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なにものとも、違う、――金井美恵子「くずれる水」について

「くずれる水」の細部には様々な差異化の仕掛けが施されている。例えば「役に立つのか立たないのかわからない実用記事」、「とり壊し寸前の廃屋と見間違えそうなホテルの建物」など。「実用記事」や「建物」といった名詞は、その名詞が指す対象や字面とは似ても似つかない形容詞を付与されることによって、ステレオタイプな理解から差異化されるのだ。
さらに、「くずれる水」の細部にはもう一つの仕掛けが施されている。それは、類似や接近の仕掛けである。例えば「警察と学校と教育委員会とPTAと乳酸飲料会社と歯磨会社と保険会社」のような無関係なものの羅列。これらは「体操家」のスポンサーという共通点によって、類似したものとして集められる。
「くずれる水」において「水」は、差異化と接近の両方に関わる。例えば「埃をはらい落そうとしても、妙になめらかで――ちょうどタルカム・パウダーのように――ぴったりと湿った肌に張り付き、雨の水滴が埃の微粉を洗い流すどころか、毛穴の一つ一つに埋め込んでいるような具合だった」という一節においては、「水」は「埃」と「肌」とを接近させる媒介の役目を果たす。それに対して「その輪郭が、肉体の各部が、液体化して透明になり、激しく泡立つ洪水としてわたしを包囲する時のことを思い出し、いや、それは、〈時〉というのがあたらない時、むしろ、時間の溶解する泡立ちといったほうがいいのだが、その泡立ちを思い出して身震いする」という一節においては、「水」は「彼女」や「わたし」(語り手)の輪郭を溶かしてしまう(=差異化してしまう)脅威として現れる。つまり「水」は、ある時は差異化の仕掛けとして現れ、ある時は接近の仕掛けとして現れる。
このような接近や差異化の仕掛けは、主に「物語」に関わる。「物語」とは、「反復」してしまう「ありふれた話」であり、語り手である「わたし」はしばしば自らが置かれた状況や自らの行動を「ありふれた」もの=「物語」(の「反復」)として捉えてしまう。接近の仕掛けとしての「水」は、「わたし」が自らの置かれた状況を「物語」(の「反復」)として捉えるとき、現実と「物語」を接近=類似させるツールとしてその役目を果たす。

それから、もうずっと昔のことのように思えるのだが、ある女が、好んで示したしぐさを、だしぬけに思い出す。(中略)耳たぶを柔らかく咬む歯と唇、尖った舌の先が耳殻のなかで動くたびになまあたたかく溢れる唾液とを、唐突に思い出す。いわば、耳を濡らす唾液にまつわる物語――

彼女の声は初めて聞く声で、少ししゃがれていたし、病人をいたわるというよりは、しかたなく引き受けさせられてしまった役目上、義理で質問しているだけだ、といわんばかりの調子が感じられたのにもかかわらず、わたしの耳には快く響き、耳が乾いた唇と咽喉になって水を吸い込むようにしみとおり、渇いた咽喉が水を求める性急さで、わたしは彼女の声をもっと聴いていたいと欲した。(太字は引用者による)

前者の引用は、病に伏した語り手がまどろみの中で思い出す、過去の「女」との情事である。それに対して後者の引用は、「体操家」の義理の娘である「彼女」と初めて遭遇する場面である。一瞥して明らかなとおり、「わたし」は「彼女」の「声」を、かつての「女」との情事において「わたし」の耳を濡らした唾液と同一視しており、後者の場面は前者の場面(「耳を濡らす唾液にまつわる物語」)の反復として捉えられている。ここで注目すべきなのは、後者の場面の直後「彼女」が、「わたし」による「物語」化に、差異化の仕掛けとしての「水」を以て抵抗することである。

「何でもいい。それじゃあ、あなたの読んでるその本を、声を出して読んでください」「声を出して本を読むのは、あたし好きじゃないの。それよか、何か食べるか飲むかしたほうがいいと思うわ。」(太字は引用者による)

言うまでもなく前者のセリフは「わたし」のものであり、後者のセリフは「彼女」のものである。「わたし」は「女」の唾液と同一視される「彼女」の声を求めるが、「彼女」はその要請を一蹴し、代わりに「牛乳と果物とスープ」を与える。つまり「彼女」は、「わたし」にとって「唇と咽喉」であった「耳」を「声」によって潤す代わりに、「わたし」の「唇と咽喉」を「牛乳と果物とスープ」によって潤すのだ。このことによって、「彼女」と「わたし」の初遭遇は、「女」との情事(「耳を濡らす唾液にまつわる物語」)から差異化された。
「わたし」は接近の仕掛けとしての「水」によって、自らが置かれた状況を別の「物語」の反復にしてしまう。それに対して「彼女」は差異化の仕掛けでもって、「わたし」による物語化に対抗する。無論、差異化は「彼女」の同定不可能性に深くかかわっており、「わたし」が最後まで彼女の名前を知ることができないどころか、「彼女」を「無数にして唯一の彼女」や「まるで四方に開かれているような――彼女」としか捉えられないのは、差異化の力に依るのである。そして接近=類似(「わたし」)と差異化(「彼女」)との出会いは、ここまで見てきたような抵抗という形のみならず、幸福な調和という形を見せるときもある。その最もわかりやすい例が、「彼女」に触られたという事実と、このように触られたいという「わたし」の願望の入り混じった、以下の場面である。

けれど、自分の裸体を見られ、触れられたということについて、奇妙なことだが、まるで少女のような羞恥を感じながら、少女のように、同時に自分の裸身の与える誘惑的価値のことを考えてもいたのだ。(中略)男でも女でもないものとなって、けれど、あきらかに官能の支配する欲望の中で、わたしは彼女に触れるように見とれ、見とれるように触れたいと願い、(後略)

「男でも女でもないもの」となりながら「少女のよう」になるという事態は、まさに接近としての「~のようになること」と、差異化としての「~でなくなること」の調和である。この場面において「少女」とは、「わたし」が「男」でなくなるためのガイドである。「わたし」は「少女」になるのではなく、「少女」のようになることによって、つまり「少女」に接近しつつ「少女」になりきらないことによって、「男でも女でもないもの」になる。このような接近による差異化によって、「わたし」と「彼女」との企図は調和する。
しかし、「わたし」と「彼女」との調和は、「わたし」の「父」によって引き裂かれる。
「わたし」には元々、「やらなければならない仕事があった」。「交通安全体操」のキャンペーンの手伝いと、そのための「体操家」との打ち合わせである。しかし「体操家」の義理の娘である「彼女」は、「わたし」をそそのかして「やらなければならない仕事」を放棄させる。何かの「ために」何かをする、という単一の時間軸における因果関係を持った出来事の連鎖とは、それ自体物語的だからだ(注1)。しかし、「やらなければならない仕事」を放棄した直後、「わたし」は新しい「物語」として、死にかけた父のもとに「行かなければならない」という「物語」を呼び込んでしまう。死にかけた父のもとに「わたし」とともにむかう「彼女」は、ここにおいて「物語」に巻き込まれてしまったのだ。そのことによって「彼女」は差異化の力を失ってしまい、例えば情事は「奇妙な反復」や「何かあるものによって、そうすることを決められている」ものとなってしまう。そして「彼女」は、これ以上「物語」に巻き込まれることを嫌ってか「わたし」の前から姿を消してしまうのだ。
以上のことを踏まえれば、「父」が息も絶え絶えになりながら「わたし」に手渡した「リンゴ」が、カフカの『変身』においてグレーゴルが投げつけられた「再オイデュプス化」のリンゴにほかならないことも、すぐに了解されるだろう(注2)。すると、「父親がわたしに手渡したいと思っていたのは、本当にその赤い球体だったのだろうか」という「わたし」の疑問は正しく、父親の真の企図とは反復の物語であるエディプスの物語へと「わたし」を巻き込むことにあったことも、了解されるだろう。
しかし、「わたし」はエディプスの物語を受け継ぐことなく、「これはわたしの物語なのだから」という一言を以て、「くずれる水」をとじる。なぜ、「わたし」はエディプスの物語を受け継がなかったのか?
「彼女」が私を「物語」から差異化する際に用いたのが「水」であることに呼応してか、「わたし」は「彼女」との初遭遇において「桜並木の土手を、二人で手をつないで歩こうと心に決めた」。しかし、死にかけた父のもとに「行かなければならない」という「物語」にとらわれた瞬間、土手の運河は「虹色の被膜のガソリンの被膜を浮かべている黒い水」となり、そのためであろうか、父の家に入った「わたし」は「熱の匂い」に包み込まれ、「皮膚が鳥肌立つ」。これは「彼女」による差異化の際の描写――「肉体の輪郭を妙に厚ぼったい不透明で曖昧なものに変えながら」、つまり水に変えながら――と好対照をなしており、皮膚や輪郭がむしろ強調されてしまっている。油の浮いた運河と同じく、「わたし」は外部からやってくる、皮膚や輪郭を溶かす「水」を、はじく様になってしまったのだ。
「物語」を接近させる「水」をはじくようになった「わたし」は、もはやありとあらゆる物語を近づけなくなる。すると「わたしの物語」とは、あらゆる物語「ではない」物語としてのみ、つまり他との差異によってのみ語られる物語となるだろう。

 

 

(注1)ロラン・バルトは「物語」の力を、現実を「不可解でも不合理でも」ないものにすることにこそ求めた。(ロラン・バルト 1953 『零度のエクリチュール』石川美子訳、みすず書房、2008年)つまり、物語とは「単一の時間軸に沿った出来事の連鎖」を引き起こす「ので」のことなのだ。(いとうせいこう×奥泉光+渡部直己『小説の聖典 漫談で読む文学入門』、河出文庫、2012年)
(注2)「動物への変化のなかへのグレーゴルの非領域化は失敗する。彼はりんごを投げつけられることによって再オイデュプス化される。」(ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ 1975 『カフカ マイナー文学のために』、宇波彰、岩田行一訳、法政大学出版局、1978年)

文字数:4192

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