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舞う身体は情念を奪って飛び去るのか~『ヤマトタケル』の非スペクタクル的瞬間~

2015年11月現在、新橋演舞場では週刊少年ジャンプで連載中の漫画『ONE PIECE』(尾田栄一郎作)を基にした舞台、スーパー歌舞伎Ⅱ(セカンド)『ワンピース』が上演されている。三代目市川猿之助(現・二代目市川猿翁)が創出した「スーパー歌舞伎」が、『ヤマトタケル』(1986)や『八犬伝』(1993)にみられるように、主に伝統的な物語を基にエンターテイメント性の高い舞台を作り上げていたのに対して、三代目の意志を継いだ四代目市川猿之助の作り上げる「スーパー歌舞伎Ⅱ(セカンド)」は、一作目(『空ヲ刻ム者』〈2014〉)から劇作家である前川知大や現代演劇の俳優である福士誠治、浅野和之、佐々木蔵之介を起用していることからもわかるように、よりエンターテイメント性の高い舞台になっている。

文字通り「型破り」な「スーパー歌舞伎」と「スーパー歌舞伎Ⅱ(セカンド)」を特徴づけているのは「宙乗り」と呼ばれるワイヤーアクションである。殊に『ワンピース』においては、「宙乗り」によって「劇場中のお客様が立って、手拍子をして歌ってくださること」が「理想」とされている(注1)ことからも、「宙乗り」の瞬間こそ「スーパー歌舞伎Ⅱ(セカンド)」というエンターテイメントにおける最もスペクタクルな瞬間であることは間違いないだろう。また「宙乗り」は明治の「演劇改良運動」によって「見世物小屋のようだ」として禁止され、1970年に三代目猿之助が「義経千本桜」で復活させ大喝采を浴びた(注2)という事実からも、スペクタクルな演出として名高いものであることがわかるが、ここで問題とすべきなのは「スーパー歌舞伎」の第一作である『ヤマトタケル』において、『義経千本桜』や『ワンピース』とは対照的に「宙乗り」の瞬間に疎らな拍手しか起こらなかった、という事実である(注3)。

『ヤマトタケル』における「宙乗り」について述べる前に、少々迂回をしよう。いうまでもなく、歌舞伎においては「役」の心情と動きが一致していなければならない。たしかに歌舞伎には「型」と呼ばれる決められた動きが存在するが、歌舞伎俳優は単に型通りに動けばよいというわけではなく、役の心情に合わせて「型」を改良していかなければならない。「スーパー歌舞伎」においては特に、登場人物たちが各々の心情に合わせて、所謂「歌舞伎」よりも自由な動きをすることが許されており、セリフのわかりやすさも相まって、登場人物たちに比較的容易に感情移入することができる。しかし『ヤマトタケル』においてはむしろ、主人公である「ヤマトタケル(小碓命)」の心情と動き(行動)がズレていき、そのことに彼が悩まされ続けている様こそ注目に値する。彼は意図せず双子の兄である「大碓命」を殺してしまった後その罪に問われ、父である「帝」から、東北の「熊襲」を一人で討伐してくるよう命じられる。そこで「熊襲兄タケル」と「熊襲弟タケル」とを討伐せんと刀を振るう彼の「動き」は、いかにも歌舞伎らしい「型」や「見得」の見られる、生き生きとした力強いものであった(第一幕五場)。しかしヤマトタケルは第二幕二場において、「熊襲」の討伐が自らにとって決して望ましいものではなかったことを、叔母である「倭姫」に打ち明ける。生き生きとした「動き」と、彼の「心」の間には、この時を境に大きなズレが生まれ始める。

とはいえこの「ズレ」は複雑である。ヤマトタケルはその後「蝦夷」の「ヤイラム」と「ヤイレボ」の双子を討伐したことによって名を挙げ(第二幕三場)、徐々に自らを「勇敢なるもの」として自認していき、時には驕り高ぶりを見せるようになる。そのことは、第三幕二場における「姥神」と「山神」の討伐において特に顕著であり、自らを守ってきた秘宝である「草薙の剣」を道中で出会った「みやず姫」に形見として渡し、かつ素手でも討伐してみせると意気込んだうえに、第一幕における白一色の衣装と比べて明らかに派手で豪奢な真紅の着物を着て討伐に臨む姿は、本心から討伐することを望み、かつその行動に誇りを持っているかのようである。ここにおいて彼の「心」と討伐における生き生きとした「動き」が一致しているように見えるが、にもかかわらず第三幕三場・四場において再び彼の「心」が問題となる。ヤマトタケルの「心」は彼自身にとってもわからないものであるが、同時に第一幕から第三幕の間で変わってしまうようなものではなかったらしい。「姥神」と「山神」の討伐によって負った傷が原因で命を落とした彼はクライマックスにおいて鳥になり、「天翔ける心、それが私だ」という言葉を残して空へと消えていく(「宙乗り」)。どうやら、彼の「心」と「動き」(身体)はクライマックスにおいて初めて一致したらしい。

いうまでもなく、これは奇妙な結末である。「それが私だ」とまで言い張る「天翔ける心」が一体何なのか、はっきりと示されてはいないし、何よりも自らを認めてくれない父に執着したり、故郷である大和に恋い焦がれたり(第三幕三場)、あてがわれた恋人(「弟橘姫」)に夢中になったりと、彼の「心」は「天翔ける」という言葉には似つかわしくないようなものであふれかえっている。我々はここで、『ヤマトタケル』における「心」と「動き」についてまた別の角度から考察せねばならないだろう。そのためのカギとなるのは、第二幕五場における、「熊襲」の兄弟の部下たちである。この場を詳しく見ていこう。

第二幕五場は熊襲たちのエキゾチックなダンスから始まる。熊襲の兄弟は隈取をしつらえられ、(大和の人間から見て)超人的な存在であることが示される。彼らの部下たちは皆、統一感のないままどんちゃん騒ぎをしており、場を活気づけるのに貢献している。そこに「大和の踊りべ」と名乗ったヤマトタケルが現れ、エキゾチックな音楽が歌舞伎らしい雅な音楽にとってかわられる。その後兄弟を翻弄するだけ翻弄したヤマトタケルは暗闇に紛れて熊襲弟タケルを刺し、さらに場の混乱に乗じて熊襲兄タケルをも殺害する。ここで注目すべきことは、場の盛り上がりや熊襲たちの情念、場の混乱といった出来事がすべて、部下たちの「動き」によって表現されている点だ。彼らの「動き」はいうなれば情念や雰囲気そのものであり、観客は彼らを通じてのみそれらを認識することができる。すると部下たちの動きとは熊襲たちの情念であり、かつ観客たちの情念でもある。このことはむしろ、「スーパー歌舞伎」が新しさよりも、徹底的な「先祖返り」を目指していることの証左となるだろう。いうまでもなく「宙乗り」は幕末において既に行われていた技法であるし、エンターテイメントとしての歌舞伎という歌舞伎観や、舞台と観客の情念の同調の仕方にいたるまで、出雲阿国の「かぶき踊り」と重なる点は多い。

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「かぶき踊り」においても、『ヤマトタケル』においても、舞台上で踊る身体たちから情報(雰囲気や場の情念)を受け取り、受け取ったものを舞台に投影する=投げ返す点では変わらない。ただ『ヤマトタケル』においては観客が動くことができないために、観客の代わりに熊襲の部下たちが踊るのだ(この点、観客が歌うことを奨励するスーパー歌舞伎Ⅱ〈セカンド〉『ワンピース』は、正しく「スーパー歌舞伎」の意志を継いでいるといえる)。むろん、「花道」の存在からわかるように歌舞伎においてはそもそも客席と舞台との区別があいまいであり、こと『ヤマトタケル』においては、観客の能動的な参加が求められる。すると「スーパー歌舞伎」は、「演劇」よりも「サーカス」や「祝祭」に近いのかもしれない。さらに、歌舞伎を特徴づけるものとして挙げられるのが、拍子木や太鼓の音に合わせて舞う身体=音にノる身体であることを考えれば、滑らかな曲線をうごく舞台上の役者と畳みかけるようなリズムが相まって、不断に観客の思考が中断されてしまう事態は想像に難くない。絶え間ない思考の中断=収奪という一種のスペクタクル状態の中で、野次のように屋号を叫ぶ観客の姿には、まさに舞台への受動的な没入と能動的な参入の両方を見ることができる。すると『ヤマトタケル』じゃ、「スーパー歌舞伎」という言葉通り超・歌舞伎的なのである。

ここにきてはじめて、ヤマトタケルの「心」ははじめて理解される。彼の身体とは、まさに歌舞伎における観客的身体であり、舞台上に渦巻く情念や雰囲気に流されつつ、能動的に出来事に参与する身体なのである。考えてみれば、彼の行動はすべて誰かから命じられるか、頼まれるかした結果行われたものであり、さらに恋愛関係を結ぶ女性たちはすべて誰かにあてがわれたものである。だからこそ、舞台上で戦いの「雰囲気」が漂えば彼は求められたとおりの動きをしてしまうし、自らの動きによって内面まで好戦的な方向へと馴致されてしまう。つまり、ヤマトタケルに起こっているのは観客における「役者が泣いているから悲しいのだ」という「動き」の心情化とパラレルな事態であり、彼にとって彼は「生き生きと動いている」から「勇敢」なのだ。すると、彼の言う「心」とは非身体的なものであり、そのために観客からすれば永遠に理解することのできない心情である。

『ヤマトタケル』の主人公は内面を「動き」によって馴致させてしまう存在であり、彼にとっては「心情がこうだからこう動く」という規則よりも、「こう動いたから心情はこうである」という規則のほうが優先される。そのために内面と「動き」は一致を見せるが、しかし彼の「心」には身体化されない余剰があるらしい。その余剰こそが「心」と「動き」のずれの原因である。ラストシーンにおけるヤマトタケルの鳥への変化、そして「天翔ける心、それが私だ」という言葉は、彼の「心」の余剰が「動き」として現れなかった=排除されてしまっていたために、死によって身体が失われた瞬間、余剰それ自体が表現ではなく、余剰自体として現れてしまったものである。

表現でない限り、つまり観客との共通コードとして「心」が現れない限り、観客はそれを理解することができない。クライマックスにおける「宙乗り」の疎らな拍手は、この鳥が非スペクタクルのもの、つまり我々の情念を仮託できない、理解しがたいものとして現れてしまったために、起こったものだ。すると一度舞台上に収奪された観客の情念は、飛び去る鳥の出現によって、観客と舞台とのリンクが切れてしまったために、もう一度観客に返されたこととなる。空を舞う身体は、情念を奪ったまま飛び去りはしなかったのだ。

 

(注1)「猿之助が『ワンピース』で宙乗り700回」(http://www.kabuki-bito.jp/news/2015/10/700_1.html 最終閲覧日時:2015/11/5 19:40)

(注2)河竹登志夫『新版 歌舞伎』東京大学出版会、2013年、74頁

(注3)本稿の『ヤマトタケル』についての記述はすべて『歌舞伎名作撰 ヤマトタケル』(NHKエンタープライズ、2004)に収録された、1995年4月の新橋演舞場における公演に準拠している。なお、『ヤマトタケル』は3時間50分の三幕芝居であったが、『歌舞伎名作撰 ヤマトタケル』にはそのうちの180分しか収録されておらず、不明瞭な個所は可能な限り市川猿之助『スーパー歌舞伎:ものづくりノート』(集英社、2003年)などを参照することによって補った。とはいえ本稿の記述に不正確な点があるとすれば、それは全て筆者の確認不足によるものであり、全ての責は筆者が負うものである。

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