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麦と小豆とアンパンについて

確認できる日本最古の小豆は弥生時代だそう。山口県天皇遺跡と静岡県登呂遺跡などからその遺物が発見されています。一方、小麦が日本にやってきたのも弥生時代。こちらも遺跡から大・小麦の種子の出土が確認されています。どちらも古くから日本に伝わる食材ですが、小豆から作られるアンコが日本を代表する食材として扱われる一方で、小麦から作られるパンは西洋からきたものとされています。ノンフィクション作家である佐山和夫の「パンにおける和洋折衷の傑作がアンパンだった」(★1)という言葉に共感する人は多いでしょう。あるいは、やなせたかしがアンパンを「和魂洋才の賜物」と褒めたのは、和の象徴であるアンコと洋の象徴であるパンの組み合わせに感銘を受けたからに他ならない。

 

和を象徴し、和菓子には欠かせないとされるアンコですが、甘いアンコが見出されたのは室町時代。甘味料としての砂糖がみえはじめるのが鎌倉時代の末期で、室町時代の中期にそれが小豆餡と合わさります。当時の砂糖は貴重品であったため、一般庶民が口にできるようなものではありませんでしたが、江戸時代あたりから砂糖の普及も進み、アンコも一般大衆向けになっていきます。戦乱を終えたこの時代では、平和なぶん和菓子作りに注力できたため、歴史学者の赤井達郎が言うように「元禄末(一七〇〇)にいたって和菓子としての大成期」(★2)を迎えます。「大成期」とは、和菓子の種類が爆発的に増えたという事、和菓子にも様々な銘が付けられていった事、そして銘を付けるにあたって製法の向上も重視された事を意味しています。そして明治、大正、昭和、さらには平成に入って様々な和菓子店が創業されていきます。現在において老舗といわれている店は明治くらいの創業が多いのではないでしょうか。もなかで有名な「空也」は明治十七年、豆餅の「出町ふたば」は三十二年、あん専門店の「中村製餡所」は四十一年、たいやきの「浪花家総本店」は四十二年などといった具合です。また、明治期のアンコの評価は高く、夏目漱石の『草枕』の一場面を思い浮かべる人もいるでしょう(★3)。煉羊羹は「一個の美術品」だと讃えられ、西洋菓子のクリームやゼリーと比較して高い評価を与えられています。

 

しかし一方でパンはというと、弥生時代に古代中国より伝来したものと、室町時代の南蛮貿易によって西洋からも伝来したものと、大きく二つのルートがあるのですが、どちらも和食を象徴するに至りませんでした。その理由は、江戸時代の仏教の国教化と鎖国にあります。一五四九年に来航したフランシスコ・ザビエルによってキリスト教が伝えられ、併行してワインとパンの普及が広がります。しかし、外来宗教と既存の神道および仏教との対立が激しくなると、ポルトガル船は来航禁止となり、日本はこれより鎖国時代に突入。さらに、信仰の自由もなくなり、踏み絵に加えて宗門人別帳制度が徹底化されると仏教は事実上の国教となります。ポルトガルより伝えられたキリスト教的なパン食文化は、それを食せば隠れキリシタンだと見なされ訴人される恐れがあるため、やがて廃れていってしまうのです。また、古代中国から伝わるパンについては、こちらは肉との結びつきがまだ強く、仏教の五戒の一つである不殺生に触れるため衰退していくことになります。ちなみに、その代わりに流行ったのが麺類食です。

 

その後、日本でパンが再注目されるきっかけはアヘン戦争となります。この戦いに勝利したイギリスがやがて新領土を求めて日本にくるのを、当時の日本人は恐れていました。この戦いに勝つためにはゲリラ戦でしかなく、そこで話題になったのが携行食でした。米飯だと炊いたときの煙が標的となり、そこに敵弾が集中するから危険だということです。パンの携行を考えたのは、伊豆韮山代官の江川太郎左衛門坦庵公。当時の欧米各国は雨の中でも撃てる「ドンドル」という銃を発明していたが、日本はまだ火縄銃でした。それだと雨が降っていても安全は確保されず、もし伏兵が炊煙を立てたら、そこが標的になり一方的に撃たれてしまうのです。そのため炊飯を必要としないパンが注目されました。そこから、この軍事的役割を担うものとしてのパンが一般に広まるのは明治初頭の文明開化ブームになります。一八五三年、アメリカからの黒船来航の六年後、横浜開港によって開かれた外国人居留地は西洋食文化を拡散していく拠点となりました。

 

文明開化によってパンの盛り上がりが始まる理由には、黒船来航ともう一つ見逃せないきっかけがあります。それは、大政奉還とそれに続く王政復古の大号令です。これは幕府政治を終わらせ神武天皇時代のいにしえに戻る事を意味しますが、これにより神仏の分離がもたらされます。祭政一致は、仏教の肉食禁忌を空文化し、肉と結びつきの強かったパンを顧みるきっかけを作りました。この頃からパンの栄養面や米不足対策としての有効性が注目され、明治維新政府はパン食を大いに奨励しました。しかし、それは単に米不足を補うためというものだけでは無かったようで、安達巌はこの点について「パン食文化を普及することによって、日本が文明世界の一員になったことを立証することにより、屈辱的不平等条約の改訂を促進したいとする意欲に覆しがたいものがあった」(★4)と述べています。西洋に追いつけ追い越せの精神は、屈辱に依拠するところが大きかったのでしょう。

 

さて、文明開化期にパンが流行り始めたわけですが、この時のパンはすでに古代中国からの伝来物という印象は薄れ、もっぱら西洋から来たものと認識されています。明治初年の流行語に「文明開化の七つ道具」というものがあり、「新聞社、郵便。ガス灯、蒸気船、写真絵、博覧会、軽気球、陸蒸気、アンパン」の七つが上げられていますが、ここにおいて初めてアンパンが登場します。アンパンは、「木村屋総本店」の開祖である下級武士だった木村安兵衛が発明したのが始まり。本場の外国人ベーカリーに対抗するために、日本人らしいパンを開発しようと編み出したものがアンパンです。西洋パンのもとがビールダネ、すなわち麦ダネであることに注目し、和酒用の米糀ダネを用いることを思いつき、酒ダネを開発し、日本酒の香りのするいかにも日本的なパンを作り出したのです。これが明治天皇に気に入られ、日清戦争後の好況時になると一気に全国的に広がります。そこからアンパンは現在に至るまで消えることなく存在し続けいているのです。

 

しかし、文明開化の七つ道具のアンパンにも、やがてライバルが多く出現してきます。アメリカが日本を反共の砦とする方針を固めた頃、日本は食糧危機に陥っていました。この時期はアメリカの小麦の潜在需要を喚起するには絶好の機会であり、日本の食糧配給や学校給食などにパンや乳製品を加えていきます。こうして、半ば強制的にではありますが麦食に慣れていった日本人が多くなってくると、市場規模が広がり、薄利多売による経営方針で利益が立てられるようになります。この薄利多売を可能にしたのは、もちろん近代的機械化パン工場が作られていったからですが、そこには薄利多売の精神に魅せられた人々がいたということも見逃せないでしょう。特に「山崎パン」の始祖飯島藤十郎は薄利多売で利益を上げていくことに関心を抱いており、その精神の源は内村鑑三に遡ります。その精神とは「完全正礼商法」と言われ、「薄利多売に徹し、顧客の気持をおのれの信条とし、額に汗して働けば、神は必ずその人を見捨てない」(★5)というもので、顧客主義的な発想のものでした。この「完全正礼商法」が内村鑑三から「中村屋」の始祖相馬愛蔵・黒光夫妻に直々に伝えられ、当時「中村屋」で修行していた飯島藤十郎にも伝わったのです。この大量生産・大量販売が軌道に乗ると日本進出を企てていた海外企業の中にもこれを断念するものがあらわれます。安達巌によると「アメリカの世界一といわれた巨大企業のコンチネンタル・ベーカリーが対日上陸作戦を断念したのも、日本の近代化された大パン工場と争ってみても、うまみはないと判断した」(★6)ようです。明確な記述はないが山崎パンの大量生産への意気込みにも、アメリカへの対抗意識が垣間見えるのではないでしょうか。こうしたパンの普及は、アンパンの存在を相対的に下げる役割を果たします。食パンよりも先に普及し、日本にパン食を根付かせたアンパンも、もはや特別な存在ではなくなります。アンパンはアメリカの小麦戦略と拡大した需要に乗っかる形で近代化を進めたパンの大量生産により、その存在感を相対的に引き下げることとなったのです。

 

弥生時代に小豆と小麦が日本に入ってきて、小豆はそのまま日本に留まりながらアンコが作られていったが、パンは宗教的な理由を背景に一度日本を離れてしまいました。それが明治になって各々洗練され、結びついてできたのがアンパンです。西洋を参考にしつつ日本的なものを作り上げたという和風パンの代表としてもてはやされましたが、アメリカの小麦戦略と大量生産の渦に巻込まれ、その存在感は薄まりました。現在、数あるパンと共に陳列されているアンパンを見て、かつての活躍を感じるためには、アメリカの陰への想像力が必要なのです。なぜならそこに薄れていくアンパンの姿があるからです。

 

★1 佐山和夫(2003)『野球とアンパン 日本野球の謎カウント・コール』講談社現代新書、p.165

★2 赤井達郎(2005)『菓子の文化誌』河原書店、p.109

★3 夏目漱石(1929)『草枕』岩波文庫

★4 安達巌(1996)『パン』法政大学出版局、p.206

★5 安達巌(1989)『パンの日本史』ジャパンタイムズ、p.172

★6 ★5に同じ

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