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「機能」と「間」〜分離された人とモノとの出会いの想像をつうじて〜

アマルティア・センは人の「生き方」や「在り方」をそのまま評価しようとした。その態度自体は別段驚くべきことではありません。「善い生き方」(well-being)についての判断は、所有している財(モノ)、あるいは感じている効用/幸福をつうじてなされてきたが、このどちらに対しても否をつき付けることはそう難しいことではないからです。しかし、「生き方」や「在り方」を表すセンの「機能」(functionings)という概念は、人の状態を表すというよりも、人とモノとの「間」や「出来事」そのものであると解釈するべきものでしょう。

 

「機能」はどのように見いだされるのか(★1)。まず個人がモノを所有している。そのモノを《特性》の束としてみる(★2)。《特性》とはモノに備わる利用価値のことで、例えばパンであれば、栄養を満たす補給性、会食を彩る交遊支援性、売って貨幣を得る交換性といったものになる。人は、特定の利用パターンを用いてモノに備わる多様な《特性》を引き出し「機能」させる。当然、モノに対する利用パターンは人によって異なる。その人が小麦アレルギーであれば、補給性を「機能」させる利用パターンは選択されない。なぜならその利用パターンを選んだ場合、その人には苦痛が付随するからである。このように、「機能」とはモノに備わる《特性》の中から人によって引き出されたもの、あるいは引き出されうるものなのです。それゆえ「機能」は可能動詞的(what he/she ”can do” or “can be”)に表現されます。「栄養を摂取できる」、「会食を彩ることができる」、「売ることができる」あるいは、「パン屋になれる」といった具合です。しかし、このような「機能」の導かれ方には注意を払わなければなりません。モノを《特性》の束としてみなすことは、《諸特性》を束ねればモノができあがることを意味しません。モノは《特性》のレベルで分離可能であるが、《特性》はモノを構成する部分ではなく全体です。選ばれた《特性》が全てであり、他はありえたかもしれない《特性》の亡霊のようなものとなります。現前する一つのパンは人によって特定の《パン》=パンに変形するのです。そして当然、どのような変形がなされるかは人によるが、それはまた人が相互に異なっていることを意味します。センは人の違いについて「外的特徴」と「個人的特徴」の二つに分けて説明しています。「外的特徴」とは、その人の自然的・社会的環境下における位置づけ、つまり住んでいる地域や属しているコミュニティの違い。「個人的特徴」とは年齢、性別、身体的・知的能力の違いといったものです。人同士のこのような差異がその人特有の《モノ》=モノとなるゆえんなのです。

 

ここで注目したい点は、現前する一つのモノにおける《特性》の複数性と、個人に関する《特徴》の複数性です。モノに様々な《特性》を見いだすのと同じように、人についても様々な《特徴》を見いだしています。つまり、AさんとBさんの差異が多様であるのではなく、Aさん自身を表す《特徴》が多様であるとうことです。《特性》と《特徴》によって「機能」が現れます。図1はそれを示しています。左側にあるものがパンを示し、右側のが人です。パンには複数の《パン》があり、人にも複数の《人》がある。それらは一つで全体をあらわすこともあれば、複数が合わさって全体をなすこともある。《パン》や《人》は随時肥大化と現前化を狙っています。「機能」はこの《パン》と《人》との化学反応なのです。そして、「機能」が現れる時、そこには《パン》としてのパンがあり、《人》としての人があるのです。

図1
図1

気をつけなければならないのは、「機能」は化学反応それ自体であり酸化だということです。図1で言えば、緑と青の斜線で塗られた上方向の矢印そのものです。酸化の結果として出てきた錆ではなく、「錆になること」です。つまり「機能」は「出来事」なのです。では「出来事」はどこに生じるのでしょうか。図2は図1をさらに抽象化し、その上で実在のモノと人の数を一つ増やしたものです。例えば、一つ一つの丸はモノの《モノ》、四角と三角はそれぞれ別々の人の《人》を示しているとしましょう。一対の丸と四角は《モノと人》を示し、四角と三角は《人と人》を示す。さらに丸と四角と三角は《モノと人と人》の三つの要素の連なりを示している。「出来事」はこれらの「間」に他なりません。一見空白にみえる場所が「出来事」です。図2には実在物が三つしか想定されていませんが、実際にはわれわれの住む惑星は人やモノで埋め尽くされています。キャンバスは無数の《特性》と《特徴》、そして「間」で埋め尽くされ、いたるところで化学反応が起きています。そして化学反応がおきたところに《人》としての人と《モノ》としてのモノの実在があります。

図2
図2

 

「善い生き方」を示すとされる「機能」。財はモノへの着目であり、効用は人への着目であるが、「機能」は《人》と《モノ》との「間」への着目でした。何を所有していれば「善い」のかでも、どのくらい幸福を感じていれば「善い」のかでもない。他の《人》や《モノ》との「間」が「善い」のかどうかが「生き方」の評価として適切である、と。しかし、「間」とはなんでしょうか。ある二つのモノをそれぞれ適当に配置することで「間」が見出されます。しかし、それは「生まれる」ものなのか、あるいはすでにあるものの「可視化」なのか。この疑問は不平等の是正を実践する際に極めて重要な意味を持ちます。センは「機能」を「生まれる」ものとしています。それは「機能」が関数式によって見いだされていることからもわかるでしょう。化学反応は適切な材料を揃え、適切な順序で実験をおこなえば何度も同じ化学反応を起こすことが可能です。「機能」が計算的に生産可能なものであれば、果たすべきは《人》と《モノ》の精査と配置です。しかし、もし「可視化」であるならば、「機能」の導かれ方を変更しなければなりません。つまり、「A × B = C」ではなく、「A—C—B」とする必要があります。この変更は「C」=「機能」が何かによって数学的に導かれるのではなく、偶発的にそこにやってくることを意味しています。つまり、「機能」は《モノ》や《人》から切断され独立して存在しているということです。「機能」が独立したものとしてあるのならば、われわれは「機能」そのものを精査し配置しなければならないでしょう。しかし、純粋に偶発的なのでしょうか。そうであるならば、全くあり得ない事柄がしばしば生じるはずであるが、そのようなことは概して無い。全くあり得ないことは文字通り全くあり得ないでしょう。しかし、「A × B = C」とすることも物事を単純化し過ぎてはいないでしょうか。

 

適切な材料を揃え、適切な順序で実験をおこなっても異なる化学反応が起きてしまうことがあります。その原因には、小さな塵が混ざり込んでしまったり、気温や湿度が異なっていたり、タイミングに0.0000000001秒の誤差が生じるといったものがあげられるでしょう。このような実験のノイズを排除することは理論的に可能でも実践の上では不可能に近い。現前してくる「機能」にも同じことがいえるのです。複数の《特性》と複数の《特徴》が浮遊している空間において、どの《特徴》とどの《特性》との「間」が強く現前してくるのかを正確に予測することは難しい。ある《特徴》とある《特性》を組み合わせようとしても、他の《特性》や《特徴》がノイズとして刻まれることは往々にしてあるでしょう。そのような予測はどこまでいっても不確実性を脱しえません。だからこそ、「出来事」は偶然そこにやってきた「かのようなもの」になりがちなのです。「間」が具体的な「形」で現れることにはそれなりの理由が確かにあります。しかし、その理由を予め的確に整えておくことは難しい。人の「生き方」とは人自体の状態や動きではなく、《特徴》と《特性》との「間」のことであるということは、常に予測不可能性を孕んでいると言えるのです。この配慮は、他の「あり得る(た)」組み合わせに対しての目配せを常に要請しています。不平等の是正のようなものは、何かを充足させればよいというものではないということです。

 

では、「機能」が化学反応ならば、「錆」はなんでしょうか。「錆」とは結果であり幸福あるいは不幸です。人は「出来事」に幸福を見出す。あの不安定な「間」からの反動によって人は幸福を感じます。センは幸福よりも「機能」を重視しました。それはジェレミー・ベンサムからはじまる功利主義的な帰結主義への抵抗です。「彼ら(虐げられた人々)は、小さな慈悲にも大きな喜びを見いだせるように自分自身を訓練している」(★3)とセンが述べているように、効用や幸福は生活環境の劣悪さを覆い隠すことがあります。しかし、事後において幸福か不幸かの確認を怠ることはしません。それはパターナリズムへの抵抗でしょう。ともあれ、「機能」は幸福に先行するだけでなく、「機能」によって幸福ははじめて感じられるものと言えます。つまり「間」こそが、われわれに幸福あるいは不幸をもたらす。誰かを好きになるということ考える時、まず「好きになる」という「出来事」が浮遊しており、それが《私》と《相手》の「間」に代入されると想像すること、それが他のあり得たかもしれない「機能」のことなのです。

 

★1 公式は「bi = fi ( c ( xi ) )」となっています。xiは個人iの所有する財、cは財を特性に変換する関数、fiはその特性を機能にするために個人iがおこないうる財の利用パターン、そしてbiが個人iの達せしうる機能です。

★2 財(本稿ではモノ)を特性(characteristics)とみなすことについてはゴーマン(1956)とランカスター(1966)を参照。

★3 アマルティア・セン、池本幸生訳『正義のアイデア』(2011)明石書房、p.406

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