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映画的である映画体験

映画という表現形式は、大量の視覚情報と聴覚情報を流し込むことで、受け手の意識を普段のそれとは違えたままの状態にし、数時間の間すごさせることを可能にする。だから映画はやはり、映画館という箱のなかに閉じ込められた状態で、観るべきものなのではないか。映画館で観なければ映画にならないかというと、そんなことはないけれども、テレビ画面やPC画面で観る映画というのは、作品としては同じでも、体験としては別の物だ。余韻の深さが異なる。

たとえば、塚本晋也監督の「野火」(2015年7月25日公開)を観るとき、そのように感じる。この作品は大岡昇平の同名小説を原作としており、太平洋戦争時にフィリピンのレイテ島に派兵された兵士たちの苦しみが描かれている。主人公である田村一等兵が、密林の中をひたすらさまよう場面が続く。その土地の住民から食料を奪う場面、狂乱のような混乱に襲われる中で殺してしまう場面、飢えと疲労で折り重なるようにして道端に倒れている日本兵の体、体を覆う蛆虫、蛆虫を口にする彼ら、迫りくる飢えから逃れるための衝撃的な行為など、過剰なほどの映像と激しい音は、自宅での鑑賞であったとしたら、たちまち停止ボタンを押されかねないものだ。だが、映画館という空間は、観客を大画面に正対させ、逃さない。たとえ薄目がちに眺めることになったとしても、彼らは、だんだんと確実に作品の中へとのみこまれてゆく。

なにかを、思いだしているのではないか。映画を観ている時、私たちは。観終わった後の余韻というのは、体の内面に響きわたる音のようなものだ。そしてエンドロールが終わって明りが点くまでの気持ちは、そのときまで分からない。地面を掘っていった先に、なにが埋まっているかわからないように。

思いだすためには、集中することと気持ちをひろげること、これらを同時に行う必要がある。そのための暗闇なのだ。そして、しばらくのあいだ動かないぞ、と、心に決める必要がある。そのためのあの密室なのだ。

観客の、映画を観る、という決心に支えられていたのが、映画館での映画鑑賞だった。最近は、インターネットで動画を大量に観ることができるが、その場合だと全く逆で、ひまつぶしとして眺めている可能性が高い。観客は受信待ち状態だ。この状態は、映画的な映画体験ではない。映画的であるかを問う時には、作品そのものを対象とする以前に、観賞スタイルを問うべきなのかもしれない。

では、映画館で上映されればすべて映画になるのか、というと、そんなことはないだろう。映画の特徴である、観客の意識状態を変える、という点が機能している作品である必要がある。ここで上述の「野火」に戻ると、視覚情報と聴覚情報をぴたりと貼り合わせることで、強力な意識変容作用を呼び起こすのは、塚本監督が得意とするところである。つまり、目と耳しか使っていないのに、鼻や舌や皮膚を使用したときの感覚をよびおこすのだ。これによって観客の意識は、あたかもそれを体験したかのような状態になる、いや、自分の記憶の中にある似た場面を思い起こし、想像によってそれを変形させ、疑似的に体験する。思い起こすときに記憶の掘り下げが行われ、想像によっていつもの自分とは違う角度から、記憶を眺めることができるようになる。これが余韻の正体なのではないか。だからこそ、内面に響く音のようにかんじられるのではないか。普段の意識状態では到達できない場所へたどりつくための手段、それが映画鑑賞なのである。映画的である映画体験とは、これを可能にする映画鑑賞のことであり、時に、癒しにも似たものである。

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