印刷

アイデンティティの選択と「苦痛」の理解 〜グローバル資本主義の旅を通じて〜

深夜の路上での、十にも満たない少年の寝顔の発見は、「貧困」の発見でもありました。バングラデシュの首都ダッカにいたときの話です。身内というものが存在しない彼は、同じ境遇の少年少女らと共に、舗装された道の上を寝床としていました。その眠りは、他の人々の後に続き、その目覚めは、他の人々に先立つ。そうやって他の人々の活動の妨げになることを防いでいるのでしょう。ところで、彼がそこで眠ることは、健康的にも防犯的にも、そして人としての尊厳的にも問題であるはずですが、そう言い切ることが私に果たしてできるのでしょうか。もう少し問いを具体的にすると、彼と同じバングラデシュ人ならば問題だと言い切ることができるかもしれないが、日本人に同じことが言えるのでしょうか。もともと、「貧困」が問題だとされたのは「近代」における英米独仏といった文明国において、貧しく苦しむ人がいるという発見からでした。それは同一の国家に所属しているからこそ、もちろん社会不安の抑制という観点が主軸にはなるであろうが、問題視できたものだったのでしょう。日本人である私が、バングラデシュ人の少年を見て「貧困」を発見したと言えるのでしょうか。その状況を問題だとみなすことができるのでしょうか。

 

まず「貧困」が発見/問題視されるのは、共同体の中でしかありえない、ということについて考えてみます。「貧困」の特徴として、「苦痛」という極めて主観的なものを伴うという点に着目すると、自分以外の「苦痛」について理解するためには、その人と自分との間に同一性が見出されなければなりません。「苦痛」の度合いについて共有することは難しいですが、少なくとも、ある状況において「苦痛」を感じる/感じないといった次元における共有はなされる必要があります。共同体とはこの共有についての境界の内側にいる人々のことです。つまり、共同体外にいる人々、ここでは「他者」と表記しますが、これについては、定義上その「苦痛」を理解することはできません。「他者」が苦しんでいるのかどうか分からないのに、その状態を問題視し、それを変えようとする行為は、パターナリズムですらなく、単なる抑圧、あるいは暴力となり得ることもあるでしょう。こう考えると、パターナリズム以上のものにならないように、日本人が文化や生活様式の異なるバングラデシュ人の「苦痛」について理解するというのは、そこになんらかの同一性を見出し、共同体としての認識を示す必要があるでしょう。

 

では、その共同体認識はどのようになされるのでしょうか。「日本人」や「バングラデシュ人」といった所属に関する分類は、しばしばアイデンティティと呼ばれます。このアイデンティティが同一個人内に複数存在しているということは、自身のアイデンティティを一つ一つ挙げていけば分かるでしょう。日本国民であり、北海道出身で、独身、異性愛者であり、特定の宗教を信仰せず、菜食主義者であるというように、あげればきりがありません。そして私たちは、この複数あるアイデンティティを発見するというよりは、むしろ選択していると言えるでしょう。どういうことでしょうか。

アイデンティティを縦軸に「普遍的」と「限定的」、横軸に「両立可能」と「両立不可能」という二つの軸にして見てみましょう(図1)。「普遍的」というのは、より広い範囲の人々に共通して内在するアイデンティティであり、「人間である」とか「労働者である」「男/女である」などといったものがあげられるでしょう。限定的とは「〇〇国民である」や「〇〇出版社勤務である」とか、あるいは「〇〇家である」という、より範囲の狭いものを指します。「普遍的」、「限定的」といった区分けは相対的なものなので、それぞれの文脈によって変化するでしょう。そして、「両立可能」とは、あるアイデンティティを選択しても他の選択肢が消えないもの。「両立不可能」とは、あるアイデンティティを選択したらもう一方の選択肢を排除しなければならないものです。例えば、「日本国籍である」というアイデンティティは、日本が二重国籍を認めていないということから、「アメリカ国籍である」ということと両立しません。この場合、私たちはどちらかのアイデンティティを選択しなければなりません。

以上を踏まえると、「他者」を共同体に引き入れようとする場合、「普遍的」かつ「両立可能」なところに位置するアイデンティティの選択によって見出し得るだろうということは容易に想像がつきます。つまり、相手も同じ「人間である」のだからこの状況において「苦痛」を感じているだろう、というものです。私がダッカの少年の「苦痛」が分かるという時、それは「人間である」というアイデンティティに依拠していることは確かでしょう。しかし、それだけではやはり弱い。アイデンティティについて「普遍的」なものへと遡る行為は、複数あるアイデンティティを単一化することに近しい。「他者」を「人間である」というだけで理解できるということこそ、パターナリズムの危険性を孕んでいます。そこにはもう一つ加えるべき視点があるのです。それは、「限定的」かつ「両立不可能」な位置にあるアイデンティティです。これがあるからこそ、「他者」の「苦痛」はより理解し易いものとなるのです。「近代」の国家/共同体内における「貧困」の発見が、その国家/共同体内の「苦痛」への理解だとすれば、アイデンティティの普遍性による「苦痛」への理解はその文脈上にあるわけですが、以下に述べることは、おそらくそれとは異なるものとなります。

 

私のアイデンティティにおいて「日本国民である」と「グローバル資本主義の構成員である」というものは、一つのアイデンティティに縫合されます。「グローバル資本主義構成員の日本国民支部」とでも表現すればよいでしょうか。よりラジカルに「グローバル資本主義の加害者側」と言ってもいいかもしれません。グローバル資本主義という文脈における「日本国民」あるいは「加害者」というアイデンティティは「限定的」かつ「両立不可能」なものと言えます。「日本国民/加害者」であることは「バングラデシュ国民/被害者」というアイデンティティと両立しえません。一方を選べば、他方が選べないからです。しかし、今まさにどちらかを選択せよと迫られる状況を想定すると、「被害者」の方に「苦痛」のあることが理解でき、それを避けるために「加害者」の方を選択するでしょう。このようにアイデンティティの選択を想定することで「苦痛」の所在が分かるようになります。

話を共同体に戻しましょう。以上のようなことは、「グローバル資本主義」の名のもと、「加害者」と「被害者」の二つの共同体を想起することになります。グローバルという規模、それから「加害者」と「被害者」という両立不可能な区分は、互いに「他者」であることを意味します。「他者」の苦痛は理解し得ないが、しかし、そこにアイデンティティの「選択」の視座を介入させることで、「苦痛」の所在が発見でき「貧困」を問題だと見なす意識が芽生えるということです。

 

しかし、それでもまだ話すべきことが残ります。それは他のアイデンティティが「苦痛」を掻き消し得ないかというものです。ここまで約三千字を費やしてきましたが、ここが最も難しく、かつ説明不可能とも思える箇所となります。落ち着いて、考えていきましょう。

「苦痛」がそこにあることは想定できても、その「苦痛」を他のアイデンティティが掻き消す可能性は大いにあり得ることでしょう。例えばダッカの少年が「路上フェチ」で路上で寝ることが大好きなのであれば、そこに「苦痛」はありません。あるいは、そもそも生まれた頃から路上で寝ているのならば、「苦痛」は感じないか、私よりも小さいものであるでしょう。事実、貧しい人々が些細なことに幸福を見出すことはよく知られていることです。その手の言説に対する反論は基本的には「幸福論」から距離を置いて「機会の不平等」などに求めるのですが、ここでは「苦痛」が理解できるかどうかという、あくまでその点にこだわります。アイデンティティを「選択」という概念でとらえた場合、それは可変的なものでもあると言えるでしょう。恣意的であろうが偶然であろうがアイデンティティは変化することがあります。そう考えた場合、「グローバル資本主義の被害者である」というのと他のアイデンティティの兼ね合いの中で、「グローバル資本主義の被害者である」が残り続け、他のアイデンティティが変化すると、掻き消された「苦痛」が姿を現します。逆に「グローバル資本主義の被害者である」が変化した場合は、それによる「苦痛」は消え去るので、とりあえずはその「問題」を解決したのと同義であると言えるでしょう。もちろん、それによって「苦痛」を伴った別のアイデンティティが芽生える可能性もありますが。

まとめましょう。「近代」における「貧困」の発見とは共同体内におけるものだった。現代においても「普遍的」なアイデンティティに「苦痛」の理解を求めている限り、それは共同体の境界を広げる行為であり、「近代」のそれと変わらない。しかし、自身のアイデンティティとは背反に位置するアイデンティティについて、それを選択し得るのかを想定すると、そこに付随する「苦痛」を見出すことができる。そして、他のアイデンティティがその「苦痛」を掻き消すことがあっても、アイデンティティは可変的であり、「苦痛」を伴うアイデンティティと向き合わなければいずれ「苦痛」は出現する、ということです。

私がダッカの少年について、彼の「苦痛」を理解し、「貧困」を発見したと考えるのは、以上のような考察によるものなのです。

文字数:3969

課題提出者一覧