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認知限界を超えた情報の中の人間は幼児のような生きもの

現代の生きものである人間にとって、まちがえるとは情報を省略することです。それと同時に、情報を省略しないでいると人間はまちがえます。このパラドックスを延々と巡る行為が、まちがいを繰り返しながら生きる現代の生きものの姿です。

 

私が幼い時のある日、母に連れられて銀行のロビーに行きました。そこで私は自動ドアの扉という「遊具」を見つけ、それに近づいたり離れたりして遊んでいました。その時の私は自動ドアの扉のことを、自分が近づくと離れて行ってしまうため、決して触れられない相手だと思い込んでいました。そんな自動ドアの扉が、予想に反して自分へ近づいて来て、私はガラスの扉に胴体を挟まれて動けなくなってしまったという体験があります。

事件はそれだけに留まりませんでした。閉まろうとする自動ドアの扉が胴体に食い込んで痛くてたまらず、私は大声をあげて助けを求めましたが、すぐ近くにいる大人達は誰も私の叫び声に注意を向けなかったのです。私が大声で助けを求め続けていたら、一人の女性客が自動ドアの扉と私に近づいてきたので機械のセンサーが働き、私の体を押し潰していた扉が開いて行きました。その隙に私は自動ドアの扉から脱出できたのですが、女性客がとてもゆっくり歩いていたことと、私の横を黙って通りすぎて行ったことが特に印象に残っています。つまり、その女性客すら、至近距離にいる私が大きな恐怖を感じて助けを求めていたとは気がついていない様子だったことです。

以上の、すぐ近くに大声をあげて助けを求める幼児がいても周りの大人はそうと気がつかないという出来事から、幼い私は、人間の能力は大惨事に繋がる場面に遭遇してもあまり気付くことができない程度だと知ったのです。それは幼児の私にとっては世界が終わるような大きな危険でもありました。

 

この失敗談は、まず人間の認知限界を示しています。電動などの機械によって大事故が起きた例は世界中に沢山ありますが、現代人の周りには電動などの機械が多すぎるため、その全てに注意を払うことは不可能なのです。言い替えれば、すぐそばに大きな危険があっても、情報量が多すぎて人間が把握できる限界を超えていた場合は危機管理が不可能になってしまうという、世界の終わりにも繋がるシンプルな法則のことです。次に、ごく些細な出来事と世界が終わるような大きな危険を直結して想起する世界観を示しています。それは「セカイ系」に通じています。「セカイ系」とは、1995年に放映が始まったアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』以降に顕著になったもので、個人のごく私的な情報と世界の終わりという大きな危険を直結させた物語の総称です。ごく私的な出来事と世界の終わりの中間にある情報を一気に省略するこの手法は、まだ小さな世界しか知らず、スケールの小さな危険と世界が終わるような大きな危険を直結しやすい幼児の感覚と酷似しています。

「セカイ系」が発生した理由は、現代人が認知限界を越える量の情報に囲まれていることです。我々は多すぎる量の情報の全てを認識できなかったり、認識しようと情報を鮮明にすると却って理解できなくなったりします。そこで「セカイ系」は、情報を大きく省略することでしか描けなくなった、世界が終わるような大きな危険の表現を可能にしているのです。

現代人は都市の中で、何らかの危険を伝える表示に遭遇する度に、なぜ危険なのか理由が分からなくても表示の指示に従わなくてはなりません。例えば我々は火気厳禁の表示が視認できる時、その向こうにあるものが何なのか分からなくても、喫煙をしたいという私的な気分と街のガス爆発のような大きな危険を直結してイメージするように訓練されています。つまり都市に溢れているアイコンに遭遇する度に敢えて思考停止して、小さな情報と大きな危険を直結させねばならない現代人の精神構造は、ごく私的な出来事が世界の終わりに直結する「セカイ系」の構造と合致し、その出現を予告していたのです。

 

一方、1955年に公開された黒澤明による映画『生きものの記録』では、日常と世界の終わりの中間にある情報を省略せずに捉える、喜一という老人が主人公として描かれています。喜一は不安定な世界情勢や、各国が原水爆といった兵器を今にも使いそうだという恐ろしい情報を認識しています。そして世界の終わりを警戒し、自分の財産を投げ打って、まだ幼くて危険が迫っているとは理解できない子孫と、自分が経営する工場に頼って生活している部下達の南半球への移住を試みるのです。子孫や部下達の命を守るべきだという自分の責任を重視し、資産や労力を惜しみなく提供する喜一の姿勢は、責任放棄して都合の良いヒロインに危険との直面を任せる「セカイ系」の主人公とは対照的です。

ところが喜一の周囲の人物は、原水爆といった大きな危険について考えたらあまりに恐ろしくておかしくなるので敢えて考えないのだと発言した後に、喜一を「狂人」として扱いはじめます。映画のラストで喜一は障がい者として精神病院に収容されますが、喜一の主治医は、喜一を見ていると狂っているのは自分ではないかと考えてしまうと言って困惑するのです。

原水爆のような人間の身体感覚を超える大きな危険について考えるのは、とても億劫なことです。自分の住んでいる国で大規模な原発事故が起きた後、どうにかそれを忘れようとしている今の日本全体の姿勢がそれを裏付けています。また、日本国内に55基もの原発が作られた理由の一つに、地震国と原発の組み合わせがもたらす大きな危険について考えるのは億劫だから、敢えて思考停止していたという部分も否めません。さらに、幸か不幸か現代社会は情報過多ですから、核や原発とはあまり関係のない情報に注目すれば、そちらの情報だけで認知限界に近いところまで自分の世界を埋め尽くすことができます。だから我々は核や原発に関してほとんど何も知らないまま生活することが容易です。喜一を「狂人」として扱った周囲の人々は、そうやってフィルタリングした、大きな危険とは無関係な安心できる情報の中に埋没することで思考停止していました。大多数がそうやって生きていたら、社会は311の原発事故というしくじりを起こしました。

 

現代人は、火気厳禁の表示があればそれに従うというふうに、情報を省略して思考停止しないと大きな危険を回避できずにしくじるという現状と、喜一を「狂人」とする人々のように、思考停止していると却って大きな危険を招いて311のようにまちがえるという現状の間に、大きなジレンマを感じています。そして、責任放棄して問題との直面は都合の良い誰かに任せたいという願望や、安心できる情報に埋没して思考停止しようとする我々の姿と、世界の終わりのような大きな危険を特殊な手法で同時に描写している「セカイ系」は、このジレンマそのものの表現でもあります。つまり「セカイ系」とは、現代人の能力の低さや幼さを肯定した上で、敢えて思考停止してでも大きな危険を回避しようという考え方の、サブカルチャーの分野での表出でもあるのです。加えて『生きものの記録』が示すように、世界の終わりのような大きな危険があっても、フィルタリングされた安心できる情報に埋没して思考停止しないと社会にうまく適合できないことを我々は知っています。それと同時に、社会に適合するために思考停止をする現代社会のあり方は幼稚だと自覚しているのです。その幼稚さへの自問をするこの映画が公開された56年後に311の原発事故が起きたことから、我々はこのジレンマに注目しても核の問題とうまく対峙できないことが分かります。言い替えれば、我々の幼稚さを自己批判すれば大きな危険を回避できるという予想はしくじったのです。だからこそ、自己批判で我々の幼稚さを戒めるのではなく、幼稚さを肯定しながら大きな危険を回避しようとする「セカイ系」のようなデザインを社会に待望しているのがテン年代です。

 

イデオロギーや宗教が消え、世界の姿が多様化した現代は情報で溢れ返っています。これほどに情報過多な時代がやって来たのは歴史上で初めてです。なので、震災以降の我々に必要なのは、まず多すぎる情報を処理できない我々の能力の低さをよく見て、それを承認することです。次に、何かが決定的にできないという前提を持ちながら人間の尊厳を持って生きることができている障がい者のようなモデルを作ることが有効です。なぜなら、核融合ができなければならないのに不可能なままでいる現代社会は、何らかの不可能と共存しながら生活しているという点に於いて、障がい者のライフスタイルに近いからです。加えて、障がい者やそれに近い人々は制度の外の存在とされがちだったため、焦点を当てようとする試みが今まであまり行われてきませんでした。それは従来の社会があまりよく見てこなかった要素が我々の身近に多く存在し、その中に問題を解決したり社会を前進させたりする方法やそのヒントが見つかりうるということでもあります。

『生きものの記録』の中で、喜一は障がい者とされてコミュニティから排斥されましたが、これは社会が幼稚であることを肯定できなかったために起きた喜一への否定でもありました。しかし近年の我々は「セカイ系」の流行から読み取れるように、社会全体の幼稚さを捉え直して承認しながら大きな危険と対峙しようという考え方にシフトしています。社会がこの方向に進めば、喜一のような可能性を肯定できるのです。

人間の認知限界を超えた量の情報の中にいる現代人は幼児のような生きものだと理解した先に、喜一のような決して触れられない相手だと思い込んでいたものとの共存や、今まで以上に生きやすい社会があるとすれば、考え方の変化によって突破口が発生し、未知の扉が自動的に開かれます。

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