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歪んだ王国に僕たちは住んでいる

身体醜形障害は、錯覚の殻が破綻した時に発症する病だという。鏡を見る行為が苦痛で堪らなくなるこの疾患は認知の歪みによって引き起こされるが、人間と鏡の関係はラカンが「鏡像段階」という概念を提唱していることからも、切っても切り離せない。

鏡像は普通、見る者と瓜二つのようなイメージで考えられる。それは鏡像と見る者の間にある意図や了解によって成立している。同時に鏡像は、常に左右反転を避けられない不完全な虚像で、不確かなものだ。本稿では、人間の行動や思想に密接に関係しながら様々に揺らぐ鏡像を、4つのタイプに分けて論じる。それらは図のような座標にまとめられる。

適した鏡像のモデル
適した鏡像のモデル

我々は鏡像と自分を同一化することで自我の最初の輪郭を形作るが、見る者と鏡像は完全に同一の存在ではない。それでも鏡や鏡像は、世界を正確に捉えて人間の精神を導く優秀なヒントであり、メルロー・ポンティが絵画と鏡について言及したのも当然だった。西洋絵画において、鏡は世界や人間を映しつつ、同時におのれの内面を見つめて真理を追究する道具として示唆に富む、奥深い存在だったのである。

 

ところが日本の美術史には西洋のように鏡について哲学する歴史はなく、鏡に託されたのは、神の依代、魔除け、世俗を聖に変換する装置としての役割だった。したがって日本における鏡は西洋的な「しきたり」を逃れ、自由な変形を楽しむツールとして発達した。内部に鏡を備えたカメラ・オブスキュラによって描かれた絵の訳語には、真理の「真」を含む写真という言葉があてられたが、日本人にとって写真は、べつだん真理と繋がっているわけではない。そして現代の日本人には写真がごく身近な存在だ。人々は気軽に写真を撮影し、フィルターや文字などを組み合わせてイメージを創作する。この時カメラは、ジョン・ロックやニュートンが著した反省的内観や自己考察のモデルとしてではなく、たんに、絵の描き方を知らない者でも素早く絵が描ける道具でしかない。だから人々は写真となったおのれの鏡像に脚色を加えることに些かの躊躇もなく、おのれの鏡像を変形させて配布することが挨拶代わりにもなる。そういったコミュニケーションツールとしての鏡像の機能に着目したのが、アトラス社による商品『プリント倶楽部』に端緒を開くプリントシール機とそのデータで、国内では1995年の発売開始から現在に至るまで流行を続けている。プリクラの愛称で親しまれるこの商品は諸外国への輸出も試みられたが、海外市場では数年で赤字を出して撤退となった。つまり日本以外では、大きく歪めた鏡像を配布する遊びが受け入れられていないのだ。その理由の一つに、鏡像は真理を追究するための正確な手がかりであるべきだという価値観も挙げられる。

 

西洋世界においては、中世以降、次第に自我が意識されるようになり、鏡の普及や肖像画の増加で反映された。そしてヨーロッパ個人主義が形作られて現在に至るのだが、過剰なぼかしや変形によって個性を打ち消した鏡像であるプリクラや「詐欺プリ」は、その流れに沿っていない。

この時期の肖像画の巨匠にベラスケスがいるが、中・後期の作品では「顔」がぼかして描かれ、初期とは違って顔面の細かい皺が隠されているように見える。一見、過剰なぼかしや変形を加えた「詐欺プリ」の顔と似ている。しかしこれは当然、顔面の皺やしみ、そばかすといったノイズを除去して無個性なペルソナイメージを作り出すことが目的ではない。平倉圭によれば、このぼかしは「顔」の存在感の「絵画的翻訳」である。つまり中・後期のベラスケスによる肖像画において、顔は、ぼかされることで固有の存在感を獲得し、単なる見た目の記録以上の鏡像となったのだ。それは個人をよく詳しく見せるためのぼかしや変形であり、個を打ち消そうとする「詐欺プリ」の画一的なぼかしとは対極のものである。

西洋絵画史上、最高に傑出したリアリズムの画家ベラスケスによる肖像画は、自我を重んじる個人主義の台頭の時代と同時に制作され、個人主義的社会に適した鏡像イメージと合致した。それは、反省的内観を経て辿り着く、おのれの内面に潜むものをあばいて「真」やリアルとして上位に、それ以外の表象は「偽」として下位に序列する。中・後期のベラスケスによる肖像画は、個人主義を理想に掲げながら「真」を極限まで求めた鏡像だ。よって、図の中ではaの位置に相応しい。当然、その対角のcには、真逆を目指す「詐欺プリ」が置かれる。

 

かつて西洋で肖像画と呼ばれた、美術品でもある鏡像は、その形を写真によるセルフ・ポートレートに変えた。現代でも西洋由来の世界観の中では、鏡像を通して自我をよりはっきり捉えようとする流れを汲んで、鏡像にはベラスケス絵画ほど強烈ではなくてもリアリズムが期待される。必ずしも個人主義の一辺倒ではない現代では、セルフ・ポートレートの理想像も社会の多様化に伴って幅広くなったが、自我を重んじる傾向を保ちつつ全体主義的な世界にも順応できる、図のbの位置に、近現代のセルフ・ポートレートがある。こういった価値観のもとでは、横並びのために変形させた「詐欺プリ」というおのれの鏡像は、ただ自我や自分らしさを否定するものであり、リアルではない「偽」であり、有効なコミュニケーションツールではない。

 

一方、すすんで「詐欺プリ」を扱う国内の若年層ユーザーは、呼称を「自撮り」に、媒体をスマートフォンやインターネットに移行させつつ、歪めた鏡像を利用している。宮台真司に「島宇宙化」と名付けられた内輪志向のコミュニケーションを基礎としながら、SNS上に配布されるそれらの画像は、90年代に流行した「ガングロ」や「ヤマンバ」と同じ構造で、美醜とはあまり関係のない価値観に依拠している。つまり自己満足と仲間内の約束事の集積だ。この時、顔写真はコスプレの一種となる。これは決して、後付けされた「コスプレをしながらプリクラを撮る行為」を指しているのではなく、プリクラがそもそも、自我の存在を認めない村社会に適したペルソナの量産に一役買う商品であるということだ。この場合、鏡像は偽りの仮面であることこそが目的で、「真」と「偽」の関係や序列は逆転している。プリクラや「詐欺プリ」という、個性を偽る行為を正しいとする前提での鏡像が、日本特有の村社会的な自己を手っ取り早く作ろうとする欲求である以上、国内でヒットしたプリクラの筐体をそのまま諸外国に輸出しようとして赤字を出したのは当たり前だったとも言えよう。

 

村社会とSNSの類似は「mixi八分」という造語然り、常々指摘されていることではある。そんな中、日本人と鏡像の関係を新たに更新しようとする動きが見られるようになった。2015年4月、フジテレビ系列のバラエティ番組で「近年、身体醜形障害の患者が急増している。一番の理由は自撮り・SNS投稿の急増だと言われている」と喧伝されたのである。

インターネット環境が整っていること、地震が多いこと、2015年9月にTwitter Japanが「世界的にも”異常”なほどアクティブユーザーが多い日本を重要な市場と捉えており…」と発表したことなどから、日本人のライフスタイルとSNSの親和性が高いことは間違いないだろう。

しかし、この疾患は19世紀から既に「醜形恐怖」という呼び方で広く知られていたこと、近年急増したと主張する根拠が欠けていること、発信源がバラエティ番組であることなどから、番組内で制作されたイメージは眉唾ものだ。ともあれ、プリクラや「詐欺プリ」の延長である自撮り・SNS投稿を、精神疾患の発症と結びつけようとする意図は読み取れる。村社会やそれに適したペルソナを、何か病的なものを召喚する不吉とみなしたいのだ。

 

「Facebook症候群」に罹患すると「自我が抑圧されすぎている」と感じて苦しむ。だが日本で生きてきた者は、元からナルキッソスやピグマリオンの神話に馴染みがなく、カメラ・オブスキュラによって個人の視点が真正なものと認証され正当性を付与されたという経験がなく、鏡は世界を映すものではない。言い換えれば、日本人はそもそも、自分の姿を鏡に反射させて見ることで自我をあらわすべく訓練するという伝統を受け継いでいないのだ。能舞台においても「鏡の間」は、役者が世俗の自己を脱却すると同時に、神聖な仮面を装着する場所である。あくまで、世俗の自己のペルソナを神聖な仮面に変更するのであって、自我を見出そうとする運動ではない。

鏡を通じて自我を見出そうという西洋由来の技術を習得していない状態で、日本特有の村社会に息苦しさを憶えた場合、苛立ちの矛先を村社会の顕現である自撮り・SNS投稿に向けるのは容易い。留意すべきは、そのバラエティ番組が発したメッセージが、決して「鏡像を投稿するならセルフ・ポートレート的なイメージにしよう」といった、日本らしさを踏まえながら自我も重んじようという呼びかけではなく、鏡や鏡像にルールがないからこそ独自に発展して創造できた、ごく日本的な鏡像に対する、単純な否定であるという点だ。今までの自分たちが作ってきたものを否定することで優位な何かに近づこうとする運動は、自我や自分らしさを大切にする姿勢とはまた別の心理、つまり敗戦から連綿と続くコンプレックスであり、ごく日本的な鏡像を否定しながら、アメリカ的なものに憧れ、接近をはかる、図のdの位置にある「X」、もはや鏡像とは呼びにくい意識が、我々の自己認識イメージとして浮かび上がってくる。歪めた鏡をさらに否定するという屈折した形で、歪んだ鏡を守っているのだ。

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