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台頭するイスラームの日本との距離 〜様々なる事象を通じて〜

昭和五〇年=西暦一九七五、イスラームに関する二冊の著書が出版されます。一つは、サイード・フセイン・ナスルの『イスラームの哲学者たち』、訳は黒田壽郎と柏木秀彦です。もう一つは、井筒俊彦の『イスラーム思想史』です。この二冊には単にイスラームを題材としていること以外に共通点があります。それは「日本におけるイスラーム研究が遅れている」という状況認識です。前年にアンリ・コルバンの『イスラーム哲学史』が黒田と柏木によって翻訳され出版されましたが、これを日本におけるイスラーム思想研究の第一歩とし、先の二冊共々自らそれへの呼び水になろうとする姿勢が伺えます。イスラーム研究はここ昭和五〇年から始まったという認識があるのです。とはいえ、まだこの段階ではイスラーム理解への具体的な必要性が強調される様子はなく、単に研究が「遅れている」ことが問題視されています。何かを探究し理解を深めようとすることに対して、実践的な必要性の有無はそれほど重要なことではありませんが、後述する「イスラームの接近」を前提としたイスラーム関連の著書の存在意義は、この時にはまだ見られないのです。

本論の目的は、このイスラームに対する日本の距離の取り方を概観することにあります。『イスラームの哲学者たち』『イスラーム思想史』『イスラーム哲学史』に言及しながらも、その本筋や「イスラームとは何か」について触れていないのは、本論の目的がイスラームの文化や思想の理解を深めようとするものではないからです。イスラームというものがわれわれとどう関わりを持ってきたのか、そして、それはどのように変遷してきたのか。それを概観していくことこそが本論の目的です。それは、日本とイスラームの距離感をより正確に把握する営みです。それは日本を相対化する営みとも言えるでしょう。そして、ある側面からの日本を客観的に見ることを可能にしてくれるでしょう。イスラームについて知るというよりはむしろ、われわれについて知ることになるのです。では改めて、冒頭で示した昭和五〇年から見ていきましょう。

 

昭和五〇年はイスラーム理解の第一歩を踏み出そうという意気込みの伺える年でした。『イスラームの哲学史』の訳者は『イスラームの哲学者』同様、黒田と柏木ですが、「訳者あとがき」にはこう述べられています。「特に述べるまでのこともなく、わが国におけるイスラーム文化研究の歴史が極めて日の浅いことは周知の事実である」と。また、井筒の方も『イスラーム思想史』の「後記」にて「思想にかぎらずイスラーム学一般にその研究は極めて日が浅い」と述べています。さらに研究の「日が浅い」だけではなく、イスラームとの距離も相当遠方にあったようです。同年七月七日の朝日新聞に掲載された『イスラームの哲学者たち』の書評では「われわれにとって、イスラムの世界は西欧よりも遠い。地理的には近いはずであるが日常いつも意識させられている西欧の向こうに、手の届かない蜃気楼のようにただよう、摑み所のないイメージとしてある」と記載されています。ここでは、とにかくイスラームは日本にとって思想的・文化的に遠い存在であり、その研究は随分と遅れを取ってしまっているという認識が明確に浮き彫りになっています。これが昭和五〇年の日本とイスラームの距離感です。

ちなみに、昭和五〇年=西暦一九七五年とは一方で、批評の対象が文学から拡散していく年でもあります。柄谷公人は共同討議「近代日本の批評」の中で「ぼくにとって七五年以降の批評というときには、直接の相手は文学ではなくなってきた」と述べています。文学よりむしろ哲学や文化科学、経済学、心理学、人類学といったものを対象にするようになってきたということです。この柄谷の言葉は、大澤聡が『ゲンロン1』の「基調報告 批評とメディア」で言及している部分でもあり、そこからの孫引きになります。大澤は『ゲンロン1』に記載されている一九七五年から一九八九年にかけての批評史年表の作成者でもあります。その大澤も一九七〇年代半ばの批評史については「成立困難」であり「文芸批評が批評の全体性を体現しえぬ時代」と述べています。批評の対象に文学以外のものが混入してくる時代の始まり。奇しくもイスラームの思想や文化への眼差しはこの昭和五〇年という時代に芽吹いたのです。

しかし、この昭和五〇年のイスラームに対する距離感は、後述する一連の出来事に関わる距離感とはかなり異なっていると言えるでしょう。どういうことでしょうか。

 

昭和五六年=西暦一九八一年、井筒は『イスラーム文化 その根柢にあるもの』を発表します。井筒はこの著書を執筆するにあたって、第二次オイルショックとホメイニーのイラン革命を明確に意識しています。が、それだけではなく当時の流行言葉であった「国際化」意識を汲み、人類が地球規模で統一化されていく将来像に備えようとする姿勢が伺えます。ここでの「備える」とは統一化に伴う摩擦への配慮のことです。井筒のそのような将来像はカール・ポパーの「文化的枠組」による対立というものに依拠しています。「各文化は、それなくしては独自の文化として自己を保持することのできない構造的枠組を本来的に持っている」というポパーの主張を前提にすると、人類の統一化は、その過程において枠組同士の摩擦が起きるだろうということです。しかし一方で、ポパー並びに井筒は、異質な文化の接触は文化的創造性の源泉にもなりうるとも述べています。井筒は摩擦を創造の源へと変換していくためにもイスラームへの理解が必要だと主張しているのです。そして井筒は同著で以下のような言葉を発します。

「イスラームが歴史的事実としてわれわれに急に近づいてまいりました」

この言葉には二つの意味が込められています。一つは、オイルショックのように中近東での出来事が日本の生活に多大な影響を及ぼしているということ、そしてもう一つは人類の統一化という地球規模の時代の流れに備えよというものです。

このような主張は昭和五〇年には見られませんでした。昭和五〇年の方でもその約二年前に第一次オイルショックが起きています。それまでの日本が高度経済成長を維持していたことを考えると、その落差による衝撃は第二次オイルショックより大きいはずです。しかし、昭和五〇年の三冊にはその言及がありませんでした。この違いはおそらく、当時のイスラームへの関心がどちらかというとシーア派やスーフィズム(イスラーム神秘主義)に向けられていたからなのかもしれません。例えば、コルバルンの『イスラームの哲学史』はシーア派的発想に基づいています。これをイスラーム世界における普遍的な哲学史とすることは難しいでしょう。また、ナスリは彼自身がイラン出身のシーア派教徒であり、スーフィズムへの傾きが強い人です。『イスラームの哲学者たち』の中で取りあげられている三人のイスラーム思想家についての記述もスーフィズム的な観点に依っています。特にイブン・アラビーという思想家はスーフィズムの巨匠として知られている人物です。第一次オイルショックとそのきっかけとなった第四次中東戦争では、スンニ派とシーア派、そしてスーフィズムといったイスラームの宗派的な枠組が強調されることがあまりなかったのでしょう。昭和五六年の『イスラーム文化 その根柢にあるもの』の中で中近東の出来事に言及がなされたのは、シーア派であるホメイニーのイラン革命があったからだと考えられます。この革命はオイルショックと同様に日本のマスメディアにも大きく取り上げられています。そして、第二次オイルショックの要因であるイランを理解するにはイスラームのシーア派(十二イマーム派)について知る必要があるということです。『イスラーム文化 その根柢にあるもの』は三章立てで、「Ⅰ 宗教」「Ⅱ 法と倫理」「Ⅲ 内面への道」となっています。最初の二章は基本的にイスラームの正統派=スンニ派に重きを置いた説明がなされています。そして最後の「Ⅲ 内面への道」においてシーア派とスーフィズムの詳細が記述されているのですが、数あるシーア派の中でもイランの国教である十二イマーム派を「文化史的に一番重要なもの」として取り扱います。宗派の違いを理解することがイランという国の文化理解に繋がっているのです。「国際化」の潮流を意識した異国文化理解への配慮と言えるでしょう。

 

平成三年=西暦一九九一年、『イスラーム文化 その根柢にあるもの』が岩波文庫という形で改めて世に出回ります。文庫化に際して目立った加筆はなく、イスラーム文化を理解することの意義もそのままとなっています。当然、読者はこれがもともと昭和五六年に書かれたものであることを意識して読むでしょう。しかし、先にも引用した「イスラームが歴史的事実としてわれわれに急に近づいてまいりました」という動的な事象を示す宣言が、平成三年にもそのまま通用してしまうかのような、時代錯誤を無効にする力を持っているのです。平成的なものとして更新された記述は一切ないにも関わらず。

その理由の一つは、日本にとっては、イラン革命よりもやはりオイルショックそのものが重大であり、文化理解などは出版を通じて広まるようなものではないということです。中近東での出来事は確かに日本を脅かしたが、その関心は価格の上り下がりに留まり、深層を流れる文化的な背景には興味を示さなかった。つまり、イスラームとは常に「遠い」存在であり、「国際化」の潮流により常に「近づいている」存在だと言えてしまうのかもしれません。しかし、もう一つの理由について言及する時、井筒の言葉は一〇年の時を経て現実味を帯びたものと感じられるのです。それはサルマン・ラシュディの小説『悪魔の詩』の翻訳です。

 

昭和に発せられた井筒の言葉が平成に入って再来します。『悪魔の詩』は原題『THE SATANIC VERSES』として一九八八年にイギリスで出版されました。そして一九九〇年に翻訳され、日本でも出版が開始されます。出版が昭和六三年、翻訳が平成二年です。ちょうどこの間に冷戦が終結し、名実ともに時代は転換点を迎えていました。しかし、平成元年=西暦一九八九年一二月のマルタ会談に世間の注目が集まる一方で、アフガニスタンでの社会主義政権と反政府ゲリラのムジャヒディンとの戦闘はそのまま続けられていました。ソ連は軍を完全撤退させた後もアフガニスタン社会主義政権に武器の供与を行い続けており、アメリカの側もムジャヒディンへの武器の援助をし続けていました。平和に向けての握手の裏側で、まだ争いは続いていました。このようなことが『悪魔の詩』の翻訳にも見られます。『悪魔の詩』が英語から日本語へと姿を変えつつも、その内容は変わらず問題を孕み続けていました。昭和の問題はそのまま受け継がれているのです。

 

『悪魔の詩』はインドのムンバイ出身でイギリスに帰化したサルマン・ラシュディによって書かれました。これを訳したのが五十嵐一です。この小説はイスラームを題材として扱っているのですが、しばしばイスラームを揶揄する描写が出てくるためにイスラーム教徒から反感を持たれています。その反感の度合いは大きく、ラシュディはホメイニーから死刑宣告を受けるまでに至りました。そして訳者である五十嵐の方も反感を買うこととなります。一九九一年、何者かによって五十嵐は殺害されてしまいます。

問題だとされている箇所はいくつかありますが、代表的な箇所を上げましょう。預言者ムハンマドを模した登場人物マハウンドが唯一神であるアッラー以外の三女神の存在を認めてしまう場面です。コーランの第一一二章には「告げよ、「これぞ、アッラー、唯一なる神、もろ人の依りまつるアッラーぞ。子もなく親もなく、ならぶ者なき御神ぞ」」とあるので、三女神をアッラーの娘たちとすることは冒涜になります。これは預言者ムハンマドにささやきかけられたという「悪魔の詩」のエピソードに基づいていると言われていますが、イスラームの中にはこのエピソード自体を認めていない宗派もあり、また、コーランには全くこのエピソードは記載されていないため、反感を抱かれるのも不思議ではありません。ちなみに小説では、「あれは悪魔のささやきであった」とマハウンドが訂正するところまで描かれてはいます。五十嵐はまた、小説の文体にも注目し、これに反感の原因の一端があるのではないかと考えていました。問題の箇所はジブリエール・ファリシュタの夢の中の出来事が主なのですが、夢の中の出来事も、現実の出来事も文体に変化はなく直接法で書かれていきます。そこには、「まるで」や「あたかも」という仮定法が用いられていません。そして五十嵐は、「夢を見た」の一文の後、数十ページにわたって直接法の文体が続くことで、その叙述を作者の肉声と混同してしまうのではないか、というような推測をします。また、問題の箇所だけを切り出せば、それが夢の中のことなのか現実のことなのかは分からなくなり、その箇所だけが読まれてしまったのではないかとも考えていました。確かに、『悪魔の詩』は読者をあらゆる箇所で宙づりにさせるといった特徴をもっています。それはすでに物語の冒頭から伺うことができます。冒頭、天空から墜落中のジブリエール・ファリシュタとサラディン・チャムチャの描写と会話が始まります。墜落中である理由は、インド航空のジャンボジェット機が爆発したためだとすぐに分かるのですが、その爆発の原因は第一章の終わりまで、つまり百ページほど進めなければ知ることができないのです。

五十嵐は『悪魔の詩』を訳した後、同著の「解説」や同年に出版された『イスラーム・ラディカリズム 私はなぜ「悪魔の詩」を訳したか』にて、部分的には冒涜ととれる箇所があることを認めたうえで、ホメイニーによる死刑宣告が勇み足であることを主張しています。そもそも五十嵐は、『悪魔の詩』を文学的に評価したからこそ訳すことを決めています。全体を通読さえすれば、決してイスラームに対する冒涜でもないことが分かるだろうし、ましてやイスラーム的な話題を主軸においているとさえ言えるかどうかは疑わしいと、彼にはそのような確信があったのです。それはイスラーム、あるいはホメイニーへのこのうえない尊敬の念を前提としてなされた主張でしたが、その意志は報われませんでした。事件の犯人は結局見つからず、一五年後に時効を迎え未解決事件となっています。

井筒の『イスラーム文化 その根柢にあるもの』の文庫化は、五十嵐の亡くなる約一ヶ月前になされました。事件翌日の各社新聞の夕刊によると、五十嵐は抗議デモなど気にしてなかったとのことです。別段何かを警戒していたということもかったのでしょう。中にはイスラームとの関係は薄いかもしれないとの意見もありますが、しかし、井筒の「イスラームの接近」を告げる言葉がまるで予言のように聴こえてしまうのは、ネガティブな昭和の引力なのかもしれないと考えてしまいます。

 

このように昭和から平成への移行を許すまいとする意志は「暴力」によって表出されました。ここで改めて確認すべきことは、昭和五〇年にあった純粋な思想的探究心によりはじまったイスラーム理解は、オイルショックやイラン革命、あるいは死刑宣告という具体的な事象によって駆動されるようになってきたということです。アカデミズムからジャーナリズム的な傾向が強くなっていきます。というよりはむしろ、ジャーナリズムを前提としないとアカデミズム的な探究が始まらなくなっていると言ってもよいのかもしれません。

イラン革命の後、そのまま情勢は悪化しイラン・イラク戦争へと突入して行きます。この戦争は日本では「イライラ戦争」とも呼ばれ、一九八〇年から八八年まで続きました。イラン・イラク戦争の停戦後、あまり時を経ずに一九九一年から湾岸戦争が始まります。今度はイラクとクウェートの争いです。イラン・イラク戦争の際にはイラクを支援していた欧米諸国ですが、湾岸戦争では多国籍軍となってイラクを襲います。この湾岸戦争は日本に大きな影響を及ぼしました。日本では憲法上の理由で自衛隊の国外派遣ができなかったため、資金提供に留まっていましたが、この姿勢が「血を金で買ったと」揶揄されます。その後、PKO協力法が改正され、自衛隊の派遣が合法とみなされていくのです。このように、日本は中近東で起こり続けいている一連の戦争を通じて、イスラーム世界を認知していくようになります。昭和五五年から約一〇年間かけて、イスラームに対するジャーナリズム的姿勢がアカデミズムを凌駕していくのです。そしてジャーナリズムの伝えるイスラームは、そのほとんどの場合が「争い」、つまり「暴力」を通じてのものとなっています。

決定的となったのは二〇〇一年九月一一日、アメリカで同時多発テロ事件でしょう。特に、アメリカン航空一一便の突入による世界貿易センタービルの崩壊は、資本主義の象徴の崩壊でもあり、世界中の人々を震撼させました。アメリカ同時多発テロは、オサマ・ビンラディン率いるアルカイダという組織によって引き起こされたと言われています。一九七九年のソ連のアフガニスタン侵攻の際にはムジャヒディンの一員としてアメリカの支援を受けていたビンラディンでしたが、のちにアメリカから危険人物として認定され、湾岸戦争にて反米思想を抱くようになります。このアメリカ同時多発テロ事件をきっかけに、ビンラディンやアルカイダといいた中近東情勢へのジャーナリスト的な視線がいっきに熱を帯びていきます。ジャーナリストである池上彰のマスメディアへの露出が高まってくるのもこの辺りからです。

 

ここでイスラームの世界が「暴力」的な事象、つまりジャーナリズム的な視点から知らされるということについてもう少し考えてみましょう。

そもそも、イスラーム世界における聖なる啓典「コーラン」の持つ意味や役割を第三者が理解していくことは非常に困難であるということは、昭和五〇年の段階ですでに言われていたことでした。こと日本においては、その内容理解のハードがいかに高いかということは今日の状況を概観しても容易に想像ができるでしょう。日本とイスラームを隔てる距離は主に二つの理由によって遠く隔てられていると言えます。

第一の距離は、超越的な存在/絶対的な他者に関するものです。超越的な存在/絶対的な他者に対して身を全面的に委ねていくという姿勢は日本にはあまり馴染みがありません。もちろん過去にそのような姿勢が伺える時代はありました。例えば、浄土真宗の開祖である親鸞です。親鸞の高弟である唯円によって書かれたと言われる『嘆異抄』の第八章は他力の念仏について書かれています。

 

念仏は行者のために非行非善なり。

わが計らいにて行ずるにあらざれば非行という、わが計らいにてつくる善にもあらざれば非善という。

 

自分の考えや分別で称えているわけではないから「行」とは言えない。ゆえに「非行」と言う。また同じく、「善」についても自分の思慮で称えられた念仏ではないから「善」ではなく「非善」と言う。念仏を称えるということは全く他力=弥陀の力によるもので、自力からは離れたものである。いまでこそ浄土真宗という名称は葬式の時にしか耳にしなくなってしまったかもしれないが、日本の仏教にはこのような絶対的他者に完全に依拠していく姿勢があるのです。

このような私滅の姿勢は、ときに宗教的枠組を超えて共感を得ることがあります。アジア人として初めてノーベル文学賞を受賞したのはラビンドラナート・タゴールというインド出身の詩人です。文学賞を受賞したのは一九一三年年です。彼の代表的な詩集『ギーターンジャリ』の第一編を見てみましょう。

 

わが頭(こうべ) 垂れさせたまえへ 君が み足の 塵のもと

わが高慢(たかぶり)は 残りなく 沈めよ 涙に

わが身を ただ卑しくす

己れを ただ 包み隠して 惑ひて止まず

わが高慢は 残りなく 沈めよ 涙に

 

われは 誇らじ わが業(わざ)なすとて

み心を 成しとげたまへ わが生命(いのち)を召して

あらま欲し 己が身に

こよなき君の 静寂(しずけさ) 優雅(みやび)

わが身を掩(おほ)ひて 立ちませ 心臓(むね)の蓮華(はちす)に

わが高慢は 残りなく 沈めよ 涙に

 

一行目の「君」とは神のことですが、ここではヒンドゥー教のヴィシュヌ神が想定されています。自分の頭が垂れるのは自分の意志ではなく神の意志であると詠っています。後半の小節の「こよなき君の」の「こよなき」とは「この上ない」という意味で、神が絶対的な他者であること示しています。そして、私の心臓を台座とし、神の姿が私の姿を隠して見えなくなして欲しいと詠っています。自分を全く没却しひたすら神に身を捧げる敬虔な気持ちと姿勢。これが西洋の人々の共感を得てノーベル文学賞受賞へと導かれていくのです。タゴールはベンガル語で書かれた詩を自ら英語に訳しています。その翻訳によって西洋の人々は彼の詩の内容を知ります。ちなみに、ベンガル語は現在のインドの西ベンガル州とバングラデシュの日常言語として使われています。バングラデシュは人口の約八割がイスラーム教徒でありヒンドゥー教徒は少数ですが、タゴールの詩や歌は多くの国民に受け入れられています。バングラデシュ国歌である「我が黄金のベンガルよ(amar shonar Bangla)」の作者もタゴールです。ベンガルにおいてはすでに宗教的枠組を超えてその普遍性が共有されており、翻訳によって世界的なものとなったと言えるでしょう。ところが、こういった絶対的な他者に全面的に身を委ねていく姿勢は日本には馴染んでいないようです。「他力本願」の他力が弥陀ではなく「他人」という意味で使われていることからもそれは伺えるでしょう。この宗教的な姿勢がイスラームと日本を隔てる第一の距離です。

そして第二の距離は、翻訳の持つ性質に起因しています。翻訳はタゴールの詩の普遍的内容を広く開いていきつつも、詩の全てを引き受けることはできません。タゴールの詩はその内容において広く評価されたわけですが、実は言葉の響きにも重きが置かれています。例えば詩の訳者である渡辺照宏は、一九七七年出版の『タゴール詩集』の「訳者のことば」において「詩を味わうには原語で読まなければいけない、とよく申しますが、ラビーンドラの詩のばあいには特にそうです。この詩人の詩は思想的内容のみではなく、その言葉の響きにも鋭い感覚を持ち、その効果をみごとに結晶させました」と称賛しています。参考までに「雨の後、木の葉が揺れる」をベンガル語にすると「ジョル ポレ パタ ノレ」となります。それぞれ「雨の(ジョル)後(ポレ)、木の葉が(パタ)ゆれる(ノレ)」というように対応しています。短いですが、ちょうど二音節ずつリズムよく刻まれるこの言葉からも、ベンガル語の響きの心地よさが味わえるのではないでしょうか。「詩を味わう」と言う時、タゴールに関してはその音まで含めて堪能することができるというわけです。しかし、翻訳はこの音を捨象します。

 

翻訳による音の捨象。それは「コーラン」についても言えることです。少し長いですが『イスラーム思想史』の井筒の言葉を引用しましょう。

 

かくて、コーランは論理的に見れば矛盾に満ちている。このことは、後に主としてギリシャ思想との接触によって論理的に目覚めた回教徒自身も認めざるを得ないところであった。そして事実、多くの学者はこれらの数々の矛盾を如何にして論理的に解決するかという問題に一生を捧げた。しかしながら、コーランを論理的に組織立てようとする試みは、むしろ本来のコーランの精神に合致しないのである。そこでは論理的構成は始めから問題になっていないのだ。当時のアラビア人は何等そのようなものを要求しなかった。コーランは真に昔のアラビアの気持になり、アラビア語の美しさを味わって読む人に対してでなければ、面白くないし、また本当に崇高な精神的興奮を与えてはくれないのである。

 

井筒は、本稿においてイスラーム理解の出発点である年の一八年も前に、昭和三二年=西暦一九五七年に「コーラン」を訳し『コーラン』を出版しています。しかし、彼自身の言葉によれば、そこに見出されるのは論理的矛盾であり、それを超えて崇高さを支える言葉の響きは捨象されているということになります。音の響きの良さを味わえないことは、アラビア語を母国語としない日本人にとっては大きな壁と言えます。そしてこのことこそが日本とイスラームを隔てる第二の距離です。第一の距離とはその内容自体、つまり絶対的な他者に対する宗教的な姿勢が薄いことでした。そして、第二の距離は音の響きの捨象によるものです。言葉の伝達において内容と音の両方が欠けているということは致命的としか言いようがありません。この二つの隔てりを考えると、イスラームを理解することの困難さが如実に現れてきます。『悪魔の詩』は英語で書かれたものでした。矛盾を乗り越えるためのアラビア語的な響きは不在です。ただ単に揶揄ともとれる内容が記されているのみとなります。そして、唯一神への感覚が鈍い日本では「いったいこれのどこが揶揄になっているのか」を感覚の次元では理解し難い。偶像崇拝が死刑宣告に繋がってしまうのは感覚的に行き過ぎていると思うのが「一般的」でしょう。

内容と音による隔たりは、妥協的で概念的な理解に留まることを意味しています。誤解されないよう付け足しておくと、そのこと自体は別段悪いことだとは考えていません。妥協的概念的な理解であってもイスラームの持つ魅力を享受することはできるでしょう。しかし、もしその良さを少しも理解しないまま付き従うのならば、それは「服従」(submission/soumission)という言葉で言い表されるのかもしれません。

 

昭和九〇年=西暦二〇一五年にミシェル・ウェルベックの『服従』が発表されます。言語はフランス語です。同年九月に日本語訳が出版されます。訳者は大塚桃という人物です。彼/彼女に関する説明は「現代フランス文学の翻訳者。訳書多数」の二文のみとなっています。『悪魔の詩』を踏まえてなのか、訳者は架空の人物で、謎のベールに包まれたままとなっています。昭和から平成への移行を許さなかった引力が昭和九〇年になって蘇るのを防ぐかのように、大塚桃は見出されたと言えるのではないでしょうか。

「服従」という言葉について、ウェルベックに入る前に、いま一度『悪魔の詩』を確認していきたいと思います。『悪魔の詩』において「服従」は、イスラーム教徒ではなく、三女神を崇拝する者たち、イスラームからすれば偶像崇拝をする者たちによって用いられた言葉です。マハウンドが三女神を認める発言を「悪魔の詩」だったとして撤回すると、ジャーヒリーヤの街の太守であるアブー・シンベルという人物がイスラームの迫害政策を実施します。そして、太守からイスラームに対して付けられた新たな名称が「服従」なのです。「服従」にはどのような意味(idea)が込められているのでしょうか。バールという詩人がジャーヒリーやの街から逃げるマハウンドを思ってこう述べています。

 

What kind of idea does ’Submission’ seem today?

(いかなる意味を今日“服従”が持つと思うか。)

One full of fear. An idea that runs away.

(恐怖に満ちた意味。逃げだす意味。)

 

恐怖とは迫害政策のことでしょう。そしてアッラーを唯一神と考える者は常に逃げ続けなければならないということが、ここに込められています。イスラームの外から付与されたこの「服従」という言葉。作者のラシュディがいつイスラーム教徒であることをやめたのかは厳密には分からないが、彼はマハウンドの側にはいなかったと考えられます。イスラームではない彼が「服従」という言葉を用いたと解釈するのが妥当でしょう。そして、「服従」は純粋なる神への服従といった自己の没却を意味するものではなく、人間社会の不条理に対して「服従」しろという外部からの意味を持つものだと言えるのです。その意味で言えば、例えばソマリア出身のアヤーン・ヒルシ・アリが『INFIDEL』を二〇〇八年に発表した際、それをそのまま『背教』や『不信心者』と訳さず『もう、服従しない』としたことは的を射ているのかもしれません。

 

ではウェルベックの『服従』はどうでしょうか。その物語の大筋はこうです。

二〇二二年のフランス大統領選挙の第一回投票で、移民排斥を訴えている国民戦線の代表マリーヌ・ル・ペンとイスラーム同胞党のモハメド・ベン・アッベスが一位と二位になる。負けてしまった社会党とUMP(国民連合運動)は、ファシストよりもイスラームの方がマシである考える。そして決選投票にてイスラーム同胞党が勝利し、フランス社会が一気にイスラーム化していく。女性の露出が抑えられたり、一夫多妻性が承認されたりする。主人公フランソワは大学教授であるが、教授職はもっぱらイスラーム教への改宗が求められるため、彼はその職を降り、退職金で生活することを選択する。しかし、物語終盤にロベール・ルディジュという人物が主人公の教職復帰の説得に成功する。主人公は改宗の決心をし、改宗後の生活を想像しながら幕を閉じる。ちなみに本当に改宗したのかどうかは明言されていない。

「服従」は小説の終盤に出てきます。イスラーム教徒であるルディジェが主人公の改宗を促す台詞の中にあります。ルディジュは『O嬢の物語』という官能小説を引き合いに出し、「服従」の必要性を説きます。

 

「『O嬢の物語』にあるのは、服従です。人間の絶対的な幸福が服従にあるということは、それ以前にこれだけの力を持って表明されたことがなかった。それがすべてを反転させる思想なのです。わたしはこの考えをわたしと同じ宗教を信じる人たちに言ったことはありませんでした。冒涜的だと捉えられるだろうと思ったからですが、とにかくわたしにとっては、『O嬢の物語』に描かれているように、女性が男性に完全に服従することと、イスラームが目的としているように、人間が神に服従することとの間には関係があるのです。」

 

「服従」を肯定的に捉え、女性の幸福が男性への服従に見出されるように、神への服従が主人公を幸福にするのだと説得しているのでしょう。『悪魔の詩』の「服従」が「恐怖」や「逃げ出す」という意味を持っていたのとは対照的です。なにより、「服従」という言葉が他のイスラーム教徒を気にしつつも、イスラーム教とから発せられているという点は『悪魔の詩』と大きく異なるところです。

しかし、話を進めていくとルディジュが「服従」を見出したのは改宗前だったことが伺えます。それは、主人公がインターネットで見つけたルディジュの過去の論文の中で、彼のかつての同僚である伝統主義者とアイデンティティー運動について暗に言及している箇所に見出せます。アイデンティティー運動とは、小説の脚注によると「極右の政治運動で、白人という人種やキリスト教など何らかのアイデンティティーに根拠を置き、その名の下に集まる」ものだそうです。ルディジュは論文の中で「彼ら(伝統主義者やアイデンティティー運動)は本質的な部分、つまり、無神論や人間中心主義への拒否、女性の服従の必要、家父長制への回帰などについてイスラーム教徒と同意見にある」と述べ、そのような考えを現実的に機能させるにはキリスト教ではなくイスラーム教であると確信しているのです。

主人公は最後、神への「服従」の生活を思い浮かべ、それが後悔しないであろうことを淡々と確認していきます。

 

このような消極的ともいえる改宗は果たして現実に起こるのだろうか。世俗的で宗教的空白の著しい日本に置いてはどうか。本稿ではいかに日本とイスラームとの距離が遠いのかを確認してきました。最後にひとつ国際的な消費の流れに注目してみましょう。

アメリカの調査期間ピュー・リサーチ・センターによると、二〇五〇年にはイスラーム教徒人口が約二七億六千万に達し、キリスト教徒の約二九億二千万人に急接近するようです。人口比率でいえば、全体の約三十パーセントがイスラーム教徒になる予想です。出生率の高い国にイスラーム教徒人口が多いのが一番の特徴ですが、イスラーム教徒への改宗人口も増えているようです。この人口拡大を市場としてみる動きが近年強まってきています。例えば、ハラル・ビジネスです。ハラルとはイスラーム法(シャリーア)的に合法であることを意味します。有名なところで言えば、イスラーム教徒は豚を食すことを禁じられているので、豚肉はもちろんラードを使用した料理も食べられません。豚肉調理に使用された調理器具も忌避されます。それから屠殺方法も厳密に決められており、適切な手順にそって屠殺されたものでないとハラルとは認められないのです。このようなイスラーム教への配慮がなされた商品開発に打って出ようとするのがハラル・ビジネスです。また、アパレルの分野においては、ユニクロが「モデスト・ファッション(控えめなファッション)」ラインの展開を始めています。イスラーム教徒の女性へ向けて頭髪を隠すヒジャブなどの販売を開始する予定となっています。

イスラームは聖と世俗とを分離しないため、消費においても細心の注意が払われます。『服従』にてフランス社会が変化したのもそのためです。宗教的な人口バランスの変化は市場に少なからず影響を与えるでしょう。マクドナルドよりもケンタッキーフライドチキンの方が潜在的な市場は大きいということです。しかし、日本のハラル・ビジネスはそれほど大きな潮流を見せているとは言えません。セミナー等も開かれて入るが、人の集まりはあまり芳しくない印象を受けます。おそらくそれは、先に示したようにイスラームと日本の距離に関係しているのでしょう。ハラルを守るということはアッラーに従うということです。そのためには、イスラームとの間にある距離を埋める作業をしていかなければなりません。

しかし、一方でわれわれが世界の人口動態を市場の変化と捉えているように、イスラームの側ではハラル・ビジネスへの参入を布教機会の拡大と捉えているでしょう。ピュー・リサーチ・センターの推測は半自動的な流れによるものであり、意識して避けられるようなものでもありません。そして、『服従』の改宗が消極的であったように、つまりアッラーを信じるかどうかはとりあえず不問にしてイスラーム的な営みに順応していくように、距離は半ば強制的に縮まっていくのかもしれません。

 

文字数:14140

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