印刷

感覚を支える感覚 〜アフリカとベンガルを通じて〜

まずデカルトは感覚を捨てました。次に、幾何学の証明を。そして、自分の精神の内にあるものも、夢の幻想だとして捨てました(★1)。「われ思う、故にわれ在り」の真理への道は、これまで受け入れてきた諸見解の一切を疑い、はらい、遡っていく過程です。この真理の妥当性はひとまず置いとくとして、物事の基礎をどこに見出すか、というデカルトの問題意識は、世に溢れんばかりに生まれ続けている音楽を前に、何が今の音楽を支えているのかを教えてくれそうです。方法的懐疑ほど徹底しなくとも、「最新の感覚」を疑い遡ってみることは、音楽に埋もれた音楽を再発見し、基礎となる何らかの土台を見せてくれるかもしれません。

 

『ライオンは寝ている(The Lion Sleeps Tonight、以下ライオン)』(1961)は、トーケンズ(The Tokens)の曲、あるいはディズニー映画『ライオン・キング』(1994)で用いられた曲として知られています。リードは始めから最後まで基本的にファルセットで流れるようにうたわれ、これに、軽快なコーラスとリズムとが合わさっています。“The lion sleeps tonight”というフレーズが「ジャングル、村、目の前」といった異なるシチュエーションと共に繰り返されることで、どんな場所でも心地よく眠るライオンの姿が、さも日常の「風景」のようにして浮かび上がってきます。ライオンと人間はうまい具合に共生しているようです。しかし、そういった「風景」は現実世界では中々ありえません。それは、ファンタジーかなにかなのでしょう。

この曲に詳しい人は、これが元々ソロモン・リンダ(Solomon Linda)の『ムーブベ(Mbube)』(1939)であり、それがウィーバーズ(The Weavers)の『ウィモウェ(Wimoweh)』(1952)になり、トーケンズへと至ったことをご存知でしょう。『ライオン』は遡ると『ムーブベ』に辿り着くのです。国はアメリカではなく南アフリカ、言語も英語ではなくズールー族の言葉です。「ムーブベ」は「ライオン」を意味します。

『ムーブベ』は、リードによる力強い発声から始まり、ベースが分厚めの土台を築いたあと、再度リードがファルセットに変化して帰ってきます。こちらはトーケンズと違い、歌詞がなく、うたっているのか掛け声なのかの境界が曖昧です。地声と裏声が交互に繰り返されていくというのが特徴ですが、その声はどちらも「風景」というよりは自分の「感情」を表現しているように感じます。「奮起」とも「歓喜」とも取れそうです。ライオンと共生している「風景」は思い浮かべられず、むしろ「殺してやる」という意気込みか、「殺してやったぞ」という緊張からの解放のように聴こえます。なぜ、『ムーブベ』のライオンは人間と共生するに至ったのでしょうか。

その答えは、おそらく「音楽のおこり」と関係しています。小泉文夫は「音楽のおこり」について、「楽しいからとか教養としてとかいうことの前に、音楽の原点、歌の原点には、人間が生きるという本能的な生存に関係があった」(★2)と述べています。『ライオン』が音楽から生まれた音楽なのに対して、『ムーブベ』は「ライオン狩り文化」が背景にある、ということは注目すべき点でしょう。つまり、『ライオン』よりも「音楽のおこり」に距離が近いのです。

ズールー族にとってライオンは狩りの対象でした。ライオンの心臓と眼球を食すことで恐怖や絶望感に打ち勝つことができると信じられていたのです。『ムーブベ』の時代にはもうライオン狩りをしていなかったと思いますが、作曲者もズールー族ならばそのことは知っていたでしょう。ライオン狩りは命がけの征戦です。そこでは仲間との連携がとても重要になります。合図を待ち、しかるタイミングで動けなければなりません。リズムを揃えることは、重要な狩りの技術の一つです。ハーモニーはまわりの音を聴かなければ成り立たず、それは互いに気持ちが通じているかどうかの指標となります。平均律などは知らないでしょうから、綺麗なハーモニーかどうかは彼らの感覚が全てでしょう(★3)。『ムーブベ』は、こういった人間の「生存」と関わっていた頃の歌の名残を私たちに感じさせてくれるのではないでしょうか。あの「奮起」とも「歓喜」ともとれる声が歌としてコーラスと調和している点が、その一つでしょう。この「生存」との距離感が『ライオン』と『ムーブベ』の決定的な違いを作っている、ということです。そして、一方が「風景」をうたうためには、まず「感情」をうたう歌が必要だったともいえるでしょう。

だからといって、『ムーブベ』の方が優れていると言いたいわけではありません。しかし、私たちが音楽に囲まれて過ごすことができるのは、必然性を持って生まれた音楽というものが土台にあるからだということは、少し分かっていただけのではないでしょうか。次はもっと新鮮な例を用いて音楽の土台について共有したいと思います。

 

例に出すのは、おそらく多くの日本人にとって初めて触れるであろう音楽、バングラデシュ国歌。『我が黄金のベンガルよ』(1905、国歌としての制定は1972)です。この歌は、ラビンドラナート・タゴール(Rabindranath Tagore、以下タゴール)という詩人によって作られました。母なる大地への想いが綴られた自然賛歌で、自然に身を寄せ、愛し、感謝するといったものです。大勢による男女混声の合唱や、有名歌手などが少人数でうたうもの、ハーモニーのあるもの、ユニゾンのものと、そのうたわれ方は様々です。しかし、基本同一の歌であるという点は、先ほどの『ライオン』と『ムーブベ』とは異なるところです。ここでは二つのうたい方を比較し、そのどちらが土台に近いかを考察します。用いるのは、テンポの比較的速い男女混声のユニゾンのものと、テンポの比較的遅い男声二人によるものです。この恣意性の妥当性は後ほど述べますので、まずは二つを比較するところから始めましょう。

男女混声のユニゾンの方からですが、人数が多く声に厚みがある割に、軽やかに流れるようにうたわれています。自然への感謝は、軽快なステップと滑らかな振り付けによって表現されているかのようです。ところどころで心地よく踏まれる韻が、その踊りを連想させてくれます。マンゴーの森の香りと、実り豊かな稲田を通じて、人々は自然を愛し、溢れる感謝の気持ちをうたっているということが伝わってきます。ここで思い浮かぶものは、人々のうたっている姿や、感謝の対象である自然、つまり「風景」です。

では、男声二人の方はどうでしょう。こちらは、プリトウィ・ラジ(Prithwi Raj)とリトゥ・ラジ(Ritu Raj)の二人の歌手によるものを参考にします。ゆっくりとしたテンポで、一つ一つの単語を丁寧に紡いでいるのが特徴です。一つの単語の響きそのものが音楽になっているといった印象を受けるでしょう。そして、その調子はまるで誰かに聴いてもらうために、うたっているかのようです。冒頭の「アミ トマエ バロバシ」とは「私は君を愛す」という意味で、自然が擬人的に扱われているのですが、こちらの方がいわゆる人間同士の「愛の告白」のように聴こえます。自然と対話し、身近に感じたいという表れでしょうか。しかし、その少し物悲しい感謝の歌声は、それだけにとどまらないものを感じます。自分を没却し、ひたすら身を捧げたいと願っているかのようです。いずれにせよ、そこには「風景」よりも、歌い手の「感情」を感じ取ることができるでしょう。

この同じ歌をめぐる印象の違いにおいて、どちらが土台となるかは、タゴールが詩人であるということ考えると分かります。彼の詩集『ギーターンジャリ』(英語版、1912)はアジア人として初のノーベル賞(文学賞)を受賞したとして有名ですが、そこには神(ヴィシュヌ神)に徹底的に身を委ねていく姿勢がうたわれています。例えば、『ギーターンジャリ』のベンガル語版訳者である渡辺照宏は、第一編の一行目の「わが頭 垂れさせたまえ」の注釈で、「自分の頭を垂れるのも自分の意志ではなくて神の恵みである」と解説しています(★4)。『我が黄金のベンガルよ』は自然賛歌でもあり、幾度も「母よ(オーマ)」と呼びかけ、常に傍に居りますと伝えようとする一人の詩人の気持ちをうたったものでもあるのです。この歌のおこりが、こうした詩であることを考えると、合唱の方がそこから遠く、少人数の方が近いということが分かるのではないでしょうか。自然に身を捧げ共にありたいと願う人の「感情」があるからこそ、楽しくうたう「風景」は成り立っているともいえるでしょう。

 

このように、「音楽のおこり」へと近づく原点回帰的な手法を用いて、私たちの感覚に与える印象の差異を示しました。私たちがいま聴いている音楽は、実はもっと違った姿をしていたのかもしれません。そして、その違った姿こそが、今の私たちの音楽を支えていることもあるのです。そして、その土台を知った上で、改めて『ライオン』や合唱の『我が黄金のベンガルよ』を聴き直すと、より深みの増した感覚と出会えるのではないでしょうか。そして、それは揺らぐことのない土台があるからこそ、自分の中では限りなくそれが「正解」に近いものだと感じられるのではないでしょうか。

 

★1 デカルト、訳谷川多佳子(1997)『方法序説』岩波文庫

★2 小泉文夫(2003)『小泉文夫著作選集1 人はなぜ歌をうたうのか 小泉文夫フィールドワーク』学習研究社, p.119

★3 リズムとハーモニーのこうした役割は同上の著書を参考。

★4 渡辺照宏訳(1977)『タゴール詩集 ギーターンジャリ』p.312

文字数:4109

課題提出者一覧