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一つの映画と二つのサスペンス 〜アンパンマンを通じて〜

映画館デビューは本人が思っているより早いかもしれません。やなせたかし原作のアニメ「それいけ!アンパンマン」の映画シリーズの対象年齢はゼロ歳から小学生以下。絵本時代は十歳以上の読者を想定していたようですが、作者の意に反してアンパンマンは幼児に大ヒットしました(★1)。映画は一九八九年三月十一日の初上映以来、毎年新作が作られ、親子で楽しまれています。

実はこの「親子で楽しむ」というところが大変興味深い点なのです。つまり、少なくともそこには「親」と「子」で二つの異質な映画体験が存在しているということになるからです。特に、映画シリーズ二十五周年作品でもある二〇一三年公開の『それいけ!アンパンマン とばせ!希望のハンカチ』は、サスペンスの視点から考えることで、まるで異なる二つの姿を表出することができます。どういうことでしょうか。順を追って見ていきましょう。

 

この作品の冒頭は「ザジズゼゾウというキャラクターが、見知らぬ都会の大気汚染を魔法のハンカチで浄化する」というシーンから始まります。この時点で、今作の悪役が汚染であることを示唆し、かつ、浄化能力を活かしてやっつけるということを、観客は予期します。そして、ここに「何度練習しても魔法のハンカチが出せないパオというキャラクターが、ザジズゼゾウのもとから家出する」ということが加わります。つまり、「浄化のできない半人前」が単独行動をとるという極めて不安定な状況が生まれるのです。観客は「いま危機が迫ったら大変なことになる」という不安を抱えます。もちろんそこにはバイキンマンの悪巧みの計画の描写も挿入され、危機感が煽られます。いずれやってくるであろう汚染の危機に対抗するためにはパオの成長が不可欠であるということが強く意識されるのです。これは「無変化の時間と変化の時間の二層」が提示されることによって喚起される「拠るべなさ」の感情に由来するサスペンス(三浦哲哉、★2)だと言えます。

 

実は、アンパンマンという作品は、キャラクターの不完全性がサスペンスを呼び起こす装置として機能しています。主人公であるアンパンマンは、顔が欠けたり汚れたりすると力が著しく低下しますが、アンパンマンのその特徴は、「バイキンマンの猛攻」と「ジャムおじさんの救助」のどちらが先かというサスペンスを生み出します(★3)。「最終的にはアンパンマンが勝つ(無変化の時間)」ということはわかってはいながらも、子どもは「登場人物の生きる現在(変化の時間)」と同期してしまうがゆえに、「負けるかもしれない」ことを「想定」せざるをえないわけです。その二つの時間層における「拠るべなさ」に感じる不安感やドキドキしてしまう感じがサスペンスです。今作では、「ロボット(バイキンマン)の猛攻」と「ジャムおじさんの救助」との間に「パオの成長」が加わりますが、基本的な構図は同じになっています。「パオの成長」も絶妙なタイミングで発生し、「ジャムおじさんの救助」も間に合うということは分かりつつも、観客は登場人物の現在に同期しているのでサスペンスな状態に陥ってしまうのです。

 

さて、ここまで説明しましたが、実際にこの作品の醸し出すサスペンスを「親」が見出すのは難しいでしょう。実は、以上のようなサスペンスは「子」が主に感じるものなのです。アンパンマン映画の尺は、例外もあるが四十分から六十分と短く、今作については約四十六分です。想像されるより「不安の引き延ばし(変化の時間/物語の中の現在)」は短いです。また、幼児向けであるがゆえに、合間合間に単純なお楽しみの要素が入り、それらが「子ども向け」というイメージを植え付け、「親」はサスペンスに気付けません。社会学的な言葉を借りれば、人は主観的に構築された「生活世界」を生きているがゆえに、同じ時空間に共存していたとしても、個々が時間や空間に与える意味は異なる、ということなのでしょう。「子」が味わえるものは「親」も同じように味わえるわけではないのです。しかし、今作では「親」をかなり特殊なサスペンスへと導く要素を孕んでいます。それが二つ目のサスペンスです。

 

そのキーワードとなる台詞をまず紹介しましょう。それは、

「大丈夫。僕の顔は何度でもジャムおじさんが焼いてくれるから」

というアンパンマンの台詞です。この台詞は二カ所で用いられます。一つは、パトロール中に見つけた空腹の子どもに顔のパンをあげるとき、二つ目は顔が汚れつつも敵に立ち向かっていくときです。両方ともアンパンマンの顔が「欠ける/汚れる」のを見て心配するパオに向けて、その心配を取り除くために発せられたものです。このような目的ゆえに、観客の「子」の方はパオと共に安堵を覚えます。しかし、「親」は違います。この台詞は、「親」であるというアイデンティティと共鳴することで、実生活のリアリティを呼び起こし、育てる「責任」に対する漠然とした「不安」を感じさせるのです。親はこの台詞、特に切迫した場面である二カ所目において一気にサスペンスへと導かれます。どういうことでしょうか。

 

まず前提として、「親」のアンパンマンに対する信頼は様々な形で担保されているということがあります。毎週のテレビアニメ、絵本や知育教材などの存在、そして、それらに対する評判が「アンパンマンは子どもに見せて良いものだ」という「集合意識」となり、それが「個人意識」を束縛し「社会的事実」(デュルケーム)となります。そうした「社会的事実」に基づく信頼は映画への信頼に繋がり、「子」を映画に委ねていきます。そこではもっぱら、映画のメッセージ受信者は「子」であると想定され、自身は「子」と映画の相互作用を外部から見守るようになります。外部とは映画の影響を受けない安全圏であるため、「子」が感じているサスペンスを「親」が感じることはありません。

しかし、そこへ突如としてアンパンマンから「親」へのメッセージが飛び込んできます。それが先ほどの「大丈夫。僕の顔は何度でもジャムおじさんが焼いてくれるから」という台詞です。この台詞は、「子」に対しては「アンパンマンの不滅性」を想起させ、安心感を与えます。しかし、「親」に対しては「アンパンマンも他者なしでは存在し得ない」という不安定さを突きつけるものとなるのです。

ここで一つ確認すべきことがあります。それは、パオ、アンパンマン、ジャムおじさんが、それぞれ何に喩えられるのかということです。パオは当然「子」なのですが、アンパンマンは「子」にとっての目指すべき目標として存在しています。つまりアンパンマンは「親」ではなく「子」の将来像なのです。そして、その将来像を支えているのがジャムおじさんであり、「親」なのです。つまり、ジャムおじさんを意識するということは、子育てに対する「責任」や、地球環境に関連する子どもの将来に対する「責任」のようなものを意識することと同じなのです。

しかし、ジャムおじさんは虚構であり、必ず成功を導きますが、ジャムおじさんに重なる自分は、現実であり、必ずしも成功を導きません。ジャムおじさんと自分とを比較することで、その(アンパンマンの存在/「子」の将来)不安定さがより強調されるのです。つまり、それは将来に対する意識を強めているということです。現実というものは、先が見えないので、厳密に言えばサスペンスではありません。つまり、「分かっている結末」と「結末に向かう物語の中の現在」の二重の時間層が成立しない。しかし、漠然とした人生の将来像あるいは結末を強く想起しつつ、今いる「親」としての自分がそれを形作っているのだという感覚は、必ず存在する「将来」とそれを形成する「今」との二重の時間層に対する感覚と同じでしす。そして、それはサスペンスの構造とも同じなのです。

 

かなり込み入ってしまいましたが、以上のように、『それいけ!アンパンマン とばせ!希望のハンカチ』は、二つの異なるサスペンスが同居しており、それが「親」と「子」のそれぞれの目線に分離して届けられている作品だと言えるでしょう。「子」にとってはまさにそれがサスペンス映画であるといえるようなサスペンス。一方、「親」の方は、映画と現実が錯綜することで生まれるサスペンスな感覚です。映画の解釈は見る人によってそれぞれ異なるところが面白かったりしますが、アンパンマンのように親子という、そもそも異質なもの同士の組み合わせを想定した作品は、非常に興味深い考察がおこなえるものです。そのところだけでも伝わったのならば幸いです。

 

 

★1 やなせたかし(2013)『アンパンマンの遺書』岩波現代文庫

★2 三浦哲哉(2012)『サスペンス映画史』みすず書房

★3 この時の描写は、普通に考えたらバイキンマンの方が有利であることが多く、「間に合わない」という結末が強調されます。しかし、ジャムおじさんの並々ならぬ運転技術、そしてバタ子さんの強肩とコントロールの高さという異質な描写によってそれはいとも簡単に回収されることが多くなっています。

 

その他参考

デュルケーム(1978)『社会学的方法の規準』岩波文庫

文字数:3717

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