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「時代」の亡霊――テクノロジー以後の「想像」的カタストロフ

95年にインターネット普及し始めて、00年/10年代にはインターネットの環境、整備は完成を迎えた。私たちはインターネット上に存在する膨大な「データベース」に容易にアクセス可能となったのである。90年代が80年代のカウンターカルチャー/思考=志向であったとするならば、00年/10年代は、本来90年代のカウンター――すなわち相対化するべきなのだが、90年代のカウンターでないばかりか、根本的に何も変わっていないこと、あるいは明瞭な価値観、相対的な思考の無さに些か唖然とさせられる。端的に言っても、00/10年代は「前時代」が残した「データベース」を消費しているに過ぎないことは明らかである。

この「データベース」の消費は音楽、映画、文学、絵画など芸術文化の世界にも多大なる影響を与えている。現在地から過去をざっくばらんに眺めても、既に多くの作品/方法論と共に多層的なデータベースを成している。これらを踏まえて新たな作品/方法論を生み出すよりも、既にある方法論や作品を参照し、従来とは異なる組み換えをした方が効率的であり、そこに内在する時代の残香を感じさせた方が、万人受けしやすいのかもしれない。あるいは、過去を知らぬ新世代の若年層に向けて、過去のものを現代風にリ・アレンジし直すだけで、全く持って新しいと勘違いさせることも可能であろう。すなわちそれはある種のリヴァイヴァルなのだが、このリヴァイヴァルはその時代/文化を過ごした人間の時間と、リヴァイヴァルが生じた際に「過去」を現在に原体験する若年層の二つの時間が存在することになる。つまり、「過去」と「現在」が同時に表出するという不可避的なパラドックス現象なのである。

例えば、この現象が最も顕著なのが音楽かもしれない。00年代後半からテン年代にかけて、過去に解散したバンドが次々と再結成する=再結成ブームが起きた。ここで具体的にどのようなバンドが再結成したか、その固有名詞を列挙するようなことはしないが、80年代から90年代のバンドまで様々である。では、何故このような現象が起きうるのだろうか。この背景には――やはりと言うべきか、一つの要因であるにせよ、インターネットが深く関与しているのは間違いない。周知の事実のように00年代以降、急速なインターネットの環境発達・整備によって、私たちはあらゆるものにアクセスが容易に可能となった。したがって、過去のどの「時代」よりも「過去」の蓄積=データベースを消費しやすくなり、またどの時代よりもそのデータベース量は比較にならないほどの膨大な量を誇るのである。したがって、00年/10年代はこの膨大なデータベースとそれに対する過程の圧縮的なアクセス方法を得たことにより、文化、思考の相対化よりもまず消費に走ればいいわけである(というより消費に走らないといけない強迫観念?)。しかし、このインターネットを介したデータベース消費もさえも、80年代の高度消費社会の延長であるに過ぎない――「物」から「データ」に変貌を遂げた「時代」の亡霊に私たちは憑かれているのである。

 

しかし、インターネットによる最高度のデータベースと容易なアクセス方法を得たにも関わらず、私たちはそれを万事思い通りに使いこなしているとは言い難い。これは極めてアンビバレント且つアクチュアルな問題でもあり、人間とテクノロジーの乖離ともいうべきものである。何故ならば、インターネット=テクノロジーによる過程の圧縮により、思考の過程が失われてしまったからに他ならないからだ。例えば、点Aという事物から点Bという事物を考える上で、重要なのは線――思考の「過程」である。つまり、私たちはアクセスの圧縮=簡易化と引き換えに思考の過程をテクノロジーに明け渡したがために――膨大な量の問題があるにせよ――インターネット上のデータベースを使いこなすに至っていないである。

この現象を「機械化する身体と思考」と呼びたい。無論これは断じて、テクノロジーの発達共にある――サイボーグなど言った人間の漸次的進化ではない。むしろ、テクノロジーに絶えず接続し、主体性と能動性を奪われたことを指している。例えば私たちがGoogleなどの予測検索は際限のない世界に誘うのではなく、有限の世界に閉じ込めるように機能している。この予測以上の更なる予測を手に入れるには、ある程度のリテラシーと経験を得るに他ないだろう。さらにテクノロジーのスペックによって可能/不可能な問題も生じてくる。私たちはテクノロジーに――従事する事によって――なしくずし的に「想像」のを奪われたのだ。

しかしである。ここまで述べてきたことはテクノロジーの可能性を使いこなせていないことにすべて起因するものだ。あるいはこれはテクノロジーが人間の知覚を変えてしまう絶対的な可能性を多分に秘めているという逆説にならないだろうか。このテクノロジーの可能性を人間の側に如何に引き出すか。それがこの先私たちがテクノロジーを人間の側に引き寄せ、新たな知覚と思考方法を手に入れ、「前時代」と決別することになるかもしれない。

では、このテクノロジーの可能性を人間の新たな知覚と思考に類い寄せたものがないかと問われれば、ノーである。95年以降はエディションズ・メゴというピーター・レーバーグによるテクノロジーを緩急したノイズ=テクノイズと呼ばれるものが表出され、日本のノイズユニット、メルツバウなどもこれに当たる。また昨年公開されたジャン・リュック・ゴダールによる3D映画『さらば愛の言語よ』も3Dテクノロジーの歴史を切断し、新たな知覚と思考を人間の側へ呼び込んだ。これらに通じるキーワードは積極的なテクノロジーの「誤用」である。正規のテクノロジーの使用方法は全くことなる――誤った使用により、テクノロジーの可能性を提示したと同時に人間の想像/創造性を引き寄せた。

今後新たなテクノロジー・ツールは次々と開発されていくであろうが、その都度私たちの真の意味で思考や知覚がテクノロジーによって拡張されるか、縮小されるかは「テクノロジー」に対する相対化、そして想像的使用法にまずはかかっている。

2015年現在、ゴダールやテクノイズ勢のようにテクノロジーを乗り越えた時――それによる新たな知覚と思考方法を手に入れたとき、歴史は切断され「過去」のものとなる。そして、それはテクノロジー以後の「想像」的カタストロフをも葬り去ることを意味するのだ。

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