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熱狂の中の単独者

高校時代、たいして上手くもない歌でプロになろうと思いバンドを組んだ。ライブハウスで一回につき一万円ちょっとのノルマを払えばだれでもライブができ、かつそれなりに客が入る(とはいえ、大半は出演バンドのメンバーや関係者なのだが)ため、このままライブを続けていけばいつか新宿LOFTでライブができるようになり、そのままメジャーデビューできるだろうと漠然と思い込んでいた。結局高校三年生の時に教わっていた予備校講師の勧めに従って、メジャーデビューをあきらめ大学受験に集中することになり、バンドへの熱意はすっかり冷めてしまった。

しかし、本稿が論じるのは「メジャーデビューの夢をあきらめた」という挫折ではない。挫折と呼ぶならむしろ、たいした努力なしにメジャーデビューしようと思い、高校生からすれば決して安くもない金額をライブハウスに払い続け、そのうえ東日本大震災による定期テストの中止がなければ間違いなく落第していたほど成績を落としていた二年間のほうが、ずっとそれらしいだろう。よって本稿がまず論じるのは「なにが実力のない高校生バンドを勘違いさせるのか」という一般的な問題であり、かつそれなりに名の知れた中高一貫校に通う「お坊ちゃん」が「何故大学受験という『既定の』ルートから落伍しかけたのか」というパーソナルな問題である。

まず、高校生バンドの活動の中心であるライブについて考えることから始めよう。多くの観客はライブを「聴く」ためだけに、ライブハウスへと行くわけではない。そのような事実はX JAPANのライブにおいて、ドラマーのYOSHIKIが失神しライブが中止になることで、むしろX JAPANの価値が高まるという奇妙な構図や、ハイテクノロジースーサイドが自身のライブをしばしば「公開自殺」と名指し、演奏以上に過激なパフォーマンス(有刺鉄線を使った首吊り、数々の自傷行為など)において注目を集めていた事実からも、うかがい知れる。しばしば観客がバンドに求めるのは、しっかりと演奏し歌うことではなく、演奏し損ねてでもパフォーマンスによって観客を「盛り上げ」てみせることなのである。オーケストラのコンサートなど一部の例外を除いて、観客にとってライブとは「聴く」ことのみならず「盛り上げ」を求める鑑賞のモードである、と言っても問題はないだろう。

ライブにおける「聴く」ことと「盛り上がる」ことの、複雑な揺れをより如実に体現するのが、ファンによる「コール」があるアニメ・ゲーム系のイベントやアイドルのライブである。「コール」とは、演者が演奏する楽曲に対して観客が返す掛け声やクラップのことを指すのだが、ここで注目したいのは、「コール」を打つファンは演者の歌を驚くほど聴いていない(というより「コール」の音が大きすぎて聴こえない)という事実である。ここにおいてライブにおける「盛り上がり」と「聴く」ことは、二項対立として扱うことができるだろう。無論、観客がしっかりと「聴き」、そのうえで演者がしっかりと演奏し歌うことによって「盛り上がる」というように、「聴く」ことと「盛り上がる」ことを因果関係において結ぶことも可能である。しかしここで重視するのは、観客の聴き損ねや演者の演奏のやり損ね(この二つは、演者が十全な演奏をしなければ、観客が十全な演奏を聴くことができないという意味で、同一の出来事である)が「盛り上がり」につながってしまうという事態である。「聴く」ためには、「盛り上」がりすぎてはいけないし(「コール」に限らず、ライブハウスにおいてモッシュやダイブをする観客というのは、どれだけ演者の演奏を聴いているというのか)、「盛り上がる」には演奏を「聴く」ことに集中しすぎてはいけない。むしろ、演者が演奏や歌唱を乱してでも、観客を煽ったほうが盛り上がることもあるのだから。そして「聴く」/「盛り上がる」という二項対立の力関係を明らかにしてくれるのが、アニメ・ゲーム系のイベントやアイドルのライブにおける二つの逆説である。

一つ目の逆説。観客はしばしば、上演前に「あの曲を聴きたい」などと語り合っている。「コール」という(楽曲が聞こえなくなるほどの)「盛り上げ」のための鑑賞スタイルをとりながら、それでも楽曲を「聴く」ことを欲望するという逆説。無論、「あの曲のコールを打ちたいから、きてほしい」という語りもあるが、そうではなく純粋に「聴き」たいという欲望も存在するのだ。二つ目の逆説。バラードなど「コール」の入れられない曲において、観客が行う「捧げ」という行為。「捧げ」とは声を出す代わりに、円を描くようにしてサイリウムを上下に振る行為を指す。「捧げ」を行っている間、観客の鑑賞のモードは「盛り上げ」よりも「聴く」ことに傾いている。にもかかわらず、他の観客たちと同期する(盛り上がる)ために、他の観客たちと同じ動き(「捧げ」)をする。「聴く」ことに主眼を置きながら、静かに盛り上がって(同期して)みせる逆説的なしぐさ、それが「捧げ」である。そして、第一の逆説における欲望(「コール」をしつつ「聴き」たい)が不可能であるのに対し、第二の逆説における欲望(「聴き」つつ「盛り上」がりたい)は「捧げ」によって実現可能である、という事実から導き出されるのは、「聴く」/「盛り上がる」という二項対立が不均衡であり、明らかに「盛り上がる」ことが「聴く」ことに対して優勢である、という事実である。

まとめよう。ライブにおいて「聴く」ことと「盛り上がる」ことは不均衡な二項対立であり、明らかに「盛り上がる」ことのほうに重点が置かれている。先に述べたとおり両項を因果関係で結ぶこともできるが、そのためには「盛り上がる」ために「聴く」といった形で「聴く」ことを「盛り上がる」ことに奉仕させねばならないし、その逆(聴くために盛り上がる)は成立しえない。そしてライブにおける「盛り上がる」ことの専制こそ、高校生バンドを勘違いさせる要因であり、「お坊ちゃん」をして「この道でやっていける」と思わせ「既定」のルートから落伍させた要因である。簡単な話、「盛り上げる」ことは「聴かせる」ことより容易である。拙い演奏でも聴くに堪えないほどでなければ、ノリの良い楽曲で適度に観客を煽り、盛り上げることはできる。そういった形でそれなりの成功を積み上げた先にメジャーデビューなどあるわけがないが、「お坊ちゃん」をして勘違いさせるには、それで十分だったのである。

ここで問題とすべきなのは、「盛り上がり」の専制のもとでは演奏し損ねることやちゃんとした演奏ができないこと、また観客が「聴き」損ねることが等しく肯定されるという事態である。歌唱中に感極まって泣いてしまい歌えなくなるアイドルやパフォーマンスに腐心し演奏がおろそかになるバンド、「コール」やヘッドバンキング、モッシュのために演奏を聴き損ねてしまう観客は、「盛り上がる」ことに貢献する限り等しく肯定される。高校生バンドが特別すぐれているとすれば、彼らにまとわりつく「青春」というイメージと「盛り上がり」との相性の良さや、多くのバンドマンにまとわりつくリアル――生活苦など――を感じさせないがゆえに、「盛り上がり」の熱狂に水がさされないという点においてであろう。

しかし、観客としての私は「盛り上がり」にノれない人間であり、友人のライブにおいてすら常に棒立ちだった。「盛り上がり」のファシズムとも形容可能なライブハウスという空間、それはファシズムであるがゆえに、「盛り上がり」に奉仕する限りすべてを――演者や観客の「し損ね」のみならず、人種や性別までを――肯定するのだが、唯一「盛り上がり損ね」だけが肯定されない。ごく稀に「良識的な」観客は「各々の好きなように楽しめばよい」と言う。無論、「ノレない人間は後ろで楽しめばいいよ」という排除のための譲歩を加えて。よって本稿が最後に考察せねばならないのは、「盛り上がり」のファシズムに上手くノれないという決定的な「しくじり」に、どのような効用があったのか、である。

「盛り上がり」にノり損ねた、云わば単独者が見る景色は、観客とも演者とも違う。単独者だけが観客の熱気を感じつつ、演者の演奏を聴くことができる。そう、「聴く」/「盛り上がる」の二項対立は、単独者の中でのみ脱臼するのだ。たとえば評論家のように観客の外に身を置いてしまっては、「盛り上がり」を感じることができないし、観客にとって「盛り上がる」とはしばしば「聴き」損ねることになってしまう。観客の中にいてノり損ねる単独者だけが 、「盛り上がり」の熱気をその身に受けつつ「聴く」ことができる。このように単独者とは、ライブにおいて最もラディカルなスタイルなのだ。無論、このようなスタイルは確かな熱狂を感じつつ、けれどもノれなかったという「しくじり」からしか生まれない。意図的に単独者足らんとすれば、必ず観客や演者から距離を置いた評論家になってしまうだろう。

まず熱狂の中に身を置いてみること、ファシズムにのっかてみようとすること。そこから生まれた「しくじり」だけが、真にラディカルで、有り体に言ってしまえば「お得な」スタイルを生み出すのである。すると、人生における「しくじり」の効用も、何かにコミットしつつも失敗してしまった後「むしろ『しくじり』から何か新しいものが生まれたのでは」と考えて(開き直って)みせたときに、見つかるものなのだろう。よって本稿を人生論をもって締めるとすれば、「まず『ノれ』そして『しくじれ』ば、ラディカルになれ」である。

 

 

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