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“Repeat after me”で共に吃る~Schatman John ”Scatman (ski-ba-bop-ba-dop-bop)”

そうした事態は、吃りが既存の語に関係しているのではなくなり、吃りそのものの作用によって新たに語が導入されてくるときに起こる。語はもはや吃りから独立に存在するのではなく、吃りによって選別され、吃りを介して他の語と結びつくのである。(ジル・ドゥルーズ「…と彼は吃った」)

「言語を吃らせること」が一つのテーマとなっている『批評と臨床』において、ジル・ドゥルーズ(1925~1995)はロマン・ヤコブソン(1896~1982)の『一般言語学』を想起させる「選別」・「結合」というタームを用いつつ、「吃り」に「他の語と結びつく」可能性=「言語に固有の突然変異や転調の力を遺憾なく発揮する詩的な言葉」(同前)としての可能性を認めている。それにしても、このような論旨には、どこか中途半端さのようなものが見え隠れしていないだろうか?

ヤコブソンは「言語学と詩学」において、言語行動に用いられる配列様式を「選択〔selection〕」と「結合〔combination〕」の二つに分け、「もし、『child〔小児〕』がメッセージの話題だとすると、話し手は、現存する多かれ少なかれ類似したchild,kid,youngster,totのような、ある点でたがいに等価な名詞の中から、ひとつを選択し、そのあと、この話題について何かを述べるために、話し手は意味の面で同種の動詞――sleeps,dozes,nods,naps――から一つを選択する可能性がある。選択された双方の語は結合されて発話連鎖〔speech chain〕となる」(強調は引用者による)と述べている。ごく単純に言ってしまえば、「子供が寝ている」という文章を作る際、まず子供・小児・女児…といった、同じ対象をさす語の中から一つを「選択」し、次に選択した語を同じプロセスを経て選ばれた別の語「寝ている」と「結合」するという段階が踏まれている、とヤコブソンは指摘しているわけだが、彼が真に問題としているのは、むしろ「言語の詩的機能」という特殊形である。「言語の詩的機能」においては、まず選択の軸には意味が類似している言葉ではなく、音の上で類似している言葉が並ぶ。そして選択の軸にならんだ言葉たちは、そのまま結合の軸に投影され、結果として文章上には「I like IKE」のように、音の上で類似した言葉たちが並ぶことになる(「詩的機能は、等価性の原理を、選択の軸から結合の軸へ投影する。」)。このような言語の使用法は、ラップや詩などに頻繁にみられる。

先に挙げたドゥルーズの「吃り」は、ヤコブソンの「言語の詩的機能」についての論旨をより発展させたものであろう。たとえば吃りが意図せずして違う語を呼んでしまう場合(有り体に言ってしまえば、吃ることによって意図していない頓珍漢な単語を発してしまう場合。”pas-rats”,”passions-rations”など)、まさに発する語を選んでいるのは「吃り」であるということができ、さらに”pas-passe-passion”と吃れば、結合も「吃り」によってなされたことになる。言語を「均衡のとれた、あるいは均衡に近づいている、恒常的関係と諸項目によって規定された同質の体系」とみなす言語観に対して、ドゥルーズが強調する、「吃り」という発話の失敗そのものがむしろ語を選別し結合させる新たな原理となってしまうという事態は――音によって言語の安定性を揺さぶるという点で「言語の詩的機能」と同質であるということもできるとはいえ――明らかにヤコブソンよりも極端な形で、言語の不安定性(「突然変異や転調の力」)を突き付けている。

とはいえこの極端さは、静的な言語観を相手取った場合にのみ認められる極端さであり、むしろ「吃り」の問題を言葉の問題としてのみ語っているという点において、ドゥルーズの理路には中途半端さが認められてしかるべきだろう。では、ドゥルーズの理路を超えた「吃り」の可能性は、どこに見いだされるのだろうか。

ララング、この神に恋する女性の言葉は、ある実質を持つ。祈りの叫びであり、恋の溜息であり、聖痕のくすみであり、詩の言葉を選ぶ一瞬のためらいである。(佐々木中『夜戦と永遠――フーコー・ラカン・ルジャンドル』)

ララング(lalangue)という言葉は、70年代にジャック・ラカン(1901~1981)が用いた表現であり、乳幼児の用いる、言葉とはいえないような音(「きゃっきゃっ」といったものや、ちょっとしたむずがりなども含む)”lallation”を基にしている。言葉が言葉として像を結ぶ前の、言い換えるならば意味が確定する前の、ちょっとした逡巡やためらい・吃りなどがララングであるが、ラカンはララングによって、主体は現実界における享楽――すなわち死の欲動としての享楽――を得ることができると言う。とはいえ、晦渋なラカンの理路を細かく追うことは本稿の意図ではないし、何よりも筆者の手に余る作業である。ひとまずここでは、以下の点についてのみ確認することができればよいだろう。まず第一に、佐々木中は、ラカンが現実界における享楽について「存在の享楽があります」。「一言で言えば、神を愛することによって、われわれはわれわれ自身を愛しているのです」と『アンコール』内で述べていることに注目し、ララングを16世紀と17世紀におけるキリスト教神秘主義運動における神秘家たちの言葉と重ね合わせている、ということ。第二に、神秘家たちの言葉は神に向かって書かれており、彼女ら(彼ら)の目的が「神の子」=「概念」を孕むことであったこと(「神秘家はマリアを反復しようとするのだ。産み出されるもの、それは恋文である。(中略)そう、キリストは受肉した『御言葉(Verbe)』である。そして『概念(concept)』はそもそも『受胎されたもの、孕まれたもの(conceptus)』という意味であり、『マリアの妊娠』はconceptio Mariaeである。」〈『夜戦と永遠』〉)、第三に、そのような神秘家の「恋文」=ララングのみが、「意味を、概念を、そして社会を」産み出すことができるということ。とはいえ、キリスト教社会の外で、定められた聖典を書き換えることによって言葉を紡ぐ神秘家の営為が、即社会を変えてしまうことにつながると言い切るのは難しいだろう。佐々木中はこの後、ピエール・ルジャンドルの理路を援用することによって、テクスト(聖典)の書き換えが社会そのものの書き換えであることを論証していくのだが、これ以上踏み込むことはやめにしよう。ここで確認しておきたいのは、ラカン(佐々木中)の理路がドゥルーズよりもさらに過激に「吃り」の生産性を主張していること、そして「(ララングとしての)言語は言語でないものに滲み、言語は自らの身体に溶け出した言語の外を含む。(ララングとしての)言語は、滲んで溶ける水溶性の染みでできた、斑の身体を持つ」(『夜戦と永遠』)ということ、つまりララングとしての吃りは、ドゥルーズの理路に現れた「吃り」よりも「別の言語」――おおよそ言葉とはかけ離れてしまったもの――じみていることである。

語の「選別」と「結合」の関係性から、「吃り」に言語の安定性を問いに伏す可能性を認めたドゥルーズ。「吃り」(ララング)に意味の産出そのものの可能性を見つけ、外―言語的な領域としての「吃り」を見つけ出したラカン―佐々木中。ここまでの理路をたどってきた我々は、いよいよ外―言語的な領域における「吃り」について、具体的なテクストを検討することによって思考していかなけらばならないだろう。

If the Scatman can do it so can you
スキャットマンができるんだったら君にだってできるさ
Everybody’s sayin’ that the Scatman stutters
皆スキャットマンは吃ってるっていうけど
But doesn’t ever stutter when he sings
歌っているときは絶対に吃らない

Schatman John(以下John)は”Scatman (ski-ba-bop-ba-dop-bop)”において以上のように歌っているが、これは半分嘘である。彼は吃っている、しかしスキャットという方法で。いや、ドゥルーズ的「吃り」による「選択」・「結合」が為された一節”It’s a scoobie oobie doobie scoobie doobie melody”を歌う際、スキャットマンは音だけ聞けば吃っている。ただ、「吃り」そのものが言語と化しているだけだ。このことから、”Scatman (ski-ba-bop-ba-dop-bop)”には二つの「吃り」があることがわかる。一つ目は文章としては成立していない、音としてのみ現れる、冒頭や間奏にみられるスキャットであり、これはそもそも外―言語的な、ラカン―佐々木中的「吃り」である(歌詞カードでいえば、…で省略された部分である)。もう一つは「吃り」の規則によって作られた文章を歌唱するときに現れるものであり、ドゥルーズ的「吃り」である(”It’s a scoobie oobie doobie scoobie doobie melody”)。

そもそもこの楽曲が吃りに悩む人への応援歌であることを考慮すれば、「吃り」が一つの規則として価値を持つドゥルーズ的「吃り」の使用は狙いからして効果的であり、かつ、

repeat after me
It’s a scoobie oobie doobie scoobie doobie melody
I’m the Scatman….sing along with me
It’s a scoobie oobie doobie scoobie doobie melody

と、リスナーに、共にドゥルーズ的に吃ることを求めることには大きな意味があることになる。つまりドゥルーズ的吃りは、むしろ吃ることにこそ優位性をもたらすための装置であり、”It’s a scoobie oobie doobie scoobie doobie melody”とうまく吃ることこそが至上の価値となる。

しかし、共に吃ろうとするリスナーにとって最も難しい吃りは、むしろラカン―佐々木中的な吃りではないのか?冒頭におけるあの過激で極端な吃り=スキャットこそ、最も魅力的であり、sing along したい場所ではないのか?

そう、我々はドゥルーズ的な、中途半端な「吃り」を入り口として、真に過激な「吃り」へと至るのである。つまり、うまく吃れることが快楽となる状態から、冒頭の絶対的な「吃れなさ」へのいらだちに至る。だからこそPVの冒頭のスキャットマンはいらだっているのだが(この歌は歌詞からしてスキャットマンではない人間が歌っている体にもなっており複雑である)、問題は、そのことによってうまく歌うことがむしろ「吃り」のついでとなってしまうことであり、むしろ「吃りそこない」としてのみ、リスナーに認知されるという、一つの転倒である。

 

引用文献一覧
・ジル・ドゥルーズ『批評と臨床』、守中高明・谷昌親・鈴木雅大訳、河出書房新社、2002年
・ロマン・ヤコブソン『ヤコブソン・セレクション』、桑野隆・朝妻恵理子編訳、平凡社ライブラリー、2015年
・佐々木中『定本 夜戦と永遠』、河出文庫、2011年
※ジャック・ラカン『アンコール』はまだ邦訳がないため、本文中の『アンコール』からの引用は、すべて『夜戦と永遠』からの孫引きである。

文字数:4668

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