印刷

「クラシック音楽における関係性の美学」

「クラシック音楽における関係性の美学」

 

近年特に2010年以後様々なメディアで「アイドル戦国時代」という言葉が喧しいほどに聞こえてくる。これはAKB48のブレイク後に多数のライブ・アイドルがデビユーしてポストAKBを争う活況を示す用語として用いられている。AKB48のブレイク以前と以後とではアイドルを巡る言説は明確に異なっており、その現象はアイドルという枠組み越えて日本の音楽シーン全体を大きく変えながら、政治・経済・社会・文化に多大な影響を及ぼしているといえる。

 

もはや国民的アイドルとなったAKB48については、「AKB商法」と揶揄されるように、推しメンと呼ばれるグループ・メンバーに対する握手会への参加や総選挙への投票のために、ファンに何枚ものCDの購入を奨励するマーケティング戦略が倫理的に非難されることも多い。ここではその是非を問うというよりも、何故AKB48のようなアイドル・グループが社会的に広範な支持を集めているのか、その社会的文化的そして思想的な背景を考察してみることにしたい。

 

AKB48の独自のそして最も魅力あるコンセプトとして、「会いに行けるアイドル」を挙げることができる。ファンは自分の推しメンと秋葉原の劇場を中心として、短い時間でも直接触れ合うことができるのである。このように音楽性よりもセクシュアリティを媒介としたメンバーとファンとのコミュニケーションを売りとするところが社会的に批判の対象とされる所以であろう。けれどもファンがアイドルに対して非日常的なカリスマ性より日常的な自分との関係、絆を求める心理的動向は、アイドルについての議論にとどまらず、同時代に共通する精神的雰囲気、エートスといってもよいものなのである。

 

この問題を考察する上で重要なコンセプトが「関係性の美学」である。これはフランス出身の理論家・キュレーターであるニコラ・ブリオーが1998年に刊行した著作『関係性の美学』に依っている。この著作は2002年に英訳され、世界的に普及したことから2000年代以降の美術シーンの理論的なパラダイムとなった。それは作品それ自体よりも制作過程も含めて作品が生み出すアーティスト、観客その他の人々との関係性を重視する考えである。そのような芸術作品は「リレーショナル・アート」と呼ばれる。日本でもこのコンセプトは現在受容され、地域振興のためのコミュニティ・アートを理論的に基礎づけている。

 

ここではこの「リレーショナル・アート」についての議論を掘り下げるのではなく、AKB48との相関性をより明確にする意味からも、現在のクラシック音楽の状況について論じることにしたい。クラシック音楽というとコンサート・ホールでかしこまって演奏を聴かなければならず、退屈で敷居が高いというのが一般的な印象かもしれない。しかしながらクラシック音楽においても現在この社会的な関係性を重視するという立場が、日本でも特に地域の公立ホールを中心に広まりつつある。

 

1998年、奇しくもブリオーが『関係性の美学』を物したのと同じ年に、アメリカの音楽学者クリストファー・スモールによって『ミュージッキング』という著作が刊行された。「ミュージッキング」というと一見何を意味するか分からないかもしれないが、スモールはこの独自概念によって音楽をモノ=作品としてとらえるのではなく、「音楽する」という活動として捉えている。音楽とはモーツアルトやベートーヴェンのような過去の大作曲家達の作品の演奏をただ静かに座って聴くことではなく、リハーサルや練習も含めて音楽によって作られる人間関係、つまり演奏者、観客、ホールスタッフ、チケット販売員、警備員や清掃員等による全ての人間関係の総称なのである。

 

これは従来のクラシック音楽の常識に著しく反する極めて挑発的な議論のように思えるかもしれない。しかしながら現在我々がクラシック音楽と聞いて一般的に思い浮かべること、例えば、照明が落とされ、周囲から隔絶された非日常的なコンサート・ホールの中で、過去の古典的で精神性の深い高級な音楽を、真剣に集中して聴取するという音楽的態度は19世紀に成立した西洋市民社会の中で作られた演奏会様式であり、それ以前の音楽が今でいうBGMのようなものであった西洋の宮廷音楽の歴史を顧みれば、必ずしもおかしなことではないのである。

 

このことは音楽史的にいえば20世紀以降、特に1970年代から80年代にかけて前景化した古楽の復活とも関連する。古楽の復興運動は、19世紀のロマン主義を思想的背景とする、近代楽器を用いた大編成で大音量の近代オーケストラの演奏に対するアンチテーゼとして生じた。バッハの音楽を、バッハの時代の楽器を用いて、バッハの時代の演奏方法で演奏しようという理念に基づき、バロック・ヴァイオリンやフォルテ・ピアノ、リュートにチェンバロ、ヴィオラ・ダ・ガンバ等の古楽器が再現され、それを用いた小編成によるノン・ヴィブラートの速いテンポでの演奏が理想とされたのである。

 

このような古楽器の演奏こそが音楽の「真正さ」を体現しているという考えは、元来アカデミックなものであり、特に日本では20世紀初頭の後期ロマン派の時代にクラシック音楽が積極的に輸入され、フルトヴェングラーのような神格化された大指揮者が人気を集めたという歴史的背景もあったために当初はあまり広がりを持たなかったが、最近では通常の演奏会においても鑑賞できるようになってきた。そしてこの古楽演奏が違和感なく受容されるという特に80年代以降の社会的背景は、「関係性の美学」というブリオーのコンセプトが象徴するような、作品よりも社会的な関係性を重視する同時代的エートス、AKB48の「会いに行けるアイドル」やスモールの「ミュージッキング」の思想を基礎づける精神的雰囲気と同様なのである。

 

なぜならば古楽器の演奏は少人数で、小音量の、軽快なものであるために身体的な接触を伴う日常の社会関係とは親和的であり、作曲家も同時代の人間としてカリスマ的な神聖視を免れるために、気軽に作品としての音楽と接することを可能にするからである。大規模で大音量の重厚な近代オーケストラの演奏が、非日常の空間で、神格化された巨匠たちの音楽を、真剣に集中して聴取し、自らも精神的に陶冶されることを強いるのとは対照的であろう。

 

以上の議論を踏まえながらここで昭和とポスト昭和=平成との同時代的エートスの相違を整理・類型化してみよう。昭和的なエートスにおいては様々な芸術・文化の表現において非日常性、作品・作者のカリスマ性、精神性、真剣さが重視される。それに対してポスト昭和のエートスにおいては日常性、作品や作者が生み出す社会性・関係性、身体性、気軽さが求められるのである。

 

この図式化は、もちろんのことだが、昭和的なエートスに対するポスト昭和的なエートスの優位性を必ずしも意味するわけではない。確かに東西冷戦下のイデオロギー闘争を前提とする昭和的なエートスが、一般の人々の日常生活を犠牲にすることで成立していたことへの徹底的な反省は必要であろう。しかしながらポスト昭和的なエートスの一番の問題は、社会性や関係性にあまりに焦点が当てられるために作品や作者がそのための媒介項に過ぎず、その形式や内容のあり方がほとんど問われなくなる点にあると私は思う。芸術や文化の表現が社会性や関係性の延長線上にしかないならば、それは既存の社会から切り離された新しい価値観の創造というこれまで果たしてきた役割を担うことは、到底できなくなってしまうのではないか。

 

この点においてクラシック音楽で留意してほしいこととしては、パーヴォ・ヤルヴィの演奏がある。彼は父親に世界的な指揮者ネーメ・ヤルヴィを持つエストニア出身の指揮者であり、今年2015年の9月からはNHK交響楽団の首席指揮者に就任することも決まっている。2006年に日本公演も行われたが、彼がドイツ・カンマーフィルを指揮したときのベートーヴェンの交響曲の演奏は、古楽器演奏と近代オーケストラの演奏のどちらにも分類できない例のないものであった。小編成の近代オーケストラを基本として一部に古楽器を取り入れる彼のいいとこ取りの演奏は、世界的に大好評を博して現代最高の指揮者の一人としてその世界的な名声を確固とした。いわばこれは昭和的エートスとポスト昭和的エートスのハイブリッドな表現の成功事例といえるのではないか。

 

もっともパーヴォ・ヤルヴィの演奏が同時代の関係性への志向を充分に満足させ得るかというと、コンサート・ホールでの昭和的な音楽の聴き方を前提としている以上、彼自身にクラシック音楽ファンに限定した人気と集客力あるとしても、やはり限界があると言わざるを得ないだろう。音楽、特にクラシック音楽において関係性を重視する以上、それは室内楽の形態を取る他はない。私が今着目しているのは19世紀西洋市民社会における「家庭音楽」である。この時代はコンサート・ホールにおける現在の非日常的な近代オーケストラの演奏様式が発達した一方で、より身近に家庭内で家族と少人数の聴衆との間で音楽を嗜むという習慣があった。それは演奏を通じた心の交流の場であるとともに、演奏の形式と内容を巡るたゆまぬ自己研鑽の場でもあった。スモールの「ミュージッキング」の思想に傾聴すべき点が多々あることは認めるとしても、音楽が生み出す関係性を演奏や作品からあまりにも乖離させすぎてしまうとろにやはり問題はあるだろう。社会性や関係性を維持しつつ音楽表現の創造性を維持する場としてこの「家庭音楽」的な空間を現代に創出してみることは、ポスト昭和的エートスの提示した課題に対する一つの回答になり得るかもしれない。

文字数:3981

課題提出者一覧