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スタンリーとイェルナッツの対話

まず以下に記す「対話」について、簡単な注意事項を述べます。その一、スタンリーとは私のことです。この「対話」は私の創作したフィクションですが、スタンリーの発言は私を元にしています。その二、スタンリー以外は架空の登場人物です。これは、イェルナッツと飯梨九斗(いいなし きゅうと)のことです。その三、今回の課題文でもっとも注力したことは「対話形式」にするということです。注意事項は以上になります。

 

スタンリー 批評再生塾の第一期も終わりが見えてきました。私にとって二〇一五年はインプットの一年間だった。批評、映画、音楽、文学、美術、身体、社会、哲学など、批評再生塾での課題を中心に様々なものを吸収してきた。批評再生塾を通して批評の豊かさに触れてきた。ここで触れてきた豊かさが私にとっての原点で、批評とはそもそもジャンルを越境するものなのだと考えていました。そして、様々なジャンルについての課題が出されるたびに関連する著書を探し、その歴史を振り返ってきた。ところが、『ゲンロン1』の「昭和批評の諸問題1975-1989」や大澤聡さんが作った批評史年表をみて愕然としました。知らなかった固有名で溢れていて、自分は批評の本道とはだいぶズレたところを歩んでいたのかもしれないと気付きました。

 

イェルナッツ 批評再生塾の第二期の始まりが見えてきました。あなたにとっての二〇一五年はアウトプットの一年間だった。批評再生塾の課題に対して様々なものを創出してきた。また、批評再生塾を離れて批評の乏しさに触れてきた。その乏しさがあなたの原点でしょう。

 

飯梨九斗 あらゆるものに対する批評の言葉は丸裸で酸素の無い宇宙を漂ってしまう。どこにも届かない。かつてのあなたの郵便受けも、宇宙に漂ってしまった批評の言葉を受け取ることは無かったはずです。「昭和批評の諸問題1975-1989」に出てくる固有名の負債はその閉じた郵便受けのせい。批評の乏しさとは、かつてのあなたと同様の態度をあなたの友人が取っており、批評の言葉が届かないことでしょう。

 

スタンリー 確かに、この一年間をアウトプットの年だと考えると、今後の批評の「在り方」がどうなっていくのか、少し悲観的になってしまいそうです。仮に今まで書いたものをブラッシュアップしたとして、どういった媒体で読者の目に触れられるのかなかなか先が見えてきません。批評の話は批評再生塾以外ではあまり通じないという感じが私にはあります。

 

イェルナッツ この一年間をインプットの年だと考えると、今までの批評の「在り方」がどうなっていたのか、少し楽観的になります。事実これから書いていくものはさらにブラッシュアップされたものだろうし、そういったものはなんらかの媒体で残るでしょう。あなたが小泉文夫や安達巌に出会えたのも書籍として残っていたからです。

 

飯梨九斗 しかし、残るのは文章のブラッシュアップとは関係がないというかそれは大前提。むしろ大学図書館に置いてもらうことが重要です。少子化とはいえ大学進学率は高まっているのだから大学図書館にあれば批評の言葉も届くかもしれない。でもあなたはそれがきっかけではないでしょう。固有名の負債を抱えているのはなぜか考えてみれば分かります。

 

スタンリー 固有名の負債はこれから時間をかけて支払っていく所存です。それでも面白く読めてしまうのが批評でもありますね。私は近代文学をほとんどまともに読んでこなかったのですが、小林秀雄の「私小説論」は面白く読んでいました。「近代日本の批評」ではつまらないと言われていますが。田山花袋の『蒲団』やモーパッサンの『女の一生』は「私小説論」の後で読みました。「昭和批評の諸問題1975-1989」も出てくる固有名は分からないものが多いのですが、討議者の提示する時代区分がとても面白い。たとえば、六十年代は歴史や意味に固執していて、八十年代は構造や情報に移った、七十年代は過渡期的な時代だとする見方は批評っぽい。あるいは、大澤聡さんが、「ニューアカ期+α」の前に「プレニューアカ期」という区分を設けています。ニューアカ期から遡行的に豊穣さが発見される期間。しかし、ニューアカの母胎となっていた豊穣さがニューアカ期+αではなくなってしまうわけですね。こういう時代区分は、固有名を知らなくとも面白く読める。ちなみに、タイトルに「昭和」と入っていますが、東浩紀さんが冒頭あたりで「昭和50年」と言及する以外は西暦で語られていますね。

 

イェルナッツ 固有名の資産はこれまでの時間で積み上げられたものです。だからこそ面白く読めるのが批評でもありますね。あなたは近代文学を少し読んできた。小林秀雄を面白いと思ったのは知っている固有名で溢れていたからでしょう。内容は知らずとも田山花袋の『蒲団』の存在は知っていた。あるいは、「昭和批評の諸問題1975-1989」で出てくる固有名は知らなくとも、討議者である市川真人、大澤聡、福嶋亮大、東浩紀のことは知っていたでしょう。

 

飯梨九斗 批評の言葉が届かないのはあなたが一番良く体感しているはず。かつてのあなたにどうやって届けることができるかを考えれば分かる。あなたが批評を知る事ができたのはほんの偶然に過ぎない。

 

スタンリー イェルナッツさんの指摘はあっています。しかし、時代区分の面白さは知っている固有名があるからという理由だけではないです。批評とはあまり関係のない歴史ですが私にも歴史観があります。例えば、バングラデシュです。バングラデシュは一九七一年にパキスタンから独立を果たしますが、四年後の一九七五年に建国の父ムジブル・ラーマンが暗殺されます。以後、九一年まで軍事独裁政権が続きます。共同討議で語られる七五年での切断がちょうどパラレルになっているんですね。こういった切断点の偶然の一致が批評的な接続の欲望をかき立てるということはあるような気がするんです。私の例は少し日本の批評から離れ過ぎてしまっていますが。

 

イェルナッツ スタンリーさんの言うことは間違っています。

 

飯梨九斗 しかし、さっき言ったように、批評の言葉は届かないですよ。あなたが批評を知る事ができたのはほんの偶然に過ぎないのですから。

 

スタンリー イェルナッツさんも飯梨さんも、だんだん機能しなくなってしまいました。おそらくプログラムが単純すぎたのと私の投げかける話題が安定していなかったのが問題でしょう。

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