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バケモノの子のラピュタのとなりのバルス

『天空の城ラピュタ』は歴史に残る最高にサスペンスフルな映像作品である。

『ラピュタ』がサスペンス映画であることは、まず冒頭の飛行船での逃走劇が示している。ヒロインのシータが逃げ、悪役のムスカが追う。留意するべきは、この時点で既に、登場人物が上空を漂う飛行船という場所に宙吊りにされていることだ。つまり、大地から身を引き剥がされ、不安定な状態を余儀なくされる人間のイメージが映画の開始直後から表現されている。さらにシータは飛行船の外壁にしがみついてまで逃亡を企てる。シータも観客も落下しそうな恐怖を味わう。それに留まらず、その気丈な表情や態度を裏切る形で、彼女は空中に投げ出されてしまうのだ。

ところが物語はシータと観客を一思いに落下させてはくれず、もっと不安定な宙吊り状態にしてしまう。理解の範疇を超えたバケモノ、飛行石によって、無防備な身体だけでの宙吊りにさせられてしまうのだ。シータと同じく観客の身体も空間的座標を失い、落下の恐怖だけでなく「理由が分からない」という宙吊りの恐怖にも晒される。この時、シータはあまりの恐怖に意識を失っているが、観客もシータと一緒に気絶できたらどんなに楽だろう。

 

タイトルロールが表示されるよりも前の以上のシーンからこの映画は、シータと観客を、逃げ切らなければ殺されるかもしれないというサスペンスに加え、正体の分からない飛行石というバケモノに翻弄されるホラーで満たしている。そしてここに予告されるような落下しそうで落下しない宙吊りの恐怖を、この映画はラストシーンまで持続することとなる。言い替えれば、全てのサスペンスは「追う者」と「追われる者」の隔たりがゼロになる時に初めて、登場人物と観客は不安や恐怖から解放されるのだが、この映画は徹頭徹尾、その隔たりが、ゼロになる寸前でそれを回避してしまうのだ。

その宙吊りは以下のように推移する。一命をとりとめたシータを地上で第一に発見した少年パズーは、落下物を「天使」と呼び、人間ではないバケモノの一種だと認識する。それゆえに、初めはおっかなびっくりシータに接していたパズーだが、どうやらバケモノは飛行石のペンダントの方であるようなので、すぐに意気投合に成功する。

しかし実はこの時、既にパズーは「追う者」である。なぜなら、ラピュタの存在を主張して嘘つき呼ばわりされたまま亡くなった父の記憶に縛られ、パズーはラピュタを追っているからである。よって、パズーもまた、ラピュタ王国の子孫、シータを「追う者」の一人なのだ。

ところが、運良くシータを入手したことでパズーは、彼女を狙う別の「追う者」である軍隊や海賊によって「追われる者」へと逆転する。そして、「追われるもの」になったパズーはシータをムスカによって奪われ、海賊と共犯関係を結び再び「追う者」へと戻る。逆にシータを入手したムスカは「追われる者」へと立場を変え、「追う者」である海賊とパズーによって奇襲攻撃を受ける。そうかと思えば、物語の終盤、冒頭から「追われる者」であり続けたシータすら、飛行石を奪ったムスカやラピュタを「追う者」へと変貌してしまう。つまり、登場人物が地上にいる間は、物理的な宙吊りに代わって、「追う者」と「追われる者」が頻繁に錯綜して入れ替わり、誰もが追われる恐怖に晒されうるという心理的な宙吊りが描かれている。

 

そして物語の最終盤、舞台が再び上空の飛行船やラピュタ城内へと移動すると、今度は全ての登場人物がラピュタを「追う者」となり、繰り返し描写される落下の恐怖と共に、また宙吊りになる。ここで注目すべきは、ラピュタ城内に入ると、圧倒的な科学力を持っていたラピュタ王国がなぜ滅んだのか分からないという「見えないバケモノ」が新たに出現することだ。「肝心なものが見えない」という要素が増えたことで、この映画のサスペンスはますます高まる。

この「見えないバケモノ」の正体を明かすのは、インドの古典『ラーマーヤナ』で土から産まれた姫と同じ名前を持ち、土の象徴でもあるこの映画のヒロイン、シータだ。彼女の有名な台詞を、この映画から引用しよう。

 

「どんなに恐ろしい武器を持っても、沢山のかわいそうなロボットを操っても、土から離れては生きていけないのよ!」

 

この引用から明らかなとおり、「見えないバケモノ」の正体は武器やロボット、すなわち「テクノロジー」だ。そんなバケモノが産み出した国であるラピュタが生きていけなかった理由も解明されている。

一方、シータと徹底的に対立し、バケモノの子であるラピュタの武器を起動させたムスカはこう言っている。

 

「見せてあげよう、ラピュタの雷を。旧約聖書にあるソドムとゴモラを滅ぼした天の火だよ、ラーマーヤナではインドラの火とも伝えているがね」

 

「インドラ」は雷を操る天空の神だ。土の中から産まれ、自ら祈って大地の中へ戻って行くシータ姫とは文字通り天と地の違いがある。引用した台詞から、「地」に属するシータは土から離れては生きていけないと悟っているが、「天」に属するムスカは天空の英知による支配を望むという構図が明確に浮き彫りになる。これにより観客は、地上の人間の身体感覚を超えた=人智を超えた、大地から浮遊する城のようなテクノロジーを積極的に利用することと、分相応に地上にあるものだけで生きていくことのどちらが正しいのかという、とんでもない難題を受け取らされてしまう。

さらに言えば、土を選んだシータは無事に生還するが、人智を超えたテクノロジーを選んだムスカは視力を失って消えてしまうという結末から、この映画全体が発するメッセージも知る事が出来る。まだコントロールしきれないテクノロジーを安直に使おうとすると、かえって盲目になって自滅すると警鐘を鳴らしているのだ。

 

原爆、水爆、放射能…まだ人類が支配しきれない、そしていつ人類を滅ぼしてしまうか知れないバケモノを描いた作品群に、チェルノブイリ原子力発電所事故と同じ年に公開された『ラピュタ』も位置づけられる。したがって、フィクション内での宙吊りは、観客にとって現実のテクノロジーを巡る問題の宙吊り=未解決へと姿を変えることとなる。そして観客は、現実にあるバケモノを退治する方法を求めて、この映画を注視せずにはいられなくなる。その欲求は、全国のTwitterユーザーが『ラピュタ』が地上波で放映される度に、タイムラインに一斉に「バルス」と投稿する異常な現象を引き起こし、Twitterのサーバーをダウンさせるほどの威力だ。

物語の中では、手に余るテクノロジーの象徴であるラピュタを滅ぼすための呪文「バルス」を、土の象徴であるシータが、普通の人間であるパズーの協力によって唱えることに成功し、ラピュタ城は崩れて落下してゆく。自然と人間が協調してラピュタというバケモノの子を土に還らせる展開は、現実におけるテクノロジーの破棄を意味するとひとまず解釈できるだろう。

ところが、ここでどうしようもなく不可解な出来事が起こる。ラピュタの城の部分は落下したのに、むき出しになったラピュタの母体の部分は、落下しそうで落下しない宙吊りのまま留まるのだ。もし、この映画が凡庸なサスペンスであれば、全ての登場人物がラピュタを「追う者」となり、ラピュタの中の「見えないバケモノ」の正体をも突き止めたことから、滅ぼして土に還すという形でラピュタに追いつく結末が用意されているはずである。それなのにまだラピュタの母体は大地に落下してはくれないのだ。しかも、その理由もまた宙吊りのままで、見るものは今まで以上の恐怖を感じてしまう。以下のラストシーンの台詞は、ラピュタに追いつくことの不可能性を示している。

 

「木だ!あの木がみんなもってっちまう!追うんだ!」

「おもい!みんなおりな!」

「そんな無茶な!」

 

この映画のラストシーンでも、「追う者」は、あと一歩のところでラピュタの母体に追いつけない。「追われる者」であるラピュタの母体は上昇していき、人類が手を出せない空間である宇宙へと逃げ切ってしまう。この場面で重要なのは、それを目撃した登場人物が、「木が持っていってしまう」というふうに「木」を主体化していることだ。要するにここで「木」という新たな登場人物が発見され、今までの登場人物は、今度はその木を「追う者」となり、木が「追われる者」となるのである。

さて、シータ、ラピュタ、ムスカなどが何の象徴であったかは本論の中で明らかにしてきた。そして「バルス」の呪文を唱えた後になって初めて発見された木という登場人物が象徴しているものは、過剰に続く宙吊り状態が恐怖より上位の感情、畏怖を呼び出しているため、畏れ多くて解答できないという究極の宙吊りになっている。特にフクシマの大事故を経験した後の日本人は、この映画が公開された直後よりもっと大きくなった畏怖というバケモノにより、映画の観賞中、すぐ隣にある端末から、一斉にタイムラインに「バルス」と投稿させられている。

以上が、『天空の城ラピュタ』が歴史に残る最高にサスペンスフルな映像作品であると言える理由だ。

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