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現代の映像を規定する特徴の一つに、客体の優位がある。例えばtwitterで流れてきたある動画を見て「自分もこんな動画を作ってみたい」と思ったとき、スマートフォンの動画撮影・投稿機能は手軽にその欲望を満たしてくれるだろう。また安心や安全への欲望は、街中の監視カメラの数をより増やしていくだろう。誰もが映像を手軽に作り発信することができるという環境が、映像を作りたい/記録したいという欲望を加速させることによって映像を増殖させていくのだ。さらにどのような映像を作るのかという段においても、既に存在する映像や映像群が生み出すパターンの影響を否応なしに受けてしまうだろう。今日の映像の主役は、作者の創意ではなく環境(客体)なのだ。

では、映像における客体の優位とも言いうる状況の中で、それでもある映像に創造性を見出すとしたら一体どのようなやり方があるのだろうか。また映像の氾濫する環境においてある映像が「映画的なもの」と特権的に呼ばれうるための条件とは、一体何なのだろうか。

今日における映像の創造性を考えるうえで重要なのは「偶然性」と「n次創作」、そして「タグ付け」である。例えばニコニコ動画にはお世辞にもクオリティが高くないにもかかわらず、多くの再生数を稼いでいる動画が多数存在する。このような動画の多くは偶然注目を浴びることによって知名度を上げ、知名度に乗っかった多くのn次創作が生み出されることによりさらに知名度を上げ、そのためにさらにn次創作が増殖するというループ型の構造を持っている。とはいえヒット作というのは得てして「面白いから見る」、という理由が「みんなが見ているから見る」 に変換されることによって生まれるものであり、ループ型の構造(みんなが見ているから見る→より話題になり見る人が増える→みんなが見ているから見る)自体は決して珍しくもない。ここで問題とすべきなのは、ループ型の構造を生み出すものとしての「偶然性」と、ループをアシストするn次創作である。例えばツクダオリジナルが発売した「アメリカンバトルドーム」のCMは(CMとしてのクオリティは別として)娯楽としてのクオリティが決して高くないにもかかわらず、ニコニコ動画上で三十万回以上再生されている。このCMが注目されたきっかけが、偶然CMを基にしたMADが作られ、そのMADの方が注目を集めたためであったことを考えれば、現代において映像が注目を集めるための条件とは、偶然による祭り上げとn次創作が展開されることである、ということがわかるだろう。現にニコニコ動画においては、偶然作られたn次創作が注目を集めることによって元の動画がヒット作となるという事態が頻繁に起こっている。

さらにヒット作はしばしばn次創作や「タグ付け」によって、自身は何も変わらないまま自らのクオリティを上げることができる。どういうことか。「アメリカンバトルドーム」のCMのn次創作は、元のCMのある特徴を拡大する。さらにn次創作がいくつも生まれると、今まで意識されなかった新しいパターンが生まれる。例えば「アメリカンバトルドーム」のCMにおける「超!エキサイティン!!」というナレーターの言葉はそれだけでは何も面白くはないが、MADに用いられ(拡大)、かつその他の動画で反復されること(パターン化)によって、「笑いどころ」として登録される(タグとして登録される)。つまりn次創作によって生産される「笑いどころ」によって元のCMが面白く見えるようになるのだ。さらに「超!エキサイティン!!」というタグは、「アメリカンバトルドーム」のCMと全く関係のない動画にもつけられる。「タグによってCMと結び付けられた動画」で笑ったという経験は、「アメリカンバトルドームのCM的なもの」で笑ったという経験として記憶され、すでに作られた「笑いどころ」の面白さを強化し、場合によっては新たな「笑いどころ」を作り出すこともある。つまり現代のヒット作は作者の創意ではなく、自らを取り巻く環境の力によってクオリティを上げていくのだ。真に創造的なのは、作者ではなく環境なのである。

偶然によって知名度を上げた映像は、環境によって新しい面白さを付与される。であるならば、映像の出来やクオリティを理由に「映画的な」映像と「映画的でない」映像を峻別することはできないだろう。ではどのようにして「映画的なもの」はそうでないものと区別されるのか。

セルジュ・ダネーはジャン=リュック・ゴダールの『パート2』を、「もはや映画の独自性は、自らのために作られたのではない映像を迎え入れることにしかない」ということを明らかにしているとして評価した(「理論によるテロル」野崎歓訳、『現代思想』青土社、1995年、401頁)。ディジタルメディアの台頭によって映画が固有の支持体を持たなくなった現代において、映像の質や消費場所、固有の支持体などによって映画を定義することはできず、そのために「様々な映像を自らの場所に迎え入れることによって作品となったもの」という語り方でしか映画は定義されないのだろう。すると「映画的なもの」は、1、映画のために作られたのではない映像のバリエーションを含み2、作品(っぽいもの)として結実させた映像である、と定義することができる。言い換えるならば、氾濫する映像のバリエーションのどれか(いくつか)を作品として結実させたものが「映画的なもの」となり、「映画的でないもの」とは映画的なものになりうるが、いまはまだそうではない「潜‐映画的」なものとして理解できる。先に語った、環境によってクオリティを上げるヒット作の多くは「映画的でないもの」に分類される。

「映画的なもの」はいわゆる「映画」以外の映像をも含みうる。そのために「映画的なもの」の特徴は、しばしばいわゆる「映画」以外の映像にも顕著に現れる。具体的に見ていこう。ここで扱うのは2012年にニコニコ動画に投稿された「【比較】Here It Goes Again (full ver.)/第8回MMD杯【アイドルマスター】」(以下、「比較PV」と略記)である。この動画に用いられているのはOKGOというバンドの「Here It Goes Again」のPV(以下、「元PV」と略記)と、元PVをMMD(MikuMikuDance)と呼ばれるソフトを用いて、「アイドルマスター」というゲームのキャラクターたちに再現させた動画「【第8回MMD杯本戦】Here It Goes Again(full ver.)」(以下、「再現PV」と略記)との二つである。そもそも「元PV」自体が映画的で、定点カメラ(おそらくハンディカム)の前でOKGOのメンバーがルームランナーを利用したダンスを披露するという、ニコニコ動画の「踊ってみた」と呼ばれる動画群を彷彿とさせるような映像をPVとして作品化させている。「元PV」のみでも映像が氾濫する現代のリアリティ(ハンディカム撮影)や自己増殖する映像群への意識(「踊ってみた」的な動画作り)、またルームランナーを利用したアクロバット(3D映画などに顕著な、身体的情動を喚起するようなイメージ)といったいかにも現代の映像らしい要素を抽出することができるのだが、「比較PV」にはさらに「映画的なもの」がなしうる創造の一つの形が表れている。どういうことか。

通常「比較動画」と呼ばれるものは、元となった動画とその動画をMMDなどで再現した動画の二つを一つの画面上に並べ、再現度の高さを楽しむための動画である。しかし「比較PV」は「元PV」と「再現PV」の二つを一つの動画として混ぜ合わせてしまっている。つまり現実の身体が踊る「元PV」と虚構の身体が踊る「再現PV」の境目を、意図的になくしているのだ。

このような表現技法は様々な効果をもたらしている。虚構と現実の身体の同期はもちろん、男性(元PV)と女性(再現PV)が目まぐるしく入れ替わり、時には一人の人物の上半身が男性、下半身が女性となり、性別という枠組みを溶解させている。さらに生き生きとしたアクロバットを見せる現実の身体と、いわゆる「オタク」の情動に訴えかけやすいキャラクターの身体との共謀は「元PV」より強く視聴者の身体的情動を喚起するだろう。このような効果は、バックに流れるノリの良い音楽によっても強化されている。つまり「比較PV」にはそれ自体映画的な「元PV」と虚構である「再現PV」との共謀のみならず、PVであるという環境を利用した音楽との共謀まで見られるのだ。映像のバリエーション同士の共謀、そして映像と音楽の共謀という語りは、いうまでもなく「映画的」である。このような効果を総括し、「映画的なもの」による創造の可能性として「様々なヴァリエーションによるモンタージュ」を挙げることもできるであろう。そして「比較PV」が達成した創造の形とは、まさにモンタージュによって裏打ちされている。

「元PV」は定点カメラで撮影されているため、立体感のかけた映像になっている。逆に「再現PV」は本来平面であるキャラクターたちが立体的に描かれている。このような立体と平面の中間にあるとも言いうる二つの映像を激しく交差させる「比較PV」が際立たせるのは、スクリーンの平面性である。「元PV」と「再現PV」は混ざり合いながら、両者の間にはっきりと視認できる線を引いてしまう。そのことが動画の見せかけの立体性をはく奪し、映像を映し出す支持体であるスクリーンを際立たせてしまうのだ。すべての映像が固有の支持体を失い一元化しているからこそ、一元化するスクリーンという条件をモンタージュによって問い直す。このような試みにこそ、「映画的なもの」の創造性を見出すことができるだろう。

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