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『聖⭐︎おにいさん』にムハンマドは登場するか

できればフォントを「ラノベポップ」にしてから「聖人の中にムハンマドがいないわけがない」だとか「もしインドネシアのムスリム女学生が『聖⭐︎おにいさん』を読んだら」だとかでタイトルを表示したいが、そこはこの企画のルールに則る。

 

さて、大英博物館のアジア地区の展示コーナーにも設置された、中村光によるギャグ漫画『聖⭐︎おにいさん』だが、日本に数あるサブカルチャーの中でもこの作品が突出しているのは、宗教そのものをネタとして扱っていながらも、宗教的な国際問題に発展させずに大手の出版社からコミックスを発行させていることだ。そして、アニメ映画にも発展し、表現規制に関するあらゆる問題を示唆するものとして最も重要、かつ敏感なものとなった。

2006年から連載が開始された『聖⭐︎おにいさん』は「神の子イエス」と「目覚めた人ブッダ」を主人公としたギャグ漫画で、2011年からはキリスト教国であるフランスをはじめとした諸外国でも翻訳版が発売されている。そうやって大衆に支持されながら、国内では2015年の現在も連載が続いており、世界宗教の始祖と言っておかしくない存在を、愛嬌たっぷりに描写するセンセーショナルな内容だ。主人公以外の登場人物も、イエスの「父さん」(=ヤハウェ)や「母さん」(=聖母マリア)、十一面観音や薬師如来といった、畏れ多くて笑ってはいけない気がする対象が並ぶ。

 

ところが、ストーリー展開に伴って増えるキャラクター達は、キリスト教と仏教に関する存在だけでなく、オリンポスや神道の神々などにも広がるのに、現時点でイスラム教を直接的に表す存在がいない。「宗教ネタ」を基軸とし、単行本11冊以上のボリュームを持ちながら、世界三大宗教の一つが言及すらされていないという状態は、ある意味の標準から考えれば奇妙なことだ。

当然、イスラム教における戒律や偶像崇拝の禁止などから、イスラム教と近い関係を持つ人々への配慮が理由に挙げられるが、イスラムとテロリズムを繋げて連想させる報道が、世間に「イスラム教に関して他の宗教国の人物が触れると危険だ」というイメージを浸透させていることも大きいだろう。仮に、自分と親しい者が、イスラム教の神や預言者に対して不敬かも知れない表現をしようとしていたとする。そんな時、傍にあるメディアから激昂するムスリムの様子が流れたとしたら、我々は日本人殺害予告をする「イスラム国」の事件を思い出さずにいられるだろうか。その人物や、関わりの深い人々の身を案じて、表現を自粛するように言わないままでいられるだろうか。

また、記憶に新しいところでも、『ジョジョの奇妙な冒険』のOVAの中に一瞬、クルアーン(コーラン)だと解釈できる本が映り、悪役が主人公を殺そうとする、ネガティブイメージのあるシーンだったことで、イスラム教の権威から非難のコメントが出されたり、海外ニュースで報じられたり、それらに対して集英社とアニメーション制作会社が謝罪文を出したり、『ジョジョ…』のアニメDVDと原作コミックスの一部が出荷停止されたりといった一悶着があった。類似の例は他にもあるが、アニメ映像の、一時停止やコマ送りをしながら視聴しないと分からない部分のことで前述のような騒動が起きたのだから、現状では、イスラム教に関する表現はほとんどタブーになっていると言える。

 

しかし、サブカルチャーにおけるイスラム教に関する表現の規制も、様々な宗教をモチーフに採用しているのに、徹底してイスラム教を排除している『聖⭐︎おにいさん』を見れば、「言葉狩り」を越えた捻れたものとして浮き彫りになる。なぜなら、この漫画作品はまず、完全なフィクションの上で成り立つことが明らかであるだけでなく、イエスやブッダ達を、みんなに好まれる対象として描く作風を貫いているからだ。決して、宗教に関する入門書といった実践的なものではなく、あくまで「もし有名な“聖人”が、私たちの近所にいたら…?」という想像力を掻き立てるファンタジーなのだ。加えて、この漫画には主人公達に意地悪をする堕天使のルシファーや魔神のマーラなども登場するが、そういった存在にすら「ツンデレ」の性格付けがなされ、好ましい登場人物の一人として描写されている。そして、作中では異なる宗教や信仰から来る神仏が共存する設定で、物語の舞台である日本の「八百万の神々」まで登場する。そういった世界観の中で、ユダヤ教から来る一神教とはいえ、イスラム教を直接的に示す存在ばかりが際立って不在なので、皮肉にも、まるでイエスとブッダ達が、ムハンマドだけを嫌って除け者にしているかのような形になっている。

 

悪魔であると位置付けられている存在でもチャーミングなキャラクターとして確認でき、悪役と呼べるような登場人物はいない物語を透かして見える、描かれていない部分に悪役がいそうな印象は『聖⭐︎おにいさん』に限らない。高橋留美子の作品では美貌の仏僧が悪と戦って活躍するし、GAINAXの作品ではユダヤ教、キリスト教に由来するシンボルが、「クール」なものとして幾つも登場する。漫画やアニメなどが日本のメインカルチャーとして機能している以上、それらを含まずに状況を考えることはできない。そうなると、俗に「人生の教科書」とも呼ばれて愛される漫画などには登場せず、報道で残酷さを強調されるイスラム関連のものたちが悪そうなイメージで浮かび上がる。そして『聖⭐︎おにいさん』は主人公がイエスとブッダなだけに、イスラム教に関する諸々との対比がいっそう際立ち、図らずも、ムハンマドは「イヤな奴そう」という勘ぐりを回避できない。それを言い換えれば、この漫画はクリスマスや花まつりやバレンタインデーや盂蘭盆や初詣はあって、しかしクルバン祭はないといった、一般的な日本人の生活スタイルの縮図にもなっているということだ。結果として、生活の中のイスラムの不在から来る「イスラム教=悪そう」のイメージと、不在だからこそそれが払拭しにくい構造を炙り出す。

 

決して、本稿はイスラムと名のつくものを日本のサブカルチャーの中に登場させようという呼びかけではない。さらに言うと筆者が仏教徒なので、なるべく贔屓を避けるべく「ブッダとイエス」ではなく「イエスとブッダ」という並べ方をしている。それにより、檀家つながりの人々から何か叱られそうな気配を感じている。もしかして葬式では私だけ戒名が安っぽくなるのではないかなぁというような、形容しがたい何かが、一切ないといえば嘘になる。ただ特殊な例として取り上げて発表しただけで、日常生活に密着しながら自分を圧迫してくる題材は『聖⭐︎おにいさん』の他に、そうあるものではない。危うい均衡の中で読み進める『聖⭐︎おにいさん』には、不謹慎かもしれないという要素が付与されるので、ギャグとしての魅力が倍増する。それはかつて『トイレット博士』(1970年〜1977年、とりいかずよしのギャグ漫画)が、身近にあるタブー、排泄物の強調によって当時の人気を得たのと同じ理屈だ。

この漫画作品は、可愛らしいわけがないというイエスやブッダへ対する思い込みを裏切ることで読者の親和的な笑いを誘う仕組みになっている。それにより、信仰にある程度以上の熱心さを持つ者をこそ笑わせやすい部分がある。むしろ作中は、ユダがイエスを裏切る日の様子や、涅槃の際に様々な動物達がブッダのそばに集まってきたエピソードなどを知っていないと通じないユーモアで満たされているので、読者ターゲット層は「どちらかといえば信仰心の篤い者」と言えよう。

ムハンマドの不在によって、結果的に「イスラム教だけ仲が悪そう」な印象を生んではいるが、世界三大宗教の二つを積極的にネタとして消費しながらも、致命的な諍いを起こさないでいられる『聖⭐︎おにいさん』は、どのような表現が誰を怒らせ、喜ばせ、または興味をもたれないのかを示す絶好のサンプルである。

文字数:3235

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