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「あたたかい」人間関係について 〜想像される所有者、人間から巨大倉庫、そしてアルゴリズムへ〜

昭和とは「モノの後ろに他者(所有者)がいた時代」である。人々はモノを介して他者を想像し、繋がっていた。そこから、「あたたかい」人間関係が築かれていたのが昭和である。

まず、確認しておきたいことは、本当に昭和があたたかい人間関係で包まれていたのかどうかは知らないということ。しかし、昭和的なものからくるノスタルジーの言説の数々の中に「あたたかい」があることは確かである。代表的なものは、「いまの時代に忘れられがちな家族の情愛や、人と人とのあたたかいつながりが、世代を超え、時代を超えてみるものに訴えかけてきた」と二〇〇五年に公開された映画『ALWAYS 三丁目の夕日』を観て感動した安倍晋三であろう[注1]。あるいは、筆者の個人的な体験から言えば、定年退職者を中心としたバングラデシュのツアー客達が口々にしていた「みんなご近所が仲良さそうで良いね。あったかくて懐かしい感じがするよ」という所感。そういったものから、昭和の特に三十年代、四十年代は、「あたたかい」人間関係で溢れていたようだと想像されるのである。

このような昭和のノスタルジーは、受け継ぐべき、あるいは取り戻したいと願うようなものとして想起される。(同じく昭和の出来事である戦争とは正反対のものであろう。)そして、『ALWAYS 三丁目の夕日』が大ヒットを記録し、その後、続編が作られたことなども考えると、「あたたかい」人間関係への憧れは、日本の社会問題が人間関係の希薄さから生じていると訴えているNGOだけではなく、もっと広く一般的に共有されているものであるといえる。

しかし、このような昭和の「あたたかい」雰囲気への憧れを抱いているはずの現代人ではあるが、それを取り戻そうという動きは見せず、むしろ人との関わり合いをできるだけ減らしていく方向へと足を運んでいる。そして、その足の運びはモノから他者を排除することでうながされてきたと、筆者は考えている。昭和ノスタルジーを抱きつつも、そこへは戻らず、モノから他者を切り離すことでできた空白に巨大倉庫とアルゴリズムを埋め込むことで成立した時代。それをポスト昭和と名付ける。

 

元来、人間はモノの移動を介して他者を認識してきた側面がある。定年退職したツアー客が昭和ノスタルジーを感じたバングラデシュの農村では、誰がどの家に住み、なにを所有しているのかが分かりづらい。例えば、日本では最低でも一家に二枚、いや三、四枚は大きさの異なるフライパンを持っているだろうが、バングラデシュは違う。バングラデシュでは各家庭で一枚ずつ大きさの異なるフライパンを持っていれば十分なのだ。調度よい大きさのフライパンがなければ、隣人から借りてくればいい。貧しくモノが満足に揃えられない彼らの生活は頻繁にモノの貸し借りをおこなうことで成立している。ここで重要なのは、物々交換ではなく、それが貸し借りであるということだ。つまり、モノの移動は激しいが、所有者(提供者)は常に一定であるため、モノは必ず所有者のもとへと返ってくる。いま使っているフライパンが本来誰のものなのかはきちんと把握されており、フライパンを使っているとき、そして返却するために洗うときなどに、借り手は所有者を意識することになる。もちろん、その貸し借りが、直接顔を合わせておこなわれていることも重要であろう。そこで繰広げられる感謝の言葉やどうでもいい世間話も、互いの存在を日々確認し合う役割を担っている。

『ALAWAYS 三丁目の夕日』では、テレビを買った一家に近所中から人が集まるシーンや、冷蔵庫に氷を詰めにくる氷屋、置き薬屋の訪問シーンがある。それらは全て、描かれた時代が昭和であることを印象づける役割を果たしている。日本の場合、高度経済成長のまっただ中であり市場も機能しているため、テレビの例以外は貨幣を介した商品交換の様式をとっているが、モノの所有者(供給者)と直接顔を合わせており、ちょっとした会話も繰広げられる。描写はないが、「そろそろ氷を頼まなければ」と思ったら氷屋の人を思い浮かべるであろうし、薬屋の訪問の場合ならば誰がいつ頃来るのかをなんとなく想像するときがあるだろう。当然テレビの場合も、あの人の家にテレビがあると認識されているわけである。テレビの場合は、テレビを運ぶわけにはいかないので、人がテレビの方へと移動するが、これはバングラデシュのフライパンの例と原理的には同じ人を介した貸し借りである。

フライパンの所有者も、テレビの所有者も、氷屋も置き薬屋も、いずれも人間であり、モノは人から人へと移動するのが当たり前であった。モノの向こう側には常に人間(所有者、提供者、供給者)が存在し、利用者はその人のことをあらゆるタイミングで思い出し、対面することでその存在を感じることになるのである。昭和ノスタルジーにみる「あたたかい」人間関係とは、そういったモノを介した他者との何気ないやり取りで支えられているのである。

 

しかし、生産性の向上とインフラ整備、流通の利便性の向上、そして、インターネットの普及が加わったことにより、モノの背後に他者を見出す機会は減少する。モノは常にネット上の巨大倉庫に保管され、必要に応じて利用者のもとへと届けられる。ここでいうネット上の巨大倉庫とは、具体的にはAmazonや楽天市場のようなオンラインショップのことである。そこには商品にまつわる情報(商品の写真、値段、品質、在庫数など)が掲載されているだけで、モノ自体は、別の場所に保管されている。利用者はモノを架空の買い物カゴへ入れて、クレジットカードなどで決済することで、早ければ次の日にはそれを手に入れられる。実際のモノの保管場所はそれこそ巨大な倉庫の場合もあれば、個人経営の古本屋や雑貨屋のような店に置いてある場合もあるが、利用者にとってモノの保管場所は特に気にする項目ではない。とにかく自分のところへ届けばよいのである。誰が届けてくれるのか、それがどこから来るのかといったことを気にかける必要はない。「Amazonに置いてあれば」いいのである。想像されるモノの所有者はネット上の巨大倉庫(Amazon、楽天市場)に変わったのだ。

さらに、変化はこれだけにとどまらなかった。私たちはもう自らなにかを選ぶなんてことはしなくてもよくなったのである。自分の欲しいモノがモノの方から来てくれる時代。その環境を作っているのがビッグデータとアルゴリズムである。私たちの好みは細かく分類されてデータベースにしまい込まれる。膨大なデータと洗練されたアルゴリズムは、いつだって私たちが欲するものを提供できる。あるいは、将来欲しようとするものですら提供できる。私たちは、Amazonや楽天市場などのネットショップが、過去の購入履歴や検索履歴などをもとに、似たような商品を薦めてくるといったことにはだいぶ慣れてきた。そして、なんとなくその構造も理解している。そういった広告を少しやかましく感じている人も少なからずいるだろう。ところが、定額制動画配信サービスのNetflixの七割以上の視聴がオススメ機能からだという記事が、今年の二月にネット上に掲載された[注2]。データベースに収納された膨大な私たちの好みのパターンは細かく分類され、優れたアルゴリズムがそれを分析し、私たちにとってなにが必要で魅力的なモノなのかを教えてくれる時代は、もう来ているようである。

ポスト昭和とは、モノの所有者が人からネット上の巨大倉庫に変わっただけでなく、巨大倉庫の側が、利用者が利用しようとするモノを規定する時代なのである。そこには、もはや昭和ノスタルジーにみる「あたたかい」人間関係は存在していない。

 

このようなポスト昭和は、つまり自己に忠実に生きていくということであろう。自己というのが、一時的な欲求なのか、無意識的なものなのか、理性なのかは分からないが、他者に翻弄されることなく生きていくことである。アルゴリズムは、自分がどういう人間なのかを教えてくれるだけでなく、次に選択したいと思うモノを提示してくれる。私にはそれが人々にとってよいことなのかどうかは、分からない。もともとノスタルジアとは、スイスの医師ヨハネス・ホーファーが命名した「症状」であり、「故郷から離れた人々が自分の故郷に戻りたいという欲望から生じた内面的な苦痛」を指す言葉だそうだが[注3]、しかし、私たちはそういった苦痛を和らげるために「あたたかい」人間関係をあえて築いていくということはしてこなかった。してこなかったが、ポスト・ポスト昭和があまりにも「つめたすぎる」気がしてならないのは私だけであろうか。こういったことを契機に、人が人を必要としなくなるということがなにを意味し、そこに限度があるのかどうか、いま一度考え直してみる必要がありそうである。

 

 

[注1]安倍晋三(2006)『美しい国へ』文芸春秋 p.221

[注2]中谷和世「Netflix視聴の75%を支えるオススメ機能の秘密」http://ayablog.com/?p=701 (なお、URLは記事の転載サイトであり、オリジナル[http://kazuyonakatani.com/netflix/]は2015年6月18日現在閲覧できない状態であった。)

[注3]日高勝之(2014)『昭和ノスタルジアとは何か 記憶とラディカル・デモクラシーのメディア学』世界思想社 p.32

 

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