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不在のアレゴリー~藤田嗣治的戦争画と「体験」~

ひとまず、1937年から1945年にかけて、藤田嗣治(1886~1968)によって書かれた「戦争を想起させる描写、あるいはタイトルが付された絵画」を「藤田嗣治的戦争画」という言葉でもって呼称するとして、まずは「藤田嗣治的戦争画」を分類することから始めよう。

第一に、「鑑賞者に場面への参与を求める戦争画」が挙げられる。たとえば、『哈爾哈河畔之戦闘』(1941)。横幅4mを超えるこの巨大な作品を眺めるとき、まず最初に目に付くのは右端に配された戦車である。戦車の周りには、地面に生い茂る草に紛れるため、装備に藁のようなものをくっつけた日本兵たちが群がっており、そのことからこの絵画に描かれた場面が「草むらに紛れた歩兵による、戦車への不意打ち」であることが把握される。そこから左へと視線を巡らせていくと、次に目につくのは、草むらに紛れながら鑑賞者のほうへと身をせり出し、こちらをじっと見つめている一人の日本兵である。絵画に描かれたほかのすべての日本兵が、絵画内に描かれた別の対象物に向かって何らかのアクションを行っている(ほとんどの日本兵は戦車へと走っていき、幾人かは味方の救護や後方支援に精を出している)中で、ただ一人画面の外を見つめる彼の態度は、明らかに浮いている。画面左下に配されたこの日本兵の奇妙さに目を奪われることによって、鑑賞者は地面に生い茂る草の奇妙さにも気づくことができる。画面手前の草は明らかに長く、こちらに向かって迫ってくるような印象を与えるのだ。この草の奇妙さに気づいた時、この作品が、この場面に参与する人間の視線に合わせて書かれていることが理解され、奇妙な日本兵の視線も、鑑賞者に対する「よし、いくぞ!(飛び出して攻撃するぞ!)」というアイコンタクトであることが同時に理解される。つまり、「哈爾哈河畔之戦闘」を鑑賞するということは、この作品に描かれた戦いに仮想的に参与することと同義であり、「ヴァーチャルリアリティ」のような疑似歩兵体験が鑑賞によってもたらされているのだ、ということができる。

似たような効果は『十二月八日の真珠湾』(1942)や『シンガポール最後の日(ブギ・テマ高地)』(1942)などにも見出すことができ、前者は今まさに真珠湾に攻め入っている戦闘機のパイロットの目線から書かれることによって、後者は前景に配された兵士たちの居る地面が、鑑賞者の方に向かってせり出すように書かれることによって(この効果は、中景がくりぬかれ、かつ遠景に配された大地が画面奥に向かって開かれていることによって、より強化されている)、鑑賞者にまるで場面の中に参与しているかのような錯覚を与えることに成功している。

第二に、「鑑賞者に傍観者であることを強いる戦争画」が挙げられる。作品に描かれた場面と鑑賞者のいる時空間が地続きであるかのように錯覚させる第一の戦争画と比べ、第二の戦争画は「普通の」絵画に近いように思われるかもしれない。しかし第二の戦争画が鑑賞者に求める「傍観」という在り方は、単なる「鑑賞」と区別されねばならないだろう。たとえば『アッツ島玉砕』(1943)。画面のほとんどが茶に近い色で書かれたこの大作を観るときにまず出会うのは、鑑賞者自身の視線の落ち着かなさである。『アッツ島玉砕』は大地と軍人の衣服や肌の色が同系統の色で書かれてしまっているため、そもそもどれが人でどこまでが大地なのかわからないうえに、誰が日本軍の軍人で誰が敵軍なのか、また誰が生者で誰が死体なのかすら判然としない。また一つの画面内で同時多発的に争いが起こっているため、ある争いを見れば別の争いが視線から外れてしまい、視線は絵画の表面を滑り続けていくことを余儀なくされる。つまり誰が敵で誰が味方なのかすら判別のつかない戦争の混乱を描いたこの作品の鑑賞体験そのものが、視線の混乱として組織されてしまうのだ。すると、「藤田嗣治的戦争画」が強いる「傍観」というあり方は、鑑賞者による能動的な「鑑賞」よりも、絵画を前にしてただ呆然とすることしかできない、という体験に近いだろう。この「傍観」が最も効果的に機能しているのが『サイパン島同胞臣節を全うす』(1945)である。同時多発的な惨事――女性や子供を含めた同時多発的自決、力尽きた男女の死体の散乱、一人泣き叫ぶ赤ん坊、ろくな装備もないまま銃を構え必死に自決のための時間を稼ぐ軍人――を前にして、視線の混乱のあまり呆然としてしまう鑑賞者の体験は、画面の中に漂う「どうしようもない」という呆然とした雰囲気――特に画面中央における女性たちの生気のない目に顕著である――とシンクロする。第二のタイプの戦争画においては、確かに描かれた場面と鑑賞者の居る時空間との間に大きな溝があるが、藤田は『サイパン島同胞臣節を全うす』において、鑑賞者の体験と画面内の雰囲気を一致させることにより、情念的に画面の内と外をつないでみせたのである。

第三に、「記録画的戦争画」を挙げることもできるだろう。このタイプにおいて藤田は主観を交えつつもリアリティのある戦争を描こうとしている。『大柿部隊の奮戦』(1944)における暗闇の表現、つまり夜戦であることの表現などがわかりやすい例であろう。とはいえ、第二の戦争画と「描かれた場面と鑑賞者の居る時空間との間に大きな溝がある」という点では同じであるし、違いといえば鑑賞者の視線が混乱するかしないか、といった点を挙げれば済む話であるので、詳述は避けよう。ここで問題とすべきなのは、以上の三つの区分が全く通用しない、ある一枚の絵画である。

ソロモン海域に於ける米兵の末路』(1943)と題された一枚の絵画は、「藤田嗣治的戦争画」の中でも明らかに異様な存在である。いったい何が異様なのか?第一に、「藤田嗣治的戦争画」の多くは、取材や見聞をもとにして、細部に藤田による「主観」をミックスさせることによって生まれている。しかし『ソロモン海域における米兵の末路』は完全な空想によって書かれており、さらにいえばそもそもタイトル以外に戦争画であることをにおわす描写すらない。またソロモン諸島の戦いはほとんど日本軍の敗戦で終わっているという史実からも、ろくな装備やオールすらないまま、木製の小舟に揺られ、ソロモン海域を漂いサメに囲まれる米兵というモチーフそのものも空想の産物であることがわかるだろう。どうやら藤田は、この作品によってリアリティのある戦争を描こうとしたわけではないようだ。つまりこの作品は、「記録的戦争画」とは程遠い。

第二に、「藤田嗣治的戦争画」にしばしばみられる出来事の同時多発性に逆行するかのような、事件の不在が挙げられる。いや、たしかに事件は起きているようにも見える。画面の左上では一匹の鮫がはね、船上にいる男の一人はそのサメをじっと見つめている。はねたサメの周りには五匹の鮫がおり、船上の左下に配された男は呆然とサメの群れを眺めている。船の中では二人の男が倒れており、この場面に至るまでに彼らがたどった旅路の過酷さを想起させる。一人の男は座ったまま画面左下に向かってぼんやりとした目線を投げかけ、そのすぐ近くには俯いたままの男が慎ましく座っている。船上で最も目を引く仁王立ちする男は、画面左に向かって意志の強そうな視線を投げかけるが、彼が一体何を見ているのか、その対象物が作品の中には描かれていない。つまり、誰もが何とも/誰とも関係していない。各々好き勝手な方向に視線を投げかけているだけで、船上では誰一人かかわりを持たず、サメと人間すらその距離の遠さのために関係を持っているとはいいがたい。このことは、よく似た状況を描いた先達であるジョン・シングルトン・コプリー(1738~1815)による『Watson and the Shark』(1778)と比較したとき、よりはっきりと認識されるだろう(注1)。コプリーの作品において、サメが人間に襲い掛かり、さらにサメの出現に船上の人々が恐怖する、という出来事が描かれているのに対して、藤田の作品のサメは、米兵に訪れるであろう「死」という未来を暗示するに留まる。『ソロモン海域に於ける米兵の末路』には、将来起こるであろう事件、ないし過去にあったであろう過酷な旅路を想起させるものはあるが、事件そのものは描かれていない。

第三に、事件の不在による鑑賞者の視線の置場のなさが挙げられる。「藤田嗣治的戦争画」の第二のタイプにおいては、事件の同時多発性による視線の混乱が起こっていたが、今度は事件が不在であるために、いったいどこを観ればよいのか(いったいどこを中心にして解釈すればよいのか)という問題が発生する。画面の外を眺める人間がいながらも第一のタイプにみられるような「参与」が起こらず(もし鑑賞者が場面に参与してしまう場合、鑑賞者は海上に投げ出されていることになってしまう)、かつ視線の混乱とは異質な「視線の置場のなさ」という決定的に新しい事態を発生させたこの作品は、他の「藤田嗣治的戦争画」や、同モチーフの過去の作品(たとえば制作にあたって藤田が参考にしたウジェーヌ・ドラクロワ〈1798~1863〉による『ダンテの小舟』〈1822〉における、怪物たちの襲い掛かる様の激しさや、テオドール・ジェリコー〈1791~1824〉による『メデューズ号の筏』〈1818-1819〉における、船上での醜い争いの過酷さ)と比べた時、異様であると言わざるを得ない。無論、船やサメ、海、画面右下の目を閉じ横たわる男や仁王立ちする男の意志の強そうな目線といったバラバラのパーツから、何か象徴的な意味を引き出し、ある統一的な解釈を与えることもできるかもしれない。しかし、しばしば海上での遭難というモチーフに関連付けられる飢餓や神による救済(たとえばティントレット〈1518~1594〉の『St Mark Rescuing a Saracen from Shipwreck』〈1566〉や『ガリラヤ海のイエス』)というモチーフを拒絶するかのように、『ソロモン海域に於ける米兵の末路』においては事件が不在であり、かつ空から光が差す気配さえ見えず、あまつさえ唯一空を見上げている画面左下の男は、自らの目を覆うことによって神が到来しないことを暗示している。

するとこの作品は、米兵が徹底的に救われえない存在として書かれているという点で、第二次世界大戦中の日本人による戦争画らしさを持ちながら、しかし米兵たちにいまだ惨事が訪れていないという点で、同時代の日本人の戦意を鼓舞するための戦争画としては中途半端である、と言うこともできる。彼らを将来襲うかもしれない存在としてのサメを日本軍だととらえるにしては、サメたちは小さく描かれすぎているために、米兵vs日本軍という構図にすらなっていないからだ。

とはいえ、ここまでの理路には絵画を語るうえで決定的に異様な語が頻出していることも事実であり、その一事をもってして『ソロモン海域に於ける米兵の末路』は革新的であるということもできるだろう。すなわち、「不在」のアレゴリーとしての絵画という革新性である。通常、絵画は不在を描けない。もし美術の時間に「リンゴがないという状況を書いてみろ」と言われたならば、われわれは途方に暮れるしかないだろう。しかし、この作品には事件・救済・飢餓・惨事・日本軍のすべてが不在である。さらに言うならば、鑑賞者の視線すらその置き場のなさのために、絵画に対する自己の位置を決定できないという一事をもって不在となってしまうだろう。そこにあるのは、サメという「予感」と、すでにあっただろうと推測される過酷な旅路のみなのだ。現に、船の左側に居る予感としてのサメや、過去の旅路を示す、船の穂先とは真逆の左側の空間には視線が注がれているが、行先である画面右側の空間には視線が一切注がれていない。するとこの作品は、不在のアレゴリーであり、予感と過去(想起)によって成り立っていおり、現在が不在であるということができるだろう。

 

(注1)海上での遭難自体は伝統的なモチーフであるが、その中でも藤田と同じくサメに襲われるというモチーフを用いている点、また彼の知名度の高さと、藤田がヨーロッパ美術を学び、その流れをいくらか汲んでいたという点を勘案すると、コプリーの当該作品は参照するに値する。

 

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