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音に聞く大波のなか音響の格闘技たる戯れを聴く よみ人知らず

文学とスポーツを融合させたジャンルがある。「競技かるた」だ。それをモチーフにした作品の一つが、2011年から放映が開始された『ちはやふる』と『ちはやふる2』だ。

 

「競技かるた」は小倉百人一首を用いたフィジカルスポーツである。文化系の対義語が運動系や体育会系であるように、一般的には相反すると思われる要素を共存させた「競技かるた」を描くことで、『ちはやふる』と『ちはやふる2』は特殊な現象を起こしている。まず原作である漫画作品が、紙面に印刷された意味を伴わない文字と意味を伴う短歌の間を、過剰なまでに何度も往復する体験を読者に与えている。そしてメディアを移してアニメーション作品となった『ちはやふる』と『ちはやふる2』は原作のそれに加えて、意味を伴わない文字や声、意味を伴う文字や声、そしてそれらを絡めるための音響が三つ巴になるという、まるで「音響の格闘技」のような様相を呈しているのだ。

 

その絡み合いは次のように始まる。オープニングシーンで、無限空間の中をひらがなの文字が桜の花びらのように乱れ落ちる映像が「なにわづに さくやこのはな ふゆごもり いまをはるべと さくやこのはな」といった音声と同時に流れる。この時、観客はひらがなの文字を読むことができ、音声を聞き取れるが、それらの内容がはっきりとはわからないので戸惑ってしまう。続いてスタッフロールと対比させながら、全く意味のわからない文字列としてのひらがなの映像が流れてゆく。従って観客は意味がわかる文字列と意味を成さない文字列の差異を確認させられ、改めて文字と意味の関係性を問いかけられる。

だが、最初は戸惑っていた観客もじきに違和感を持たなくなる。それはアップテンポの主題歌が、すぐひらがなに置き換えられる音声を当世風の詩として歌っていることが、聴覚で確認できることが大きい。なにせ「歌」は声による音楽であるし、そもそも意味や内容がよくわからないという前提条件や、それこそが良いという風潮を、J-POPという音響によって観客は受け入れられるのだから。つまり、サビの歌詞に「千早ぶる」を用いた西洋の楽曲によって、短歌から遠ざかった現代人の感覚が繋げられるのである。こういった音響の工夫を繰り返すことでこの作品は、短歌という装置が本来持っている、文字と声と音の関係性の機微を再発見する機能の拡張を試みている。

 

次に、物語の序盤にあたる一作目では、かるたが音と意味の違いを意識せざるを得ないメディアとしてクローズアップされる。例えば、誰もが知る在原業平朝臣が詠んだ歌の「千早ぶる神代もきかず龍田川」の下の句の札は、次のように表記されている。

 

からくれな

ゐにみつく

くるとは

 

取り札にイラストはなく、文字は全てひらがなである上、文脈が掴みにくいレイアウトで読みにくい文字も混ざっている。よって、選手はこの札を文字ではなく絵として捉えていると言って過言ではない。加えてこの札は決まり字という法則が適用されるため、試合の場に於いて選手に必要な音響は、読手の「ちは」の声だけだ。厳密に言えば「Th」音と、次に「iha」を発声する準備のために「Th」音に影響しているごく僅かな呼吸音である。同じ「Th」音でも、「ちは」の「Th」音と、「契りきな」や「契りおきし」の「Th」音は、後に続く音が「iha」なのか、「igi」なのかによって影響しあい、異なる「Th」音になるのだ。要するに「Th」という声と呼吸音だけで獲物を判別する選手は試合中、短歌が含む「音」以外の諸要素を消去し、純粋な「音」と身体の運動能力のみの世界を生きているのである。これが競技かるたを、狩りをする野生の動物のような集中力や瞬発力による格闘技だと言わしめる理由の第一である。そうやって短歌を単純な音に分解する選手の克明な描写が、かるたのスポーツとしての側面を強調する。こうして劇中で、短歌は全体の統一や均衡を失い、不可逆性のかたまりとなる。

 

物語の中盤にあたる二作目からは、かるた選手と同じ試合会場で声を響かせている読手に焦点を当てた描写が隆盛する。選手と違って読手は、言葉を捉えやすい文字組が施され、短歌の作者の名前や職業、姿絵などの情報が印刷されたカードを見ながら歌を詠みあげている。留意すべきは、読手は記された意味や内容を把握しながら声を出すので、文章を「読む」のではなく、歌を「詠む」ということだ。詩歌の吟詠は紛れもなく全身を震わせる歌唱であり、イマジネーションを伴う音楽であり、感情を伴う芸術表現である。そして、上代から続いている宮中の歌会での銀誦に作法があるように、もちろんかるたの読手にも決まりがある。リズムやメロディに関するルールのほか、充分な経験や技術も具体的な数字で求められるといった具合だ。それらの条件を備えていることから、競技かるたの読手に着目した場合の試合会場はまるで、千年の時を超えて人々に愛され続ける短歌を一流の歌手が生演奏する再現芸術の発表会のようになる。それを描こうとした劇中では、選手達の動物的なセンスの描写に加え、複製不可能な読手の歌唱をアニメーションと音響で再現する挑戦が乱れとぶ。この時、短歌の不可逆性が覆され、観客は短歌に意味や感情を取り戻す。

 

『ちはやふる2』の音響は、動物性と芸術性がせめぎ合って戦う格闘技としての側面をさらに更新させる。鍵盤を大きく叩いたかのような音を積極的に取り入れて作られた楽曲が導入されたり、雑音を強調した演出が施されたりすることが、前作より増えた印象を観客は受け取るのだ。作品のタイトルが示唆しているダイナミックなイメージが音響にも反映されることで、枕詞であるがゆえに意味が取りづらい「千早ぶる」という謎めいた古語の核心にもいよいよ迫る。

特筆すべき音響は、選手たちの手が畳を叩くシーンのものだ。競技かるたの実際の試合会場では耳障りなその音を、劇中では何らかの楽器の音色に置き換えるなどして、メロディとも効果音ともつかない音響に変換して多用している。つまり、かるたの読手が声による音響で主旋律を奏で、選手が腕と畳による音響で打楽器奏者のような演奏をするのだ。この時、今から千年以上の昔に短歌を詠んだ人々は知らなかった西洋音楽が明らかに介入している。

今まで、空を切る音を激しく鳴らすといったふうに、小さな音を強調して演奏する試みは、ボクシングやサッカーなど様々なスポーツをモチーフにしたアニメーションの中で行われてきた。しかし、短歌は他ならない和歌という日本の伝統芸能である。よって『ちはやふる2』では雑音の西洋音楽化に加えて、動物性と芸術性が絡まり合うさまを「舞」に擬えている。かるたの試合と日本舞踊を並べてイメージしても遜色ないどころか、短歌に元来備わっている気品がより一層ひき出される効果は流石かるたの為せるわざで、他のスポーツをモチーフとしたアニメーション群とは、幽玄さに於いて一線を画している。

 

さて、絢爛豪華な宮廷絵巻すら霞んで見えるような圧倒的な貫禄や、神代もきかずというスケールの大きさを常に暗示している、この作品のタイトル『ちはやふる』と、その元になっている古語の「千早ぶる」だが、物語の冒頭で、まだ幼い主人公はその意味を知らない。ただ、ある札が「ちは」の二字決まりになっているという法則を知ることから物語はスタートする。従って一作目では、短歌から意味を排除しようという運動と、音で戦う格闘技としてのかるたに没頭する選手の身体性がメインに扱われ、荒ぶった主人公が快進撃するさまが描かれている。

ところが二作目のストーリーでは、どうしてもライバルに勝つことができない主人公の行き詰まりが描写されるようになる。ここで象徴的に、主人公が試合中に負傷するというエピソードが挿入されている。また、二作目になると、この物語の最終目的地が「千早ぶる」という古語の解明だと明かされる。観客がそうわかると作品全体の見え方も変わり、主人公のさまは、諸説あって意味がはっきりしない古語を知りたい意思の体現として映る。

『ちはやふる』シリーズは、本稿が執筆されている2015年の時点で未完であり、三作目以降はまだ発表されていない。一作目では短歌の音響が意味を失うさまが、二作目では短歌の音響に意味を取り戻そうとするさまが描かれていた。そして二作目の中で、乱れた強い勢いを表す「荒振る」と対で考える、調和のとれた強い勢いを表す「千早振る」の解釈が提示されたことから、続編では競技かるたが持つ文学と体育の両極性の調和に、いっそうの重点が置かれると読み取れる。劇中で、かるたの試合と「舞」の類似性が示唆されているように、続編の音響にも舞踏の要素がより強調され、格闘技である競技かるたの表現は舞踏に近づいて行くだろう。スポーツとしてのかるた、伝統のある文学としてのかるたが相乗効果を上げて、舞踏としてのかるたの表現を花開かせることができれば、このシリーズ作品は誇りを持って日本を代表するところまで成長することが可能である。

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