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彼は何を聴き、私は何を聴いているのか 〜『SHAME』の「音」の所在〜

さっきまで、外ではアブラゼミが元気良く鳴いていて、四季の歌い手の移り変わるのを感じていたのだけど、ふとした瞬間に、ミンミンゼミが一匹窓辺に降り立ち、演説を始めてしまったものだから、なんだか気持ちが冷めてしまって、窓を閉め、エアコンのスイッチを入れて映画を観ることにした。かすかに蝉の鳴き声が聞こえるけども、以後気になることはなかった。

 

蝉の鳴き声を心地よい音楽と感じるか、あるいは五月蝿い演説と感じるかは、人ぞれぞれで、聴く人の意識によって左右されるものです。それこそ音楽の言語起源説にみるように、決して歌ではないイスラム教のアザーンやコーランの朗読が、多くの非ムスリムには歌だと感じられるのも、別段不思議なことではないでしょう。

また、「音」を音楽としてとらえるか、演説や朗読としてとらえるか、という区別に先立って、佐々木敦のいう「聞こえているのに聴かれてはいない音」(★1)というものがあります。「音」として存在はしているのに、人がそれを認識していない。「耳には入っているが脳が反応していない」と言い換えてもいいかもしれません。何か一つのことに集中すると、周りの「音」が気にならなくなるという経験は誰もがしていることでしょう。

このように、人にとっての「音」にはまず、それが認識されているかどうかの層があり、さらに、認識されている層においてそれが音楽なのか演説なのか、あるいは雑音なのかといったような区別が存在しています。

この、人にとっての「音」に関する層と区別を劇映画の中で実践し、新たな解釈/迷答を導いていくことが、本論の目指すところとなります。用いる題材は、二〇一一年公開の映画『SHAME −シェイム−』です。この映画はいわゆるオープンエンドという形で幕を閉じるわけですが、「音」に注目することで、説得的なテンタティブエンド(tentative end)が導き出せるのです。どういうことでしょうか。

 

まず、映画の「音」を認識している層、つまり「音」の聴き手についてですが、そこには、「登場人物のみ」、「視聴者のみ」、「両者」、「なし」と四つの視座が存在します。そして、それぞれの視座において、それが音楽なのか演説なのか、あるいは単なる雑音なのか等という区別が成り立っているわけです。では、これらを踏まえて作品を見てみましょう。

 

主人公はマイケル・ファズベンダー演じるニューヨークのサラリーマン、ブランドン。性依存症であり、朝から晩まで自慰あるいは性交による射精を繰り返す。朝起きたらシャワー室で、出勤したら会社のトイレで、帰宅したらコールガールを呼んで、という具合。そんな彼の生活に、ある日突然妹のシシー(キャリー・マリガン)が入り込んでくる。妹には兄の他頼れる存在がなく、手首には複数の自殺未遂の痕がある。そして、妹が来た日からからブランドンの生活は崩壊へと向かっていく。妹のせいで思うように性処理ができない苦悩と、妹を支えてあげなければならない自身の責任との狭間で、彼は生まれ変わりたいと願い、決意した。が、しかし、

あらすじは大方このような感じでしょう。最後に「が、しかし、」がつくかどうかは視聴者に委ねられています。

 

冒頭、裸で目を覚ましたブランドンが、隣人の生活音をじっと聴き耽っているところから始まります。その生活音の中にチッキング(時計のカチカチというような音)が混ざり込むのですが、部屋の中から地下鉄の駅へと場面が変わってもそれが鳴っているところから、チッキングは生活音ではないと分かります。チッキングはむしろBGMとして流れるチェロ等の演奏と同期しているようです。

実はこのチッキングとチェロ演奏は、ハリー・エスコットの『Brandon』という楽曲で、聴き手は視聴者のみ、ブランドンには聞こえません。おそらくこの曲は、性に忠実に従い振る舞うブランドンという人物を音楽によって表現しているのだと考えられます。というのがまず思いつくところだが、しかし、その考えはすぐに否定されます。ブランドンにも聞こえているはずの留守電の声や地下鉄の雑音は、『Brandon』に馴染む形で彼から離れていきます。そして、視聴者はブランドンが聞こえているのに聴かなくなった「音」も含めて、それを音楽として味わいます。つまり、この曲は、ブランドンにも聞こえているはずの「音」を吸収し、その所在を視聴者に移していくという役割が担わされているのです。それはブランドンを表すというよりは、余計なものを削ってブランドンを浮き彫りにするためにある、ということです。冒頭の十分弱においてブランドンが聴いているであろう「音」は排尿とシャワーとコールガールの喘ぎ声の三つですが、前者の二つは喘ぎ声を聴くため、つまり、性処理に集中するために存在します。それらは、留守電の声などを消し、やがて自らも消えていくのです。つまり、ブランドンはそれらをも聴かなくなるのです。喘ぎ声を聴くため、性に忠実であるために。

 

しかし、その喘ぎ声をかき消す「音」が徐々に存在感を強めていきます。妹がブランドンの家へ上がり込んできた時、それは決定的なものとなります。性に忠実になるために消していた「音」が、逆に喘ぎ声を消しにやってくる。ブランドンは、隣の部屋で妹が電話で誰かと話しているその会話が気になり、パソコンから流れる喘ぎ声を聴けなくなります。そしてさらに、妹の声は強度を増します。ブランドンの上司とブランドンの部屋で寝ることによって、その声は喘ぎ声となる。彼はついに喘ぎ声によって喘ぎ声を消されてしまったのです。彼はそこから逃れるために外へ飛び出し、『Prelude No. 10 in E Minor, BWV 855 』を聴きながら、ジョギングを始めます。

 

行き場を失ったブランドンは、この性依存症から放たれようと決意します。具体的なきっかけは二つ、一つは会社のパソコンでエロサイトを見ていたことがバレたこと、もう一つは妹に自慰行為を見られてしまったことです。わずかな隙を見て性処理をしていたことにも限界がきていたということでしょう。

しかし、特定の人と関係を持つことは不可能でした。同じ会社に勤める女性と恋愛関係を結ぼうとするも、彼女では勃たなかった。彼女を追い返し、すぐにコールガールを呼ぶ。そして、帰宅し妹を追い出す。彼の決意も虚しく、すぐにまた性に忠実になっていくのです。ここで、『Brandon』と同じような曲が流れます。曲調はほぼ同じですが、題名は『Unravelling』となっています。

冒頭と同様に、この曲の聴き手は視聴者のみです。ところが、それは、ブランドンにも聞こえている「音」をうまく吸収してくれません。所々で演奏が消えてチッキングのみになる。あるいは、バーやゲイクラブで流れている楽曲と対立する。その対立は、「音」の層における互いの領土を明確にしていくための争いであり、そこでは、ブランドンという人間が浮き彫りになることはありません。

争いは、彼が二人のコールガールと共に性交するシーンで決着がつきます。「音」の層が完全に分離されるのです。『Unravelling』と妹の留守電の声は彼には届かない。つまり、聴き手は視聴者のみです。そして彼の聴いているコールガールの喘ぎ声は、視聴者には届かない。つまり、ブランドンのみが聴いています。彼は誰にも邪魔されることのない深みへと嵌まりこんでいってしまったのです。

 

ところが、帰宅時の地下鉄の人身事故をきっかけに嫌な予感がブランドンをよぎります。彼はすぐに妹に電話をかけるも繋がらない。急いで自宅へと戻る。この時、『Prelude & Fugue No. 16 in G Minor, BWV 885』が流れます。ジョギングのシーンとは異なる曲ですが、曲調はかなり似ています。しかし、ジョギングのシーンと決定的に違う点は、ブランドンが耳にイヤホンを付けていない、ということです。つまり、この楽曲の聴き手は視聴者のみということになります。そして、家に着き、手首を切った妹を見つけた瞬間に、「音」の層はまたもや完全に分離されます。視聴者は楽曲しか聴くことができないのです。かつて妹の声を消すためだった「音」は視聴者の方へと委ねられ、ブランドンは妹の声を聴こうとしたのです。

 

そして、最後の場面。「が、しかし、」の部分です。地下鉄で出勤するブランドンを誘惑する女性が出てきます。実はこの女性は冒頭にも出てきていて、その時はブランドンの視線に性的な興奮を覚えるも、女性は彼から逃げてしまいました。その女性が今度は彼女の方からブランドンを誘ってくるのです。そして、その誘いにのるのかどうかというところが、視聴者に委ねられてこの映画は幕を閉じます。

この場面での「音」の層はどうなっているでしょうか。それは基本的には地下鉄の雑音ですが、その聴き手は「両者」となっています。視聴者に聞こえる「音」は、ブランドンにも聞こえています。『Brandon』に吸収されることもありません。彼は、性的な興奮が歓喜されそうになっても、喘ぎ声以外の「音」を聴くことができるようになっているのです。つまり結論は、ここで彼が彼女の誘いにのろうがのるまいが、彼は以前よりも多くの「音」を聴くことができるという点で、深みに嵌まりにくくなっている、となります。彼女についていかないかもしれないし、仮についていっても、それは遊び程度のものとして留まることができるでしょう。

 

字数関係上、最初に示した「音」に関する層と区別を使い切ること無く本論を閉じなければならないが、映画の中には聴き手「なし」と明確に言える「音」も存在しているし、音楽なのか、台詞なのか雑音なのかといった区別を試せる箇所もたくさんあります、ということを記し、本論を閉じさせて頂きます。

 

★佐々木敦(2014)『「4分33秒」論 「音楽」とは何か』Pヴァイン、p.179

 

文字数:4031

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