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ぼくたちは天才じゃない

第0章

 

東浩紀はこのように書いた。

 

昭和90年代、というのが今年度の批評再生塾全体を貫くテーマである。なぜ昭和で数えるかといえば、元号こそ平成に変わって27年というものの、ぼくたちはまだ昭和の引力の中で生きているように思われるからだ。戦後70年のいま、戦後レジームの克服がいまだ政策課題になり続けていることが、いかにぼくたちが深く昭和に囚われ続けているかを証明している。

 

射程を日本近代美術に絞り、上記の提言を次のように反転させてみたい。

 

明治150年代、というのが本稿の全体を貫くテーマである。なぜ明治で数えるかといえば、元号こそ平成に変わって28年というものの、ぼくたちはまだ明治の引力の中で生きているように思われるからだ。開国から160年のいま、作家の資金繰りの克服がいまだに死活問題になり続けていることが、いかにぼくたちが深く明治に囚われたままであるかを証明している。

 

昭和90年代という以前に、美術界は、いまだに明治レジームの中から1歩も抜け出せていないのではないか、というのが、我々の共有すべき認識である。本稿は4章構成から成っており、1章ではまず昭和の虚構性を暴き、次に2章で問題の連続性を論じる。そして3章では近現代日本美術の内実を、美術業界の内部に身を置く筆者が自らの体験も交えつつ批判し、4章では「天才」という観点からこれからの美術のあるべき姿を検討する。相互に緩やかなつながりを持つこれら4つの章には、日本近代美術が挑戦して失敗した「日本画」という試みを、批評によって再起動させたいという願いが込められている。

 

 

第1章: ニセモノの昭和

 

昭和がちょうど終わる1988年(=昭和63年)に公開された『となりのトトロ』には、ニセモノの昭和がリアルに刻みつけられていた。どういうことだろうか。まず「リアルに」という点から説明しよう。この作品が従来のアニメーション作品と一線を画していたのは、商業アニメーション史上で初めて、草木の一本一本、道端の雑草までを、実在する植物の写実的な描写で表現しきるという挑戦に成功したことだ。『トトロ』の画面の中で観客が目にしたのは、それまでのアニメーション作品では体感したことのない草木のリアリティーであった。従来の商業アニメーションでは、草木の描写は記号的に、登場人物の動作にも効果線の書き足しで描写するスタイルが多く見られた。それらの表現は、無難さを求めて既成の技術をコピーし続けてきた結果でもあり、観客に「あれは草木だ」と納得させることはできても、映画館を出た後の観客が見る道端の草木の見え方を変えは、決してしないだろう。

しかし、『トトロ』の徹底した写実描写の卓越性は、観客の中にあった草木の価値観そのものを揺るがす点にこそある。『トトロ』によって我々は、草木がどういう力を持って伸び生えているのか、ということを教えられるのだ。この両者の違いは技術的問題には回収することはできない、作家の持つ決定的な精神の違いだと言えよう。だが最も着目すべきは、『トトロ』はリアルな描写によって、観客に映画の内容を「これが昭和の理想の風景だ」と言わしめた点である。『トトロ』ブームは、古き良き昭和に帰りたがる時代の空気とも相まって、多くの人々の中に眠るノスタルジーを呼び覚ました。これこそが、われわれが忘れつつあった昭和だ、そうだ、これが昭和だ、と……。

それが、ありもしないニセモノの昭和にもかかわらず。

 

『トトロ』が作品の中で描いた植生群は徹底して、実在するものばかりで埋め尽くされていたが、映画の全体に流れる昭和的な雰囲気や風景は、本当に存在したものたちではないという点が、非常に重要だ。本人もそう語っているが、監督の宮崎駿はあまり農村が好きではなかったらしい。このアニメは決して、宮崎氏が好きだった実在の故郷や昭和の思い出を再現したものではなく、昭和30年代前半と60年代という2つの異なるイメージを分解して再構成した、ありもしない光景の集合体である。それなのに『トトロ』は観客に、捏造された映像を、まるで実在した光景、風景であるかのように、日本の原風景だ、いつか見た懐かしい風景だと、今日まで言わせ続けている。そこにある虚構を「ジブリ的錯覚」と名付けてもいいだろう。「道端の雑草まで克明に写実描写する」という高水準の技術によってジブリ的錯覚を産み出した『トトロ』はこうして、架空であると同時に理想の昭和像を描くこととなり、古き良き昭和のイメージの大部分はここに凝縮された。

 

ジブリの母体になったのは有名な『風の谷のナウシカ』(1984年=昭和59年)だが、こちらは打って変わって、荒廃した終末世界を描いたSF映画である。だがこの『ナウシカ』も『トトロ』と同じく、フロンティア精神に満ちた挑戦的な作品であり、人々の心に強烈に焼きついて忘れられない印象を残す。

この映画が製作された時期はバブルの気配の漂い始めで、日本人の生活はどんどん未来的に更新されていく最中であった。次々にやってくるテクノロジーを歓迎する高度経済成長の只中にあって、だが同時に存在していた、テクノロジーに依拠しすぎた生活への不安を敏感に読み取って反映させた、核戦争の後の悲惨な世界を描く一大スペクタクルである。誰もが見て見ぬフリをしている原水爆など核の恐怖との対面を促すという、時代に対するアンチテーゼで大衆に切り込む姿勢を持った『ナウシカ』は、公開から32年経った今も人々の想像力を掻き立て続け、観客の意識を現実世界の問題へと接続させ続けている。高度経済成長の成功により、ひとまず直視しなくても良くなったテクノロジーの問題を『ナウシカ』が再び宙吊りにして、観客を不安にさせることにこの映画の醍醐味があるのだ。皮肉にも日本が“フクシマ”を体験してしまったことで、ジブリの出世作『ナウシカ』に再び注目が集まったが、政治的なメッセージをも含めて発信するジブリの姿勢は『風立ちぬ』(2013年公開)になっても変わらない。

国民的な人気を有するジブリは、世間的には現代日本が得意ジャンルとするマンガなどのサブカルチャーの一種、つまりハイカルチャーには劣るコンテンツとされている。しかし前述のように、ジブリ作品はハイカルチャーに満たないどころか、時代の先端に切り込む前衛表現芸術なのである。だがやはり、強調すべきはその前衛性も含めて、美術の正統の範疇に含まれるとは見做されていないという点だ。大衆から支持されているものとハイカルチャーが一致しているのが最も幸福な社会だろうと筆者は夢想する。ところが後述の「日展的」な正統の美術の範疇にある近現代美術は大衆からつまらないと言われてしまっているのだ。筆者はここを憂慮している。大人数で寄り合って作品を制作するスタイルは美術の理想の姿ではないという幻想さえ無ければ、ジブリはハイカルチャーの条件をほとんど満たしているのに。もったいない。

 

 

第2章:更新される神話

 

ところで、アニメーションといったサブカルチャーのコンテンツは日本のメインカルチャーとなって久しい。それとは裏腹に、4章で再びその名を挙げる岡倉天心といった「天才」たちが作り上げ、近代日本に誕生したはずの日本のハイカルチャーはすっかり廃れてしまったとされるのが昨今の日本の現状で、こと絵画においては、「日本画の消滅」とさえ言われるほどだ。絵画というメディア自体が既に役割を終えているとされることもあり、今、世界に発信できる新しい絵画作品が、国内に充分あると言えるかどうか、はなはだ疑問である。

 

しかしそんな中、すでに過去のコンテンツと言われる絵画作品であると同時に「イマ」への問題提起を多分に含んだ、身近な大傑作がある。それが岡本太郎の『明日の神話』(1969年)だ。都心の渋谷駅の連絡通路に設置された横30メートルの巨大な壁画は、一見すると鮮やかな色彩とたくましい線描がポップな印象を与える。大量生産された安価な既製品に包まれて暮らす現代人にとっては、この巨大壁画もまた、まるで生活の中で見慣れたキッチュな何かの仲間のようでもあり、そういった無難な表現にとどまったゆるいパブリックアートのようにも感じられる。

ところがこれは、水爆実験によって発生したいわゆる“死の灰”を浴びながら、そうとは分からずにマグロ漁に勤しむ第五福竜丸とその船員たちの事件(1954年=昭和29年)を含めて描かれたものだ。この作品が孕むストーリーは、無難でゆるいどころか、原水爆や核の脅威、それらがもたらす混乱を描いたというものであり、ジブリ作品のいくつかと同じく、人間の生命を応援しながらも、テクノロジーの問題を宙吊りにして観客を不安にさせる効果を持っている。おそらく、せわしない駅の連絡通路では、大多数がそうとは分からずにその場を通り過ぎているのだろうが。

 

また『明日の神話』は、2011年の東日本大震災の折にも、我々に重要なメッセージを伝えた。震災から間もない2011年5月、TBSから「岡本太郎さんの壁画に悪質ないたずら」という報道が流されたのだ。『明日の神話』に、メルトダウンした福島第一原発を想起させる絵のパネルが貼り付けられたという内容だった。追加されたパネルには、岡本太郎の絵に似せたタッチで四つの建築物が並んで描かれていた。そのうちの二つは外壁と上部が崩壊して骨組みだけになっており、しかもそこからは、死を思わせる不吉な黒煙までおどろおどろしく立ち上がっている。

同年の3月に起きた震災で、並んでいた4つの原発が被害を受けたことや、そのうちの2つが大きく損傷し、「フクイチ」はメルトダウンにまで達してしまったこと、未曾有の大災害で甚大な被害が出てしまい、大勢の人々が亡くなったことなどは、この時期には世界中で報道されていて、その話題で持ちきりだった。そんな最中にTBSから流された「悪質ないたずら」のニュースと、巨大壁画に追加されたパネルの画像を見て、311の原発事故を連想しないでいられる者など、いたとしたら赤子くらいであったろう。この件に関するTBSの報道にはまるで、人類の財産でもある岡本太郎氏の傑作が理不尽に破壊されたかのような、芸術作品への冒涜と取られてしかるべき印象があった。

だがしかし、よくよく見ると事態はまるで異なっていた。確かに追加されたそれは、福島第一原発のメルトダウンをドクロのような黒煙で表した「不謹慎」かもしれない絵ではあるが、事実としてパネルは巨大壁画の端の、もともと空白であった部分に並べて添えるように設置されていたにすぎず、岡本太郎氏の巨大壁画には傷一つ付けられていなかった。加えて、パネルの絵が持っていたメッセージは、巨大壁画が人々に訴えようとしていたこと、すなわち『明日の神話』の意味が問われるのはまさに「イマ」なのだ!というメッセージとも符合しており、どうにも、無学な野蛮人による暴行とは考え難い。

同じ出来事を扱った朝日新聞の記事では、京都市立芸術大学の建畠哲(あきら)学長による「ユーモラスな挑発行為」「これくらいは許容される世の中のほうがいい」とのコメント、明治学院大学の山下裕司教授の「芸術作品として成立している。岡本太郎が生きていたら面白がるだろう」とのコメントが併せて掲載、紹介された。多くの美術関係者たちは好意的に受け止めているという締めくくりで、TBSの報道とは異なる仕方でこれを報じている。

 

ニュースになったこの出来事が、決して、岡本太郎氏やその作品へのリスペクトを欠いた愉快犯の破壊行為というわけではないことは、ほどなくして判明した。やはり、巨大壁画の内容への理解や造詣も深い者が、為すべくして為した行為だったのだ。アーティスト集団「Chim↑Pom(チンポム)」が、「岡本太郎氏をとても尊敬している」ことと、「原発事故によって被曝のクロニクル(年代記)が更新されたために、芸術家がやらなければいけないと思った」ことから、巨大壁画に風刺画を添えるというデモンストレーション、あるいはパフォーマンスを実行したのだという。彼らの行為は、我々の最大の関心事であるに違いない「イマ」を切り取ってみせたその瞬発力によって、まさしく最大のパフォーマンスと呼ばれるに相応しいものだっただろう。それは時代に切り込みながら、センセーショナルな表現を最適のタイミングで世界に見せたという、道徳的な規範からはズレてしまっているものの、評価せざるをえないものである。同時にこれは、明治の開国から始まる日本近現代美術の、すっかり廃れたと言われてしまっている日本のハイカルチャーの中で、新たな問いかけを創造しようという試みが、密かに、だがしかし力強い脈動を感じさせるだけの強度を持って存在していることを示す、最も顕著な例だろう。

こうして『明日の神話』は再び脚光を浴び、震災以降も日本人と核や被曝の関係への問いかけを創造し続けている。岡本太郎の絵は、今でも前衛であり続けているのだ。

 

 

第3章:大衆から見えるアート

 

原爆を落とされ、原発で儲ける。サブカルチャーがメインカルチャーとなっている。そんな日本ならば、美少女フィギュアで核の脅威を表現するような作品こそが、大手アート公募展に並んでいそうなものだが、例えば「日展」こと日本美術展覧会の会場を見回しても、どういうわけか、そう言った作品はどこにも見当たらない。

 

かつてポスターや展覧会を観て「こういうのにはなりたくない」と思っていたのが「日展」の洋画部門だ。今でこそ簡単に告白できるが、学生時代の私にとってそれは口に出せない秘密であった。なぜなら私の指導教官が、私に言わせれば「日展的」な、旧態依然とした作風でおなじみの人物だったからである。例えば、私が作った/作りたい作品が、日展的なものとは趣やコンセプトなどが異なっていた場合、指導教官たちからさり気なく、もしくは強気に、否定の態度や言葉を投げかけられた。同時にもっと「日展的」な作品を作る方がいい/作りなさい、というメッセージが、明に暗に発された。場合によっては、そうでなければ認めない、単位や資格を与えないという、ハランスメントまがいの手段にもうったえられた。世間では美大、芸大に対して、自由なイメージが持たれていたり、多様性を認めるべき場所とされていたりするらしいが、実際に内部に入ってみたところ、排他的すぎるというほどではないものの、日展的な同調圧力が確かにあった。その程度なら私は断言できる。

別段、私の出身校である多摩美術大学の教授が日展の審査員だったわけではないが、岡倉天心の時代からタイムトリップしてきたような彼らの作品群は、当時の私に言わせれば、日展とほぼ同じようなものである。どういうわけだか近代までしか参照せず、何が何でも現代のアヴァンギャルドさを反映しない絵画作品の群れは、アクチュアルな問いかけの創造を志す者にとって「足を引っ張ってくる古い何か」という印象しか与えない。「もう明治でも昭和でもないのだし、こんなもの、なくなればいいのに」。私はそんな生意気なことを思っていた。

 

そもそも日展とはどこから来たか。少し迂回しよう。芸術の都パリでは国家の芸術政策のもと、17世紀から絵画など諸芸術ジャンルのアカデミーが設立され、公式の如何を問わない自由なコンクールが勃興していた。それが後に「官展」として整理された公募展に変化した。これを一般にサロンと呼ぶ。それから1855年、第一回パリ万国博覧会の頃になると、サロン=官展は万博の一環となったり、そこで選ばれた作品を万博に出展する仕組みになったりしていった。同時に、サロンはアカデミックかつ保守的になって行き、芸術分野の新しい挑戦である印象派などを受け入れようとはしなかった。のち、当時の前衛表現芸術を志す者たちはサロンと袂を分かち、保守的なものと対立する形で展覧会を繰り広げるようになる。こういった経緯で、サロンに出展を拒否された前衛的な作品の展覧会「落選展」が開催されたのが1863年5月17日。アヴァンギャルド(前衛)誕生の日だ。

つまり、アカデミックかつ保守的とされる公募団体がサロン=官展であり、もとより最先端の動向を受け入れたがらない場所なのである。そして明治維新を経た日本は、諸外国に追いつけ追い越せと様々なシステムを急速に輸入し、1873年のウィーンでの開催から、明治政府として正式に万博に参加するようになった。そうやってサロン=官展は、前衛的でないアカデミックな作品を扱う日本画壇の「大本山」として、2016年の今も存続している。時代を経るにつれて運営団体や名称が変わって、官展の系譜は「日展」へとつながったのだ。

以上のように「日展」は、もとは万博の支度のためのコンクールであるので、今では役割を終えている。その意味で「不要」なものであるから当然、もう国の運営ではない。それならば廃れてなくなるかと思いきや、保守的なサロンの有り様と、日本国内の芸術/美術大学界隈での内輪嗜好の相性が良かったようで、多少の悶着はありつつも、会員を増やしながら仲良くやっている。具体的には、A美大の出身者は A公募展になら入選可能、B芸大の出身者はB公募展になら入選可能、という「出世ルート」が支度されているといった按配だ。念のために補足するが、官展から始まる大手公募展の入選、入賞作品郡が、決してクオリティが低いわけではない。もしかしたら腐敗した部分もあるのかもしれないが、展覧会場に足を運べば、どの作品も一定以上のレベルに達した、恥ずことないものばかりである。A美大の出身者なら誰でもA公募展に入選、入賞するというわけでは決してない。その中でも特に技術面が優れている、上位の者や作品でなければ選ばれることはないのだ。なので、前衛的なものは落選/却下されるが、その条件をかわすことが苦痛でない者にとっては、このコンクールにさほど問題はないのである。とはいえ、近代までの名作をある種の手本にしながら、すでに過去に完成されているモノを再生産しようとする営みは、過去の巨匠という正解にどれだけ近づけるかを競うようなものであり、いわば「答えあわせ」的な様相を呈している。そうである以上、そこから新たな問題提起は出てこないのではないか。

「日展」に代表される元・官展の功罪について、大まかにおわかりいただけただろう。つまり日展的な作品、言い換えるならば「美術」という制度の規範に則った作品に「イマ」や「世界」を映し出す力はもうないのだ。しかしいわゆる大衆から美術業界全体を見れば、日展的なものの特殊性がどうこうといった部分は知る由もなく「大々的に開催されているから、きっと日展的なものを観に行けば面白いアートに触れられるのだろう」という風に思われる。ところが、そうやって会場に足を運ぶと、上手ではあるが、「イマ」の時代や政治に問いかける刺激的なメッセージは皆無の作品しか並んでいないので、肩透かし、期待はずれだと言われてしまう。こうしてアートには、保守的で難解でつまらないという烙印が押される。本当はそんなことはないのに。

 

では、パリの「落選展」から始まったアクチュアルな作品たち、今の時代に即したアートに触れたいと思った場合、一般の人々はどこに観に行けばいいのだろうか。必ずではないが、アヴァンギャルドな作品を制作、展開する者達は草の根のように散らばっており、官展のように組織立った力を持っていないので、大きな会場を確保できないまま、ほとんどゲリラのように小規模な展覧会やイベントを開催するばかりだ。例えば先に挙げた「Chim↑Pom」も同様で、拠点となる施設を持っている強力団体ではなく、あくまでも有志が肩を寄せ合いながら、細々と活動しているグループである。「Chim↑Pom」のメンバーの出自が美大ではないことから、閉塞した美術界に新風を吹き込んでくれる可能性を感じさせはするが、やはり大衆的な知名度の獲得にまでは至ることができていない。一般大衆がアクセスしたいと思っても、たまたま短期間に、小さな会場で開催される展示に運よく遭遇できない限り、叶わないのが現状だ。これほどの実力のあるアーティストでも、国内では草の根と同じ状況下にあるというのは、普通に考えれば日本の文化的危機であり、憂慮すべき事態である。そういった具合に、最先端を走る刺激的なアート作品が生まれても、あまり大衆には知られることがない残念な傾向のまま、アート業界は現在に至っている。

対照的な2つの勢力のパワーバランスの偏りから、大衆が有名な方の展覧会を観に行って、保守的すぎると落胆する。それによって益々、芸術分野への予算が減る。今の時代に即した新しい表現を志す者はより一層、金銭的にも厳しく、社会的にもリスペクトを欠くようになるという状況が日本国内で繰り返され、悪循環のスパイラルに嵌り込んでいるのが昨今の日本の美術業界だ。

「世界」の動向に即した最先端のアートシーン、それはもちろん前衛的でアヴァンギャルドなだけでもないが、そちらへ日本が切り込もうとしても、基礎体力が足りず追いつけない。世界のアートシーンに於いて、日本が蚊帳の外に置かれている理由の一つはこれだ。世界に通用するアートを志す者は、ここに危機感を持ち、打開策を講じなければならないのも明白だが、残念ながら、なかなかそこまで行き届かないで手をこまねいているのも実情である。他方、力をしっかり蓄えている日展的なものたちは、その内部でだけ盛り上がっているために、外部である「世界」では通用しない。それでは、こうした状況を一気に打開する「天才」の出現を、我々は指をくわえて待っていればいいのだろうか? いや、そもそもその「天才」という考え方に、何か誤ったものが潜んでいるのではないか? 章を改める。

 

 

第4章:ぼくたちは天才じゃない

 

学校の美術の授業を思い出そう。そこで我々は、一人で黙々と作品を仕上げていたことだろう。あたかも、そうやって他人の力を借りずに何かを作り上げることが、尊いことでもあるかのように。しかし、実はそうした発想こそが、美術史の伝統からすれば異端的なものなのだ。ここには、近代以降の付け焼き刃的な美術教育が産み落とした「天才」という病が隠されている。

 

そもそも、たいていの美術作品の制作は、膨大な量の時間や手間がかかるもので、個人やごく少人数では一人当たりにかかる負荷が大きすぎて採算がとれない。確かに、昔と違って現在は、作家たち自身が顔料の塊を砕いたり練ったりして絵の具を生産する手間が、チューブ入り絵の具の発明、大量生産によって省かれており、ここから、我々が絵画史のスターとして真っ先に思い浮かべそうなフィンセント・ファン・ゴッホなどの制作スタイルも生まれた。つまり、一人で持ち運べる量のイーゼルやキャンバス、手軽なチューブ入り絵の具などを屋外に持ち出し、一人で写生に勤しむといった具合に。しかし、美術作品の制作スタイルについての歴史を長いスパンで考えた場合、それはたかだか印象派以降の発明に過ぎない。むしろより正統的なあり方は、ゴッホのような個人制作ではなく、大勢の弟子に頼りながら作品制作する工房制作の方なのである。

工房制作とは、ヨーロッパのルネサンス期の時代にはすでに確立していたもので、作家が一人で作品制作のほぼ全てを手がけるのではなく、制作者名は一人の作家でも大人数で分担しながら作品を量産するスタイルのことだ。スタジオジブリで大勢のスタッフたちが集結して制作をしている姿をイメージしてもらえればつかみやすいだろう。美術史に名を馳せ、盛期ルネサンスの三大巨匠の一人として知られる、ラファエロ・サンティだって、若者時代から工房の弟子として、自分の名前は冠されない絵画作品の制作に携わっていた。絵画作品の作者名を自分の名前にできるまで大成した後も、50名に及ぶ弟子や助手を抱える大規模な自分の工房を持ちながら、絵画作品制作の注文を多くこなして効率よくお金を稼いでいたのだ。

振り返ってみれば、先に述べた日展的なものと「Chim↑Pom」的な小規模の前衛アーティストたちも、一見するとまるで異なる存在のようだが、こう言った工房制作システムの不在という観点から見てみれば、意外なところで共通するのである。

この時、美術史上には、ほとんど他人の手を借りずに制作の道を突き進んだ文字通りの大天才もいるではないか、という声が聞こえてきそうだ。ラファエロと並んで盛期ルネサンスの三大巨匠の一人として知られ、ほとんど個人の趣味で『モナ・リザ』のような傑作を制作したレオナルド・ダ・ヴィンチがそうだろう。実際、彼は突出した天才であり、何らかの精神疾患を持っていたという説さえあるのだが、果たして彼のような存在は、目指すべくしてなれるものなのだろうか? 現在までつながる日本近代美術教育の過ちは、偶発的にしか出現しない彼のような天才をモデルとして、そのほとんどが凡才である我々を教育しようとしたことだ。ぼくたちは天才じゃない。このことを改めて強く意識せよ。

 

個人の意識が存在しないとまで言われるムラ社会型であった日本に、個人主義が最も素晴らしいという価値観が急速に流れ込んできたのは明治時代からだ。日本人の意識は明治維新や文明開化で、乱暴なほど急激に、良くも悪くも更新された。そんな明治とほぼ同時期に産まれ、明治を生きた美術分野の天才が岡倉天心である。彼には、例えば自身の耳を切り落としたゴッホのような、天才に特有の異常性が目立つエピソードは見当たらない。それでも激動の時代に超人的な大活躍をやってのけ、日本近代美術史に名前を刻んだ彼を、人々は口を揃えて天才と呼ぶ。集団より個人プレーの方が能力を発揮しやすい性質である岡倉天心のような天才は、廃仏毀釈という混乱があったほど価値観が急転換した明治の日本人にとって、個人主義を称賛したがる時代に都合の良いモデルとなったのだ。こうして、近現代日本美術には、個人で生き残れるスター、天才という病が隠されることになったのである。

岡倉天心の弟子にして明治元年生まれである横山大観らを、全員が目指す鑑、広く皆に当てはめる基準としたのは、廃仏毀釈と同じくらいの、明治維新以降に犯した近代日本美術の致命的な過ちだ。明治から、日本は怒涛のように大量のヨーロッパ的思想を輸入した。その際に個人主義も歪曲して解釈、導入され、こと美術においては、何事も個人や少人数で成し遂げることを理想とする空気もあって、油彩画の技法を高い技術でコピーすることには成功したが、美術作品の制作における工房制度の方はコピーし損ねた。日本美術史を足利時代まで遡れば、琳派といった非常に優秀な美術工房システムがあったにもかかわらず、東京美術学校(現在の東京藝術大学)は設立されても、東京美術工房は設立されていない。ここからも、未だに日本は天才という病に罹患したままであると分かる。採算の取れる集団制作で効率良くお金儲けをしなければ、天才ではない大多数の人間は生き延びていけないのに、近現代美術に隠された天才という病はそれを阻害する。

 

前章では日展的なものを批判したが、日展的なものたちが、人的資源の確保と資金繰りに成功しているという点は、かなり評価に値することは明記しておきたい。まず美大/芸大の内部で、嫌われるやり方かもしれないが、日展への入選、入賞の候補者を量産させることに成功している。「慣習」の次元にまで及んでいる公然の秘密については、実体験を含めてすでに述べた通りだ。

また、毎年、1万人以上の応募者があるという大手公募団体、日展の2015年の日本画の募集要項によれば、一人一点、7000円の出品手数料を支払う必要がある。作品を運ぶ運送会社などへ支払う代金も別途必要なので、画学生が捻出できる限界の金額だ。画壇の末席に加わりたいものは、日展的なものへの応募や入選、入賞を繰り返す必要がある。それには他にも、作品の制作費や活動の維持費、それら以外にも色々あまり詳細には書けないが資金が必要で、必要経費を合計するとかなりの金額になる。つまり日展的なものの内部には、ある程度以上の経済的ゆとりがなければ居られないのだ。そして、お金を払うことと引き換えに作品制作をさせてもらっていると揶揄されてしまうように、日展的なものは様々な手段で資金を調達できており(別に後ろ暗い手段だとは言っていない)、日本の画壇を頑強なものへ育て上げてみせた。留意すべきは、日展の不正審査に注目して騒ぎ立てるだけでは、弱体化した日本美術の復興は望めないという点だ。ある意味では役割を終えている日展的なものは、軍隊の前衛で戦う戦士のような存在ではないからこそ、内部に入ることに成功さえすれば、平和で安定した陽だまりのように心地よい場所でもある。

ここに反旗を翻しながら、ただの権威叩きで済ますことなくその先に進んでみせた者がいる。自身で工房制度の復活を試みて成功した村上隆だ。彼はカイカイキキ社の代表取締役という、近現代の美術作家としては珍しい肩書も作り上げながら現代日本を表現した作品群を量産し続け、日本画のあり方を更新し、世界中からの賞賛を勝ち取った。彼は顔立ちこそ岡倉天心と似ているが、工房制度に重きを置いたというところが、岡倉天心と対照的であろう。不動の地位を築き上げた彼や彼の作品だが、同時に国内では「金の盲者」「どうせ弟子が描いたのだろう」といったバッシングが、今でも尽きることはない。彼へのバッシングの背景にある価値観こそ、我々が本稿を通して批判してきたものだ。改めて、冒頭の提言に戻ろう。

 

明治150年代、というのが本稿の全体を貫くテーマである。なぜ明治で数えるかといえば、元号こそ平成に変わって28年というものの、ぼくたちの日本美術はまだ明治の引力の中で生きているように思われるからだ。開国から160年のいま、作家の資金繰りの克服がいまだに死活問題になり続けていることが、いかにぼくたちが深く明治に囚われたままであるかを証明している。

 

昭和90年代という以前に、美術界は、いまだに明治レジームの中から1歩も抜け出せていない。 本稿に込められた願いは、いつまでも天才の出現を待つよりも、凡才、秀才が生き延びられ、かつ、日展的な陽だまりではない前衛で居られるシステムを考える方向に、美術業界をシフトさせたいという祈りでもあるのだ。個人や少人数での作品制作で成功している会田誠が「天才でごめんなさい展」を開催したのだから、人類史=芸術史の真実の正統スタイル、集団による工房制作による作品だけを集めた「天才はもう無理なんだ展」を開催すれば宜しかろう。ぼくたちは天才じゃない。でも、天才じゃなくて何が悪いのだ。ぼくたちにもできることはある。すべての凡才、EN AVANT DADA!(前進せよ ダダ!)

文字数:12568

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