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絵描きのはしくれとして

ぱっつん髪と丸メガネの『自画像』(1929年)を観て、アァ私もこういうものを描きたいと素直に感動したものだった。習作としてではあったが自画像を描き続けていた時期が私にもあり、絵の中からこちらを見つめる藤田の眼差しが、ひたむきに絵に焦がれていた当時の自分を思い出させる。

ところが14年後の1943年に描かれたものはどうか。有名すぎる『アッツ島玉砕』や『ソロモン海域に於ける米兵の末路』の中にあるのは、世界大戦で一兵卒と同じような心境で戦う絵描きの魂であり、作品の主題も戦争によって極限状態に置かれた人間という、私の知らないイメージだ。体験したことのないシーンへは共感する術がなく、ただ想像するに留まる。

 

海や船という存在は希望と不安を同時に孕むメタファーであり、明と暗のダブル・イメージによって様々な事象を示唆するアイテムとして普遍的だ。そして絵描きを通して、海難事故に遭って漂流する筏やボートを絵画の主題として用いる、言わばロスト・シップ・シリーズと呼べる絵画作品たちを生み出すことにもなった。『ソロモン海域に於ける米兵の末路』はその流れを汲む、西洋絵画史の伝統に則った正統派のタブローである。言うまでもなく、藤田は日本軍からの依頼を受けて戦意高揚のための戦争画を手がけていたのだが、この作品も、西洋絵画を正確に踏襲した「キャンバスに油彩」なのに作者名のサインは漢字、制作年は皇紀で「2603」と記されている。明治維新よりも後の時代で、画法も画材も実にヨーロッパ的であるのに、サインだけは「日本アピール」をしている不自然さから、独特で複雑な背景がうかがえる。そしておそらく、藤田自身も作品の主題と同じように、日本という船に乗って今にも殺されそうな不安と共に、漢字と皇紀のサインを記したのであろう。まさか日本が敗北するだけではなく、自分が日本からスケープゴートにされる皮肉な未来など知る由もなく。

 

大海原に投げ出され、助けもなく、ただ荒波に揺られるしかない敵兵が、圧倒的な絶望の中で仁王立つ姿が印象的なこの作品は、どんな境遇でも微かな希望を忘れない寓意でもある。

しかしロスト・シップ・シリーズの他の絵画作品のように、飢餓、脱水、食人、狂気といった負の側面が船を包んでいるのも確かなことで、特に実際に起きた出来事を元にして描かれた、テオドール・ジェリコーの『メデューズ号の筏』(1818〜1819)を連想すると、とても作品内に希望を見出すことはできず、敵兵の仁王立ちも虚勢を張った空元気に見えてくる。

 

一方、現代美術家の日比野克彦による作品では、打って変わって船は「望み」の塊だ。彼にとって「様々な人や地域(アウェー)との出会いは、自己(ホーム)を見つめるきっかけ」であり、美術館は港だという。〔※1〕船が目的地へたどり着けないかも知れない、船の行先がわからないといった、未知への不安の要素は全て排除され、望めばいつでも陸に戻れるという社会への信用や無意識の安心が、大前提として用意されている。日比野の「船」はそこから更に先へ進んで、2003年、第2回大地の芸術祭越後妻有アートトリエンナーレにおいて朝顔を育てたことから、育てた朝顔の種を「人やモノ、地域をつなぐ“船”のようだ」とみなした。それにより、2010年から『種は船プロジェクト』という、種を模した形の船を制作し始め、実際に航海をさせるというアートプロジェクトも進んでいる。〔※2〕こういった、安心と喜びに満ちた「船」作品は、デザイン的な「人を幸せにする」という目的や考えを基軸にして創造されており、いかにもデザイン畑を出身とする日比野らしい着想や展開だと言えよう。

 

海や船が内包する絶望や希望といった、相反する側面の前者を抽出した藤田と、後者を抽出した日々野。どちらも日本を代表する美術家の一人でありながら、生まれた時代の72年のズレによって、まるで反対のイメージを海や船に託すこととなったが、理由はやはり「戦争」だ。東京国立近代美術館に収蔵、展示されている戦間期の絵画作品には、古賀春江の『海』(1929年)のように、海と船を明るいイメージで捉え、表現したものもあるからである。〔※3〕古賀の『海』では、青空に白い飛行船や鳥が飛び、海面には赤い船が悠然と浮かんで、海中にはカラフルな魚が泳ぐ。近景にはレジャー用の水着のような服装の女性が、つま先立ちをしながら生き生きと描かれている。そう、戦間期であれば、つまり戦時中でなければ、まるで高度経済成長期を経た日本かのように、浮かれて華やかな様子が絵画作品にも反映されていたのだ。

ところが、シュールレアリスムという点では古賀春江のものと共通していながら、『ソロモン海域に於ける米兵の末路』と同じ1943年に制作された山下菊二の『日本の敵 米国の崩壊』では、海に投影されたイメージは対照的に不吉である。近景に描かれた女性の表情も、古賀の『海』の女性とは異なり、恐ろしげだ。こういったところからも、戦時下では社会や人心が大きく不安に傾くことを再確認することができる。

 

海や船は、描こうとする者たちの心象風景を如実に反射する。そして我々は常に、いつ第三次世界大戦や、それに近い事態が起こるのかと怯えている。

本稿の執筆の最中、2015年11月14日から、フランスで第三次世界大戦の開始を予感させる同時多発テロ事件が起きた。勿論、他の国や地域でも戦争や大事故は起こり続けているのだが、先進国の中心のパリという場所で大規模な殺戮が起こるのは911以来の衝撃である。しかもその自爆テロ犯であるスイサイドボマー(自殺的な爆破者)を、フランスの大手メディアは「Kamikaze」と呼んだ。ここで神風特攻隊とはまた、世界大戦の開始を暗示させてしまうニュースだ。

 

戦争画を観るたび、仮に自分が戦争に巻き込まれたらと想像する。「私も軍に指示された通りの作品を、配給でしか入手できない材料で制作するようになるのだろうか?」と。そうなってしまったら、私が海や船に投影するイメージも、ロスト・シップ・シリーズのようなものになるのだろうか。さまよい戸惑う心を海や船で表現するのだろうか。

私はそういう絵を描きたくはない。

 

 

 

〔※1〕金沢21世紀美術館公式サイトより

〔※2〕「種は船プロジェクト」公式サイトより

〔※3〕独立行政法人国立美術館 所蔵作品総合目録検索システム

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