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無意識なき主体は哄笑する――ミハイル・バフチンと物体のユートピア

どのような思考も、言語という物質的基盤なしには存在しえないというバフチン=スターリンのイデーは、エトキントによれば、「完全に全体主義的なもの」である。というのも、思考がすべて言語であるということは、「人間のなかには読むことのできないものは何ひとつない」ということを意味するが、「読むことのできるもの」つまり物質化されたものは、コントロールすることができるからだ。(貝澤哉「引き裂かれた祝祭」)

 「ポリフォニー」や「カーニヴァル」といった概念に隠れているが、ミハイル・バフチン(1895-1975)の創出したテーゼのうちもっとも衝撃的なものは、「無意識は存在しない」というテーゼであろう。バフチンは、友人であるヴォロシノフ(1895-1936)の名義で上梓した著作『フロイト主義』(1927)において、フロイトの無意識が実際の発話の中に、言い間違えや多義語といった「言葉」としてのみ表れている点に着目し、(無意識のように構造化されているとはいえ)言語とは違った秩序にあるとされる無意識の概念を、「公式的意識」に反する「第二の声」としての「非公式的意識」を捉え違えただけのものである批判した。つまり、バフチンは主体の中で複数の意識(声)がせめぎあうという状況を「内なる他者」と主体との争いだと捉え、フロイトが「無意識」と呼んだものは「内なる他者」の声(「非公式的意識」)に過ぎない、と断じたのだ。
 先に引用した、エトキントを援用した貝澤による批判は、主体の中に非―言語的な領域(無意識)がないと断ずるバフチンの思想がそっくりそのままスターリンの言語論と重なっており、そのためにバフチンの想定する人間像が、言語によってすべてを明かしうるがために、どのようにでもコントロールされうる存在となってしまっている点を突いたものである。貝澤(エトキント)は先の引用部に続けて、バフチンの著作を「まったく真剣な、善意から出た全体主義的ユートピアの原理」を含むものだと批判している。この批判は、まったくもって正しい。そう、まったくもって正しいのだ。むしろ間違っているのは、バフチンをアンチ・スターリニズムやメシアニズムの系譜に連なるものとして読んできた従来のバフチン理解のほうである。
 では、「バフチン」とは何者か。無論、バフチンの博識はシュピッツァーやクルティウス、アウエルバッハにも比せられる程のものであり、その膨大な知識量から繰り出される論旨は様々な分野を越境してしまっているため、「これがバフチンだ」といいうるような統一的視座を提出することは難しい。たとえ彼の引用する文献のほとんどがドイツ語文献からの孫引きであり、かつ彼の代表的な著作である『フランソワ・ラブレーの作品と中世ルネッサンスの民衆文化』の一部がエルンスト・カッシーラー(1874~1945)の著作を剽窃したものである、という事実が判明しようと、彼のテクストのもつ越境性は変わらないだろう。とはいえ、彼のほぼすべての著作には「カーニヴァル」や「ポリフォニー」といった概念に隠れて(あるいは関連して)「物象化」や「肉体」、「具体性」といった、「物体」にかかわる語彙が頻出しているのも事実であるため、本稿においてはまず「物体」にかかわる語彙をガイドとして、「バフチン」なるものをスケッチしよう。

了解じたいもなんらかの記号的物質(たとえば内言)のなかにおいてのみおこなわれるということが、観念論だけでなく心理主義によっても見逃されている。記号に対置しているのは記号であり、そもそも意識は記号として具体化されてはじめて実現され現実のものとなりうることが見落とされている。(ミハイル・バフチン『マルクス主義と言語哲学』)

 V・V・イワーノフが「文化の記号論とバフチン」で指摘する通り、バフチンにとって言葉とは「記号」であり、文字をモデルとした物体的なものである。さらにバフチンは、「意識」をマテリアルな「言葉」による「具体化」なしには実現しないものとしてとらえる。つまり、精神的な領域や「観念」・「思考」、さらには記号の実現する「意味」までもが、すべてマテリアルなものに支えられていると考える。さらに「言葉」は、世界を造形するための原理でもある。バフチンにとって世界とは流動的であり、「物自体」といいうるような確固としたものではなく、言葉を用いて造形する必要のあるものなのだ。さらに、人間(意識)は誰しも言葉によって自分なりに世界を価値評価(造形)し、そのことによって人は皆それぞれ自分にとっての世界を生きていて、そのような別々の世界認識が融合することのないまま関わり続けている、という状態が「ポリフォニー」である。
 また、彼のラブレー論は「意味」が「言葉」のみならず「肉体」というマテリアルなものと不可分である、という認識に下支えされている。どういうことか。ラブレーの小説世界においては、「あらゆる価値あるもの・あらゆる質的に肯定的なものは、その質的な優越性を、時空間上の優越性により実現するはずであり、できうるかぎり広くひろがり、できるだけ長く存続しなければならない」という。なぜなら、「実際に質的に優れているものはすべて必ず空間的・時間的にも広がりうる力を与えられている」からだ(『小説における時間と空間の諸形式』〈1937~38〉)。ここで注意しなければならないのは、「時空間」という用語である。『教養小説とそのリアリズム史上の意義』(1936~38)によれば、「時空間」という言葉には二つの意味がある。一つは「歴史的時間の眼に見える運動」、つまり時間の空間化である。我々はあくまで現在をのみ生きており、過去という離れた時間を感じるのは、「過去の本質的にして生きた痕跡」(例えば朽ち果てた遺跡)という空間内の具体的な「物体」によってである、というロジックだ。もう一つは空間の時間化であり、例えばとある男女が旅をしたとき、一度交わるごとに一里塚を置いたという伝承のような、空間の距離がそのまま時間や頻度を表してしまう事態を指す。つまりラブレーの世界においては、時間すら空間における「物体」に変わってしまい、さらに「善・悪」のような質的なものまで、時空間によって測られ「物体」化されてしまうのだ。
 ラブレーの世界では「質」の良いものは必ず時間的にも空間的にも広がっていくのだが、「封建的・教会的な世界観」という権力がしばしばその法則を乱し、「質」の悪いもののほうを時間的・空間的に広めてしまう。すると、ラブレーの作品とは法則を乱す権力との闘争とも記述しうるのだが、闘争の射程は「各所に配されている彼岸的な世界観の諸契機」、つまり「物体」の様態が質とつりあっていないか、そもそも「物体」の下支えをなくしてしまっている「言葉」の「浄化」にまで及ぶ。「浄化」は、「事物と観念のあらゆる慣習的なつながり、ふつうの隣接結合をこわし、重いもがけない隣接結合・思いもがけないつながりを創出」することによって行われる(『小説における時間と時空間の諸形式』)。つまり、ラブレーの世界においては物体の様態と、物体に結び付けられた観念や質がつりあっていなけらばならないが、伝統や権力はある物体にふさわしくない観念を結びつけてしまう。そのために、物体と観念を結びつけるための言葉まで伝統や権力による虚偽に侵されてしまう。「浄化」とは、虚偽に侵された言葉を、肉体にかかわる言葉の系列に放り込むことによって、再びその言葉と意味に「現実性と物質性」を取り戻す試みである。
 いささか抽象度の高い論であるが、「浄化」の先にあるラブレー(とバフチン)の目的は鮮明である。すなわち、「肉体的な人間の周りに、いわば人体と物理的に接触する圏内に(この圏は、ラブレーによれば、無限に広い)、世界像の全体を構築」すること、つまり「大宇宙=世界の構成要素が小宇宙=人体の構成要素から発生するという〈小宇宙モチーフ〉」(北岡誠司「バフチンのカッシーラー『剽窃』問題を超えて」)の構築である。1920~1924年に書かれた著作『美的活動における作者と主人公』において、人間は自らを見ることができず、ただ他者の反応や他者からの規定をもとに自らの想像的な自画像を作り上げるしかない、という問題を扱っていたバフチンがラブレーを読むことによってたどり着いたのは、「世界」と「人体」の構成を一致させることにより、見えるはずのないものや読めるはずのないものまで見えるように(読めるように)してしまう、という境地であったのだ(無論、バフチンのこの論旨はカッシーラーの『シンボル形式の哲学』からの剽窃によって作り上げられている)。
 しばしばバフチンを語るうえで引き合いに出される「民衆的で卑俗な語」、つまり権力によって禁止された「非公式な語」は、まさに「人間は、その生活現象のすべてにおいて、外在化され、余すところなく言葉によって照射されるようになる」(『小説における時間と時空間の形式』)というバフチンの理想に奉仕しうる、「現実性と物質性」を持った言葉として評価されている。権力や伝統から言葉の純粋性を、カーニヴァルや民衆的な言葉によって取り戻し、そのようにして「浄化」された言葉によって、肉体の延長実体としての、すべてを読みうるような世界を作り上げる。バフチンの描くこのようなユートピアは、すべてが「物体」によって成り立つ、「物体」のユートピアといいうるものであろう。

そもそもバフチンがフロイトを非難したのは、個々の具体的発話の対話的事実を超えたところに「無意識」を実体化しようとしたからだが、「カーニヴァル的対話性」のようなものを民衆的祝祭の潜在的原理として実体化することは、それ自体、現実の個々の発話としての対話を超越した潜在的な何かを、措定し実体化することにほかならない(「引き裂かれた祝祭」)

 ここまでバフチンの理論を「物体」という一貫したパースペクティブによって読み解いてきた我々は、貝澤による上記の批判を読み替えることができる。詳しく見ていこう。バフチンによるフロイト批判には、「無意識」が言葉によって読みうるという指摘とともに、「対話」が「一回的」で「具体的」なものを超えることはない、という指摘がある。「実際に発せられた(あるいは意味を持って書かれた)あらゆる言葉は、話し手(作者)、聞き手(読者)、話題の対象(主人公)という三者の社会的相互作用の表現であり所産なのである」(「生活のなかの言葉と詩のなかの言葉」)と語るバフチンにとって、「対話」で発せられる具体的な言葉の内容は「無意識」によって決定されるのではなく、話し手と聞き手の関係性や社会状況・対話が行われた具体的なシチュエーション・話題の対象について過去にかたられてきた言説、などによって決定される。すると、バフチンにとって分析家と分析主体の語らいは、二人+話題の対象という三者関係によって決定されるものであり、分析主体の「無意識」によって決定されるものではない。あくまで問題となるのは、具体的で、「物体」(話し手と聞き手、話題の対象など)にかかわる諸観念のみである。貝澤は、「カーニヴァル的な対話性」が「無意識」と同じく、「具体的」な「対話」を超えたものであると指摘しているのだ。それは、次のようなバフチンの理路によって証明されるという。

神の名を罵ることや呪いは、もともとは笑いと結びついていなかったのだが、それらは公式的な言葉の領域の規範を破壊するものとして、そうした領域から追い出され、、そのため、無遠慮な広場の言葉の自由な領域に移ってきた。このカーニヴァル的雰囲気のなかで、それらは笑いの原理に浸透され、両義性を獲得した。
 ほかの言葉の現象、たとえばさまざまな種類の無作法な言葉の運命も、似たようなものだった。無遠慮な広場の言葉は、公式的な言葉の交流から禁止、排除された様々な言葉の現象が貯められる貯水槽のようなものとなった。(フランソワ・ラブレーの作品と中世ルネッサンスの民衆文化)

バフチンにとって非公式的な言葉とは、公的な空間で禁止され、発せられずに終わった言葉を指す。そのような言葉が「貯まる」ことによって生まれる「広場の言葉」は貝澤が指摘する通り、たしかに無意識の代理物のように見える。だが「物体」というパースペクティブを得た我々は、「広場」と「無意識」に「物体/非物体」の対立を読み込むことができる。つまり、「広場の言葉」は無意識と違い、「広場の人間」という具体的で「物体」的な場を持っているのだ。するとバフチン的主体とは、フロイトのいう無意識の代わりに、もっと具体的で「物体」的な、言説がアーカイブされる場を持った主体として定義できる。さらに比較すれば、フロイトにとって伝統とは無意識における「父の名」であるが、バフチンにとって伝統とは「言葉」や「事物」にアーカイブされた、過去の言説や記憶、時間の痕跡を指す。そして、内部ではなく外部の「物体」に言説をアーカイブすることで、無意識がなくとも「うまくやっていける」バフチン的主体は、国際ラカン協会(ALI)のジャン=ピエール・ルブランが提唱した「ふつうの倒錯」に陥った主体にとって、一つのロールモデルになるのではないだろうか。

抑圧された欲望の果てしない「迂回」のプロセスとしてフロイトが描き出した私たちの心のメカニズム(そのモデルは神経症である)は(中略)「新たな心的経済」へ、すなわち、際限のない享楽の追及と、その露出(見せびらかし)、および他者と「平等」に享楽する権利の要求によって特徴づけられる心的経済へと、移行しつつある。この新型の心的経済は、特定の回路を通じて確保される享楽への恒常的な依存を示す点で、古典的な臨床構造のなかでは「倒錯」に最も近い。(立木康介『露出せよ、と現代文明は言う』)

 立木は現代の所謂「若者」を、規範である「神経症」型の存在構造ではなく、「倒錯」型の存在構造に属するものとして分析する。倒錯型の主体は、スマホ依存などが顕著なように、いつでもどこでも自らの欲望を満たすことのできるテクノロジー(享楽の回路)に恒常的に依存する。そのような主体は無論、「すべて」が操作しうるものであることを望むし、逆にテクノロジーによってどうにでもコントロールされうる存在でもある。また、「抑圧」が機能しないために「無意識」が存在せず、twitterやFacebookという具体的な場に卑俗な語を垂れ流し続ける。さらに無意識が存在しないために「身体のエロース化」(身体の意味付け)がうまくいかず、「生物学的な身体」、つまりブツとしての身体が優位になる。このような特徴は、いうまでもなくバフチン的主体と共通するものである。
 バフチン的主体と倒錯型の主体の最大の違いは、新しい意味を生み出せるか生み出せないか、である。倒錯型の主体は、神経症型の正常な主体と違って新しい「意味」を生み出せないため、簡単に言ってしまえば自らの思考様式を作り上げることができず、その場にある流行りの思考様式に固着する。かつ「無意識」も「父の名」もないため、「伝統」を受け継ぐことができず、既存の思考様式の中からどの思考様式を選ぶのか、という選択の自由もほとんどない。それに対してバフチン的主体は、凝り固まった既存の思考様式や意味を、民衆的な言葉によって、つまり「ユーモア」によって解きほぐす。すでにみたように、(精神分析的には)意味づけられていない「生物学的身体」を用いて、むしろ意味の固着を解除し、新しい意味を産出するのがバフチンのプログラムなのだ。精神分析から見た時、バフチン的主体の意味産出のロジックのアクロバティック性はより際立つだろう。
 バフチンが全体主義者であることを認め、かつ「物体」というパースペクティブをもって彼の理論を読解してきた我々は、ついにバフチン的主体のもっともアクチュアルな部分にたどり着いた。彼の思想はつまり、人間はどのようにでも操られうるし、ちゃんと「抑圧」をすることができないどころか、卑俗な言葉をマテリアルな場にアーカイブしてしまうような存在であるし、世界は全体主義的であるという認識から出発し、いかにしてそのような主体が操られることなく、自由に生きていくことができるのかを探究したものだったのだ。彼の理路においては、「無意識」がなくとも、身体をエロース化できずとも、人はうまく生きていくことができる。そう、「ユーモア」によって。バフチンの理路の背後には、無意識なき主体の哄笑が鳴り響いているのだ。

 

・引用文献一覧
貝澤哉『引き裂かれた祝祭 バフチン・ナボコフ・ロシア文化』論創社、2008年
ミハイル・バフチン『マルクス主義と言語哲学』未來社、1989年、桑野隆訳
『ミハイル・バフチン全著作 第五巻』水声社、2001年、伊東一郎・北岡誠司・佐々木寛・杉里直人・塚本善也訳
『思想』2002年8月号、岩波書店
『バフチン言語論入門』せりか書房、2002年、桑野隆・小林潔編訳
ミハイル・バフチン『フランソワ・ラブレーの作品と中世ルネッサンスの民衆文化』せりか書房、1995年、川端香男里訳
立木康介『露出せよ、と現代文明は言う』河出書房新社、2015年

文字数:7042

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