動画がある。その内容自体は本当にたわいもないものであり、妖怪ウオッチの最も有名なテーマソングである妖怪体操第一を覚えるために、ジバニャンという妖怪ウオッチのメイン・キャラクターを色ごとに揃えるゲームをプレイしながら、その歌詞、音楽、体操等を全て体験していくというものである。

 

それを嬉々として遊ぶHikakinの姿は、大人げないと言えば大人げないし、滑稽と言えば滑稽で、そもそも彼は妖怪ウオッチに関心があるのか、商魂たくましくステルス・マーケティングに必死で、妖怪ウオッチファンの子供達に対して恥ずかしくないのかと批判されるのも納得がいく。しかしながら注意深く視聴していくと、少なくともステルス・マーケティングという観点だけからすれば、不必要なものが動画内にあるのに気づく。

 

何かといえば、Hikakinは妖怪ウオッチの音楽に合わせて、断続的にではあるが、ビートボックスを行っているのである。もちろんビートボクサーとして優れたアーティストと言えるHikakinからすれば、そのくらいのことはゲームをしながらでも容易く、又妖怪ウオッチの音楽のリズムを際立たせることを考えれば、無意味ではないのだろうが、少なくとも広告収入のためのマーケティングとしては必ずしも必要ではない。実際にHikainの「質の悪い」動画にはビートボックスがないものも多く、それは字義通りに「質が悪い」のである。それではこの動画におけるビートボックスは一体何を意味しているのだろうか。

 

妖怪ウオッチが大好きな子供達であれば、Hikakinのこの動画をおそらくは楽しく視聴するだろう。しかしながら、場合によっては何回も繰り返しそれを再生する中で、あるとき妖怪体操第一を体験する上で、不要なもの、違和感を覚えさせるものに彼らは気づく。Hikakinの経歴や実績を承知している我々にとっては、それがビートボックスであることに特に疑念を抱かないが、子供達にとっては、それは日常の事実性や関係性の外部にあるもの、ある種の異なもの、不気味なもの、つまり他なるものである。

 

子供達の中には、それが何であるのかを確かめるためにHikakinについて色々と調べ、彼がヒューマン・ビートボクサーという優れたアーティストであることを理解する者もいるかもしれない。そのような子供達は、間違いなく彼を一躍有名にしたあの動画、『Super Mario Beatbox』を再生するはずである。そのとき彼らは、スーパーマリオという最も馴染み深いゲームの音楽が、ビートボックスという手法で、こんなにも清浄に澄み切って響き渡り、そして流れるのか、そのことに驚くだろう。天上の音楽とまでいうと大袈裟過ぎるが、これは純真さそのものを表象しているようにも感じられるのである。

 

ヒューマン・ビートボクサーとしてのHikakinとステルス・マーケターとしてのHikakinの分裂症的な二重性をどのように解釈したらいいのか、その明確な回答は見つからないだろうし、又それは本人の自意識自体も超越しているのかもしれない。しかしながら妖怪ウオッチのステルス・マーケティング動画内に収められた彼のビートボックス、それは、彼の自意識によるのであれそうでなかれ、不気味な他なるものとしての衝撃を視聴する者に与え、『Super Mario Beatbox』の再生へと彼らを誘うことを通じて、崇高さの体験にまで導くことを可能にするのである。

 

そう考えるならばこのHikakinの妖怪ウオッチについての動画、いわゆる「質の悪い」動画が、「映画的なもの」ではないとは言い切れないのではないだろうか。それは場合によっては、「昭和」の「映画」と同じくらいの衝撃と感動を我々に与え得るのだから。

最後に結論として、「映画的なもの」と「映画的なものでないもの」とを2015年=「昭和90年」の「ポスト昭和」の日本社会において区別するならば、それは次のことに求められると言えるだろう。すなわち日常的な事実性、関係性の中に、その他者たる外部へと接続する地点を見出し得るのか否かであると。

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