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情念の連帯、あるいはシンデレラになるか

2015/9/17

 

ある晩、それまで親しんできた「シンデレラ」という物語に対して強烈な違和感を抱いてしまった。まず第一に、ガラスの靴は何故十二時を過ぎても消えなかったのかということに対して。第二に、何故王子様はシンデレラの顔を覚えていなかったのかということに対して。このような違和感は、私が親しんできた「シンデレラ」がグリム童話を基にしたディズニー版を、さらに編集したものであるために生まれたものであり、元の物語を精査すればたちどころに払拭されてしまうようなものなのだろう。しかし、「お泊り会」と称された催し物のために友人の家にただ一人招かれ、慣れない布団の上で読み聞かせられた「シンデレラ」に強烈な違和感を感じてしまった幼いころの私は、なぜか涙をこらえることができなくなった。唐突に流された涙に、読み聞かせをしてくれた友人の母は大いに戸惑ったらしいが、その時誰よりも戸惑っていたのは、涙を御することできないばかりかなぜ自分が泣いているのかすら理解できなかった私自身であろう。
涙をみた友人の母は、「おうちにかえりたいの?」と私に問いかけた。そのころはちょうど、父親の事業の失敗から両親の間に不和が生まれた時期(記憶が正しければ、自己破産へと至る一か月ほど前だった)であり、ぎすぎすとした空気に耐え切れなくなっていた私はどうしても家に帰りたくなかった。しかし、涙の理由を言葉によって説明することができそうにないもどかしさと、戸惑うがゆえに、原因不明の涙すら既知のものとして理解したがる友人の母親の脅迫的ともいえる態度に圧倒され、私は「うん」と言わざるを得なかった。

今この文章を書いている私の耳には、赤ん坊の泣き声が聞こえている。それにしても赤ん坊を泣き止ませるために我々がとる行動とは、あまりにも奇妙ではないだろうか。ミルクを与える、オシメを変えるといったものならいざ知らず、抱っこして体をゆすり、柔らかい声色で子供に何事かを呼びかけることを、はたして泣き止まない赤ん坊は望んでいるのだろうか?いや、空腹やオシメの不快感によって泣き出した(と我々が思い込んでいる)子供も、もしかしたら、ミルクや快適さ以上の何かを求めており、その欲求が部分的に満たされたから泣き止んでいるに過ぎないのであって、ミルクを与えたから泣き止んだ=ミルクをほしがって泣いた、という等式は、実は成立しないのではないだろうか。
この懐疑は、我々が捕えられている意味の体制(言語)への懐疑である。どういうことか。意味と呼ばれるものは、しばしば目に見える現象の効果として捉えられる。たとえばミルクをあげたら泣き止んだ赤ん坊の泣き声は、「ミルクをあげたら泣き止んだ」(現象)から「ミルクがほしいという意味」(効果)を持つ。そして、赤ん坊が泣く→なにか大人がアクションを起こし、泣き止ませる→泣き声の意味が確定する、というプロセスが繰り返されることにより、大人は赤ん坊が泣き始めた時点で泣き声の意味を推測できるようになる。このように、目に見える現象の効果のパターンを把握し、泣き止ませる前から意味を推測できるようになった時、大人はしばしば赤ん坊のことを理解した気になる。その時、大人と赤ん坊の間で泣き声は意思疎通のための共通言語として機能する。このようなプロセスを経ていないために、いまだに泣き止まない赤ん坊の泣き声の意味を私が理解した気になることはできない。無論「ミルクがほしい」という「赤ん坊の泣き声」の意味は、「赤ん坊の泣き声」のすべてを説明しきるものではなく、大人と赤ん坊の共通言語は不十分な理解、乃至は不正確な理解の反復によって作られていることを見逃してはならない。
本来意思疎通とは、共通言語の生成から始めなければならないし、共通言語の生成というプロセスを経たところで、正確な意思疎通を望むことはできない。しかし我々は、しばしば初対面の相手と共通言語を生成するプロセスを経ずに話し合い、相手を理解した気になる。日本人同士ならば誰とでも、面倒なプロセスを経ることなくコミュニケートできるというこのような幻想は、近代における「国民」というカテゴリーの生成と深くかかわっており、日本国民ならば誰でも同じ日本語を使っているという建て前に裏打ちされている。言葉がコミュニケーションの道具の中心として据えられているメールやLINE、Twitterにおいて毎日のように、すれ違いが起こり続けているにもかかわらず、である。
共通言語をわざわざ作ろうが、誰でも同じ日本語を使っているという幻想に立脚しようが、相手の言うことを理解しきることはできない。すると、伝わらないという事態は言葉の機能不全として語られるべき事柄ではなく、むしろ本質的に言葉とは「伝わらない」ものであり、言葉の機能とはもっと別の何かに求められるべきなのではないだろうか。

テレビからは今、安保法案の強行採決に反対するデモ隊の声が聞こえてくる。国会前のデモ隊は今、「安倍はやめろ」、「戦争法案絶対反対」といったシュプレヒコールを挙げている。無論一個人としてのデモ参加者は、それぞれがそれぞれなりの反・安保法案のためのロジックを持っているのだろうが、少なくともシュプレヒコールを挙げる姿からは、感情の表出以外の目的を感じることができない。つまりデモの中の言葉には、安保法案賛成派を説得するためのロジックが含まれていない。無論それは戦略的なものであり、「安保法案反対」という目的のみを一にする者同士が、自らの立場・ロジックの違いを捨て、情念によってのみ連帯することにこそシュプレヒコールの目的がある。つまりデモの中の言葉とは、説得のための言葉ではなく、情念的な連帯を形成するための言葉である。
言葉が人間同士の差異を横に置きつつ情念的に連帯させる例は、枚挙にいとまがない。シャルリーエプドの関係者がテロの犠牲となった際に用いられた「je suis charlie」という標語や、第二次世界大戦中の「欲しがりません勝つまでは」という標語、「一億玉砕」というスローガンなど、様々にあげることができる。「言葉の機能とは~である」などと一般化することはできないだろうが、少なくとも国民国家形成のために日本語――国民全員が共有しているという建前の「共通言語」――が想定されるようになった、という事実を考慮すれば、近代以降の日本語の機能とは「国民」という情念的な統一体を形成することにこそ、求められるのだろう。わかりやすくいってしまえば、日本人全員が、同じ日本語を使っていることを理由にアメリカ人よりも日本国民の死に同情できるようになることにこそ、日本語という言語の機能が求められるのだ。
デモ参加者の一部は、デモにおける情念の連帯を、アベノミクスが争点の選挙の結果を盾に強行採決を行う第二次安倍政権に立ち向かうための、力や民意の表明の一形態として肯定する。それに対してデモに顔をしかめる一部の人々は、感情的で非理性的な行為としてデモを糾弾する。どちらの意見も、それぞれを正当化するためのロジックを持つ。しかしデモ賛成派と反対派の両者が合意するようなロジックは存在しない。だからこそ、デモの是非についての論争は尽きることがない。正反対のロジック同士が別の文脈において共存することができるという事態は、言葉が本質的に伝わらない=共有されないものであるがゆえに起こる。つまりデモ賛成派が反対派に伝えることができるのは、デモの正当性ではなく、連帯によって肥大した情念だけなのだ。

しかし私は、友人の母に涙を流す理由としての情念を伝えることはできなかったし、三十分ほど前に泣き止んだ赤ん坊の泣き声からいかなる感情をも感じ取ることができなかった。情念の連帯こそ近代思想を形成する日本語の最大の機能であるとしたら、原因不明の涙にこそ、その間隙を見出すことができるだろう。
「シンデレラ」の王子はガラスの靴を履ける女性をシンデレラとしてしまおうともくろんでいた。王子が求めていたのはシンデレラ本人ではなく(なんせ、顔すら覚えていないうえに、同じガラスの靴を履ける女性など、ごまんといるに決まっているのだから!)、シンデレラの美しさによって喚起された感動的なまでのまでの情動である。情動が目的ならば、相手をシンデレラだと信じ込めさえすればよいのだし、明らかに舞踏会に行けない身なりをした灰かむりをシンデレラだと認識したという奇妙な事実(なんせ、顔すら覚えていないのだから!)にも説明がつく。するとガラスの靴には、誤った人間をシンデレラにしてしまいかねないような危険性があったことになる。魔女が消さなかったガラスの靴とは、結果として灰かむりと王子の再会のきっかけとして機能したものの、本質的にはサイズさえ合えば誰であろうと(王子にとっての)シンデレラにしてしまう、誤解や(灰かむりがシンデレラだという事実の)伝わらなさを前提とした装置なのである。
「シンデレラ」とはつまり、伝わらないことが前提にあるなにかが、正しく伝わってしまう物語であり、その限りにおいて涙を流せるほど感動的である。原因不明の涙とは、しかしこの感動的な伝達=到達によってのみ流されたものではない。むしろ、「シンデレラ」の感動が共有されないことに対する、つまり情念においてすら「私とあなた」の間に開きがあるという事実によって流されたものではないだろうか。肥大したデモの情念はしばしば伝わる。しかし、連帯とは程遠い情念は共有のための「言葉」を得ることができない。つまり奇跡的な「シンデレラ」の到達劇の裏で、私の情念は、言葉に到達し損ねていたのだ。

文字数:3938

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