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大ヒット映画の原作小説を書いたスキンヘッドの放送作家に振り回されたメディアを軽蔑する

「映画的なもの」とは、クチコミである。映像そのものの内容が問題なのではない。映像を受容する側がどのような文脈で理解するのかが問題なのである。つまり、映画そのものは「映画的なもの」ではない。
 まず、昭和における観客と映画の関係について触れる。
 『惹句術 映画のこころ』に〈惹句屋〉関根忠郎へのインタビューがまとめられている。映画ポスターに書かれた関根の惹句をこの論文の中に引用しない。だが、斉藤守彦の『映画宣伝ミラクルワールド 東和・ヘラルド・松竹富士 独立系配給会社黄金時代』の帯に書かれた関根の惹句から熱量を想像してほしい。
コヤ〈劇場〉を満員にしろ!
他社を蹴落とせ!
ヒットのためなら
何でもやれ!
 『惹句術』の冒頭には映画評論家山田宏一と山根貞男の対談が配置され、昭和という時代に映画を観ることがどのようにはじまる経験だったのかが語られている。
山田——映画が作品として存在するのは、フィルムがスクリーンに上映されたときからなわけだけど、映画ファンとしてのわれわれの映画体験は実は映画を作品として見る以前から始まっていると思うんですね。(略) もちろん、プロの世界、商売というか、現場というか、制作、プロダクションの側では、映画は企画の時点から始まっているわけだけど、そのへんのところを興行評論とかいった形でなく、もっと純粋に映画観客としての、ファンとしての立場からさぐっていけないだろうか。(略)
山根——映画を生きものというふうにとらえると、その生きものは、たしかにスクリーンに接する以前から、ぼくらのなかに棲みついていますね。(略) 社会環境というと堅苦しいけど、巷ですよね。映画はもともと、まず巷にあったんじゃないかと思う。例えば巷で、電信柱とか塀に貼られた映画ポスターを見るとき、その雰囲気がすでにもう映画でね。
山田——映画館に入って映画を見る前から、映画が始まっていた。
山根——そう。ポスターという形で映画という生きものが巷のあちこちに息づいていて、その息づきから映画がわれわれのなかで始まっていた。ところがいま、そのポスターがほとんどなくなってますね。
(略)
山根——先日、風俗営業法の改正のときに、映画業界が自主規制して、一時期だけれど、ポルノ映画の上映館はポスターを貼らず絵看板も掲げず、題名だけ文字で書くっていうふうにしたでしょ。あれなんか、環境美化の名目が巷から映画を締め出した典型例ですよね。映画全般がほぼそんな扱いを受けている。ポスターがそんなふうで、映画の宣伝広告のあり方が変わってくるとなると、当然それにつれて巷の映画というイメージは変わり、映画を見る人の映画意識が変わってくる……。
山田——情報時代だから、情報の媒体がいっぱい増えてきて、週刊誌やらテレビやら、タウン情報誌やらね。映画の興行や宣伝、それに映画を見るという意識そのものが近代化され、都会化されてきたということなのかもしれないけど、なんか映画そのものに対する直接的な親しみが薄らいできた。
『映画のこころ 惹句術』 講談社 1986
 この対談から、ネットがなかった時代の情報の氾濫のあり方を窺い知ることができる。ここには、観客が情報を発信するという文化が存在しない。一方向的に情報を享受する構造のみが浮かび上がってきている。おそらく、観客がメディアの中で映画の感想を発信することができたのは雑誌の投稿欄ぐらいだろう。別の観点から捉えるのならば、編集する人間が間に入った情報しか流通していない時代だった。
 今はネットで誰もが映画の感想を書くことができる。否定的なことを書く人間もいるだろうし、楽しかったとしても何も書き込まない人もいる。書き込まれなかったら意見は存在しない(だからなのか、ネット上では継続的に書き込みをする声の大きな人間が目立つようになってしまう)。
 上野千鶴子は新聞のインタビューのなかで論争の方法について語っている。
科学史家トーマス・クーンが言う「パラダイム転換」はどうやって起きるかというと、論争当事者ではなく聴衆が決着をつけるんです。相手を論破する必要はない。どちらに理があるかを聴衆が判断し、それによって社会の常識も変わっていくんです。
2015.4.20 朝日新聞 5面
 意見を書き込まない限り、意見も考えている人間が存在するという情報も存在していないことと等しい。それは、活字でコミュニケーションをとらなければならないメディアの抱える問題が露呈しているとも言えるだろう。愚者を弄るということは、他のコンテクストをぼかしてしまう可能性がある。そのことにも注意しなければならない。
 映画について考えるなら、価値のない作品に資本が投下されることもあるだろうし、そんな作品でもオリンをコスって大衆が感動しちゃった、なんてことが起こることもあるのだろう(別に論文のタイトルとは関係ない)。パブリシティのためにネット上にいろいろと書き込む声の大きい当事者というのは何かと鬱陶しい。面倒な時代だ。
 フェリーニの映画の台詞のようにネットという環境を楽しむしかないのかもしれない。
「人生はお祭りだ、一緒に過ごそう」
 やだね。

文字数:2108

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