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「ポスト昭和」と、苺ちゃんのこと

昭和と平成の違いについて考えていたら、基本的苺権、ということばを思いついたときのことを、思い出した。震災後、福島の農家の男性が、栽培した苺が売れない、と語る映像をみていたときだ。彼はとても悲しんでいるようにみえた。収益の面で、というよりもまず、自分が大事に育てた苺ちゃんたちが、なぜ認められないのか?ということを嘆いているようだった。彼にとって苺は、食べ物ではなく、人間であるかのようだった。もちろん、人間に食べられる存在であるわけだから、人生と苺生にはかなりのちがいがあるわけだけれど、社会に組み込まれた苺が、人間に存在を認められないと、ただしおれて死んでゆくことになってしまう。栽培された苺にも、栽培された苺として生き抜く権利、基本的苺権というものがあるのではないか?苺農家の男性は、もしかしてそういうものを見出しているのではないか・・・?もちろん、仮にそれがあったとしても、苺が権利を行使するってどういうことなのか、とか、苺は権利を主張し得ないじゃないか、とか、苺農家の人間が後見人・代理人になればいいんだ、など、混沌としてくるわけだが。

そもそもは、昭和と平成の違いについて、「ポスト昭和」について、考えていたのだった。考えていたら、こんなところまで行きついてしまった。

平成らしさ、というのはなんだろう。そもそも、昭和・平成というけれども、単に年号が変わっただけだ、とも言える。現代の改元は、治世する者の交代を意味するわけではないから、年号の変化が、社会の変化に直接的に影響する、とはいえないだろう。とはいえ、平成元年は西暦で言うと、1989年なので、バブル崩壊の手前あたりだ。つまり平成が年数を重ねたときと、昭和が年数を重ねたときの、経済状態の変化が対照的である(前者は下り、後者は上り)ために、昭和と平成の間に隔たりがあるような感じはたしかにするかもしれない。けれども、年号の変化とそれは、別々の話である。ただ、年号があらたまったことは、なんとなく大きな出来事に感じられ、人々の気分が新しいなにかを求めはじめる、ということはあるかもしれない。また、年号の変化と直接は関係ないが、同時期に起きた経済の低迷により、大きな変化を起こすことができなくなっているともいえるかもしれない。このように考えてゆくと、社会の中に積み重ねられている思考や実体は昭和の延長だが雰囲気は平成、それが今、ということになる。

むしろ、平成とは「雰囲気」のことなのではないか。本質の変化がないまま、どこか新しくようとするとなると、「空気」や「雰囲気」の変化で気分を変えようとすることになる。たとえば2007年に『「婚活」時代』という本が出版されて以降、「婚活」ということばが広がった。「終活」ということばも、2009年以降、浸透していった。結婚相手を探すことも、死への備えも、行為としてはもちろん新しいものではないにもかかわらず、あらたにことばを与えられ、捉えなおされていった。それは、現在の社会状況に合っていたから、という見方ももちろんできるが、「活動」ということばを付け、且つ、略すことで生ずる勢いや気配、つまり、ことばに含まれる「雰囲気」を変えようとする姿勢が、平成に求められているものと合っていたからなのではないか。スマホの急速な普及も、ネットからすぐに新しい情報を得ることや、さまざまな種類のアプリを楽しむことで、自分の心の「雰囲気」を変えたい、と私たちが切望しているからなのかもしれない。また、社会の「雰囲気」を変えたい、という人々の望みは、既得権益を壊す、という主張をする政治家が支持を得ることからも読み取れる。

この、昭和の強固さとは、いったいなんなのだろう。それは、昭和という時代が、戦争による影響から遠ざかろうとする推進力によって作られたからなのではないか。大きな損失や痛みは、新しいものを入れるための、大きな空間にもなる。このとき積み重ねられた思考や実体が、平成という新しい年号が使われる時期に至ってもなお、使われてきた。しかし、2011年に起きた震災は、ある意味、次の断面を生んだ。社会の本質が変化し、平成が実体を得るとしたら、むしろこれからだろう。そして震災時の損失の影響は、人間以外にも及んだ。

ここで、冒頭の苺ちゃんの話に戻る。栽培された苺にとっての幸せがなにかというのは、わからないことだが、社会の中で幸せに生きること、を考えるときに、権利、ということばが生ずる気がする。権利、と表記すると、とたんに硬くてとっつきづらい印象になってしまうが。一番ちいさな社会の単位が夫婦であるとするなら、夫の、たまにはかっこいいといってほしい権(権利なのか?わからないが。だが、いわれたほうが幸せになりそうだ)だとか、妻の、時には花束を贈られかつ花瓶の水替えもしてもらえる権というものだって、あるかもしれない。もっともっと細かく考えていってもいいかもしれない。さまざまなスマホアプリがあるように。子どもができたなら、子どものことも。猫を飼うなら、猫のことも。植物を育てるなら、植物のことも。社会の構成員を拡大して考えていく。人間ではない生き物も、人間社会に巻き込んでいる現状を認めることで、社会や権利や、幸せについてみつめることになる。それが、戦争という、人間対人間の枠にはまっていた昭和の考え方を抜けて、「ポスト昭和」に至るということではないか。基本的苺権というのはかなりとっぴだけれども、ともするとかなり不思議なかたちをともなって、あらわれるのかもしれない。「ポスト昭和」ということばのおおきさとは対照的な、些細ともとれる、ちいさなちいさなものであるのかもしれない。

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