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現代の「公共」と「批評」の居場所

報告者:私たちは今から、共同討議「昭和批評の諸問題1975-1989」(東浩紀編『ゲンロン1』)について「共同討議」を行うわけですが、その前に二点、確認しておきたいことがあります。まず、「昭和批評の諸問題」の目的。言うまでもなく、批評というのは「~について」の言説であり、本性的にメタ言説なわけです。そのメタ言説が「批評」という言葉によって領土化されることにより、ベタな対象として語りうるものになる。すると、「批評」という対象を語るために――あるいは領土を確定/拡張させるために?――さらなるメタ言説がうまれるようになる。大澤聡によれば、戦前の「論壇時評」がまさにメタ言説のさらなるメタ言説として、「論壇」なるものの領域を確定させていたそうです。すると、「昭和批評の諸問題」にも同様の役割が期待されてしかるべきなのでしょうが、問題はその共同討議が「現代日本の批評」という特集の一環として行われていることです。「批評」という言葉が指す領域を確定/拡張させるとともに、1975-1989年における批評の問題を「現代日本」の問題として読み込む。他方私たちが行おうとしているのは、メタ言説のさらなるメタ言説のメタ言説という、無限後退すれすれのプロジェクトです。無論この共同討議もさらなるメタ言説の対象になりうるものですが、ひとまず無限後退の仮の終点となるために、私たちは先ずこの共同討議の目的そのものを定めておく必要があります。それが二点目です。

 

引用者:「昭和批評の諸問題」において三度、注目すべき自己言及が行われています。

 

東浩紀:(…)よかれあしかれハチャメチャなエネルギーを持っていた八〇年代までの多様さが切り捨てられ、批評と思想のかたちが貧しく歪められてしまった印象は拭えない。『ゲンロン』ではそこらへんをもどしていきたいのですが。

 

東浩紀:(…)山崎正和の議論そのものは、むしろ高度消費社会の個人主義を考えるという意味で浅田彰と共振している。『批評空間』が切り捨てた連携の可能性を、ぼくたちは再発見しなけれなばらない。

 

大澤聡:越境性の復権を目論むぼくたちの共同討議の出発点をここ(1975年)に設定して正解でしたね。

 

提起者:以上の引用からわかるとおり、「昭和批評の諸問題」の主な焦点は二つ。一つ目は『批評空間』や「近代日本の批評」によって切り捨てられてしまった批評家や事象の再評価に、もう一つは現代日本の批評のアップデート、つまり多様さの確保に在ります。すると、私たちが議題に挙げるべきなのは二点目の「多様さの確保」になるでしょう。再評価はいくらやってもやりすぎるということはありませんから、メタ言説の格好の対象になってしまいますしね。

 

反対者:安易に「多様さの確保」とかいってまとめちゃってるけど(笑)ぼくはもっと捩じれた欲望があると思うなぁ。だって批評の対象が多様であればいいだけだったら、単にプレーヤーを増やせば自然にそうなっていくわけで。もちろん、『早稲田文学』の「十時間連続シンポジウム」で中森明夫に、宇野常寛と東浩紀がぶつからないで徒党を組んでいるのは、まさに「棲み分ける批評」なんじゃないかと突っ込まれたとき、当の東は「ぶつかるためには人数いなきゃいけない」と応えてたわけだけどさ。

 

反駁者:うーん、それは「批評」を実体化させすぎだと思うな。批評の多様さっていうのは、雑多な知見でもって雑多な対象について語っていくってことだと思うんだけど。所謂「アカデミズム」みたいな、専門性とは違った、いかがわしい知の在り方みたいなのが大事っていうかさ、単にいろんな人が居て、いろんな対象についての言説があふれているのが批評の多様さなんじゃなくて、個人のフレーミングと扱う対象の問題というか…結局、批評は固有名を持った個人によって担われるものかもしれない。

 

反対者:いやいや、さんざん言われていることだけど、「越境性」とか多様さが何で必要になるかっていうと、言説が「公」と「私」に二分されてしまっていて、「公共」という中間地点を担う言説がないからじゃない?「ジャーナリズム」と「アカデミズム」と言い換えてもいいわけだけど、「批評」っていうのはまさに「単に売れる文章」と「専門的な文章」の中間地点に位置していて、だからこそ雑多な対象に雑多なアプローチをかけられたわけ。で、要は、批評家が「公共」を担えなくなってしまったうえに、「公共」そのものが求められなくなっている、つまり「タコ壺化」していることが問題なわけよ。そこで東浩紀は公共性を「郵便空間」や「一般意志2.0」に求めたわけじゃない?つまりはっきりとした意志にならない、なんとなくの「ムード」の集積が「公共」だって言ったわけよ。そうすると、もはや人間よりもテクノロジーとか「集合知」の方がずっと批評的になりうるわけで。

 

補足者:福嶋亮大の『神話が考える』はまさに、テクノロジーが捕捉できる範囲を縮減してしまう人間の認識のフレーム(神話)を、いかに拡張したり安定させたりしていくかって話ですよね。いずれにせよ、人間の身体性は問題になっているし、「集合知」的なものを取捨選択する個人がむしろ重要になっている。

 

提起者:それは読んでないからわかんないけど(笑)問題は、批評の居場所は「公共」の位置にもうないんじゃないかってことよ。今「ムード」を可視化しているのはニコ生のコメントよりもTwittertとかFacebookとかのSNSなわけで、今最も影響力があるのはここなわけよ。民主化運動の発端にもなるし、ヘイトスピーチやデモの火付け役にもなる。「昭和批評の諸問題」でもネトウヨが話題になっていたけどさ、あいつら結構フォロワーが多いんだよ。なんでかっていうと、ネトウヨ同士で皆相互フォローしあってて、一種のコミュニティになってんの。そこでエコーチャンバー現象が起きて、陰謀論が彼らにとってのリアルになって、デモとか実際の行動にも結び付くし、SNS内にも嫌韓・嫌中の「ムード」が広がっていくわけ。現に『はすみとしこの世界』にしても嫌中・嫌韓本にしても、Amazonでめちゃくちゃ売れてるわけじゃない。「公共」っていうのは本当は批評が担ってるんじゃなくて、ネトウヨ的な感性が担ってるんじゃないの?

 

反対者:ネトウヨ的な感性がマジョリティであったとしても、それは「公共」とは違うでしょう。ある「立場」への拘泥ではなく、二項対立に置かれた立場を引き裂くのが批評の役割であって、だから東は山崎正和を軽視した浅田を批判している。「公共」というのも、立場への拘泥をこえた、異なる立場にたった人間との「郵便」によってうまれるものでしょう。

 

反駁者:ならアイドルでいいわけじゃん。オレ、ももクロつながりのネトウヨの友人いっぱいいるぜ。

 

反対者:ファン心理によるつながりは、ファンでない人間を排除することが前提にありますし、端的に言ってファシズムですよね。

 

反駁者:なら批評だって変わらないよ。世の中、「批評とか頭いいこと言いやがって、調子のんな!」みたいな人、結構いるぜ?東だってネトウヨを「江藤淳の私生児」て言ってるじゃん。要は教養主義とか学歴社会からはじかれたせいで、知性的なものを過度に権威化し、その権威をトンデモ理論で「論破」することで、自分を権威を超えた存在として承認するってのは、よくあることなんだよ。オレも哲学とが初めて学んだ時そんな感じだったし(笑)

 

報告者:『ゲンロン』という雑誌そのものが、硬直的な二項対立を引き裂くことを目的としていながら、一方で「わからない人にはわからない」という形で、読者の選別を行っている。ただしその姿勢そのものは戦略的なもので、それこそファシズムでもしかないかぎり、「全て」の人のために「全て」を書ききることは出来ないわけです。原理的にありとあらゆる言説は対象読者を選別してしまう。すると、「批評」的な知の在り方も、わかる人に伝わればよいことになる。だからこそ、マテリアルな媒体を使って「批評」を残すわけです。ここで問題となっているのは、批評の役割を「公共」に限る必要はないんじゃないか、ってことですよね。

 

賛同者:そんな感じだろうな。疑問なのは、確かに批評は「外から目線」なのかもしれないけど、さっきから「フレーミング」とか「知のあり方」っていう限りさ、やっぱ批評っぽい語り口とか論の立て方とかものの見方とかあるわけで、それはそれで硬直してるって言えるんじゃないの?批評家同士では通じても、多くの人々には通じない理路とかタームとか、いっぱいあるでしょ。ならいくら二項対立引き裂いたって、「公共」にはなれないんじゃない?

 

反対者:それはそうでしょう。だからこそ、自らの方法論を常に点検していくことが必要ですし、批評史を総括することによって、自らのものの見方が誰かの反復になっていないかをチェックするわけです。

 

反駁者:その理路も「批評」っぽいよ。例えばバフチンなんか、「公共」を広場に見出すわけだけど、実際問題「広場」にあふれていたのは卑俗な語や猥褻な語ばかりで、多分ヘイトスピーチなんかも垂れ流しだったんじゃないかな。民衆ってのは元来下品で保守的なもんじゃない。

 

反対者:それも、民衆と自らを区別する典型的なエリート主義の語法ですけどね。

 

反駁者:それはそれでいいけどさ。問題は、共同討議全体ににおう左翼くささというか一周まわったエリート主義というか、『批評空間』的なものの問題を洗い出して、それをアップデートすることによって、「立場」をこえた「公共」をつくりだそうとしてるんじゃないかってことよ。

 

反対者:何が「公共」を担えるかまだわからないのだし、『批評空間』的なものの可能性をアップデートすることは悪くないと思うのだけど。

 

反駁者:「『公共』制作部隊、『批評空間』支部」ってこと?

 

反対者:いずれにせよ、何に可能性を感じて、何を受け継いでいくかは好き好きでいいわけで、個人企業ならばなおさらそう。

 

反駁者:雑誌の乱立が広いオピニオンをつくりだすって話なら、文芸復興と変わらないぜ。

 

反対者:いずれにせよ、形に残さなくては後の世代に何かを引き継ぐことは出来ない。

 

強制終了者:何が「公共」を担いうるか、批評の居場所はどこにあるのか、興味深い論点が出てきたことと思います。本日はみなさん、ありがとうございました。

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