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ライトノベルの前衛たち

ライトノベルの草分けと呼ばれる新井素子のデビューから三十八年が経った。ライトノベルについての批評が盛んに行われていた2000年代と違い、現代においてライトノベルを語ることはもはや時代遅れの行為にも見えるだろう。それでもなおライトノベルについて語ろうとするのは、時代遅れになりつつあるライトノベルにあらたな創造の可能性をもたらしうる作品たちへの批評がまだ充分ではないと思われるからだ。それはいったい、どのような作品たちであろうか。

まず、いわゆるライトノベルの特徴を確認しよう。東浩紀は『ゲーム的リアリズムの誕生』において大塚英志の議論をもとに、ライトノベルの文体上の特徴を「まんが・アニメ的リアリズム」(この用語は大塚英志のものである)と呼び、またライトノベルが立脚する構造の特徴を「ゲーム的リアリズム」と呼んだ。「まんが・アニメ的リアリズム」とは、現実ではなくオタクらに共有された「お約束」や「萌え要素」を参照点としているために現実を映すことができない言語が、それでも現実を写し取ろうとしたために生まれてしまう捻じれたリアリズムである。たとえば「撲殺天使ドクロちゃん」において、ヒロインのドクロちゃんは主人公である草壁桜を何度も撲殺するが、そのような暴力への倫理的な糾弾はあまり行われない。それは読者にとってドクロちゃんの暴力が現実の暴力の反映ではなく、あくまで「お約束」としての、つまり虚構としての暴力であるからだ。それに対して「ゼロの使い魔」の12巻に含まれた性表現への読者の反応、たとえば「本当にこれは年齢制限なしでいいのでしょうか(アマゾン『ゼロの使い魔 12 妖精たちの休日』レビューより)といった反応は、この作品が虚構ではなく現実の性表現を描いているかのように思わせる。「まんが・アニメ的リアリズム」とは、虚構(お約束)しか描けないはずの言語がしばしば現実を描いてしまっているように見えてしまうために生まれるリアリズムなのだ。一方「ゲーム的リアリズム」とは、至極簡単に言えばキャラクターが常に二次創作の可能性(物語に描かれなかった別なる可能性)にさらされている状態を指す。

文学における昭和が現実を映しているように見える言語を用いて一つの物語の中に収まる(二次創作の可能性にほぼさらされていない)主人公を描いていた時代であったとすれば、文学における昭和以後とは「まんが・アニメ的リアリズム」の言語を用いて二次創作の可能性にさらされている主人公を描く時代であるように思われる。しかし「まんが・アニメ的リアリズム」とは字面の通りマンガ表現を源流としている。そして虚構でしかないはずのマンガ表現が現実と混同される事態は、現実を映す近代から昭和の文学言語が源流である。(東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』p. 95,p. 106)。つまり「まんが・アニメ的リアリズム」とは文学における昭和と地続きのものであり、文学におけるポスト昭和とは言い難い。このように現実以外の参照点を持ちながら文学における昭和から抜け出し切れていないライトノベルを、ポスト昭和へと跳躍させるのがライトノベルの前衛たちである。

ライトノベルには実験的な作品が多く存在する。たとえばぶらじま太郎『東京忍者』。この作品において語り手である作者は、主人公がなかなかヒロインを助けに来ないことに業を煮やし、自らが作品の中に入り込みヒロインを助け出す。また別の場面では、語り手は今から編集者と麻雀をやるといって語りを放棄する。このようなメタフィクション性の高さは、語る「私」と「キャラとしての私」が容易に分裂するライトノベルの一人称を下支えとする。また清水良英『激突カンフーファイター』においては、おびただしいほどのギャグが物語の間に挟まれているため物語がなかなか進まない。文学における昭和において物語の進行を阻害する最も大きな障害は描写であったが、ライトノベルにおいてはまた別様のアンチ物語の実践が可能になっているのだ。しかし、このような実験はすべて文学における昭和と地続きであることも否めない。前者の実験は筒井康隆と比較可能であるし、後者は金井美恵子や大江健三郎らと比較可能である。では、どのような実験を真にポスト昭和の文学と呼びうるのだろうか。一つの例を示してくれるのが、仙田☨学『ツルツルちゃん』である。この作品は主人公である「おれ」こと円山映一と、「おれ」の幼馴染である先斗町未来、未来の親友である兎実ふらの三人を中心として展開される。作者によるあとがきにもあるとおり、この作品の主題は言葉の伝わらなさや人間の分かり合えなさといった普遍的なテーマにあるということができるだろう。「おれ」はしばしば未来やふらの知らない一面に戸惑うし、作品内に誰が誰に恋愛感情を持っているのかがはっきりと書かれていないため、読者はしばしばキャラの行為の意味が理解できない(例えば、ふゆが未来にキスをしたシーン)。このような主題設定のために『ツルツルちゃん』はわかりにくく奇妙な作品のように見える。しかし真にこの作品を奇妙な外見に仕立て上げライトノベルの前衛たらしめている要素とは、「お約束」のリセットである。どういうことか。例えば未来が「そのへんに停めてあった車のボンネット」に飛び乗ったところ、その車の持ち主(やくざのような風体の男)が現れ、「なんじゃいワレら!」と恫喝し、やくざのような男との追いかけっこが始まる。また直後のシーンでは「おれ」は故意ではなしに未来のお尻を触ってしまう。これらのシーンは、いわゆる「お約束」であり、前者はコメディシーン特有の緊張感のなさが、後者はいわゆる「ラッキースケベ」が描かれている。また「おれ」が置かれている状況(校内トップの美少女二人と親友)はいわゆる「ハーレムもの」に近く、このような設定だけで読者はしばしばその後の展開が予測できてしまう。このように『ツルツルちゃん』は多くのライトノベルと同様、「お約束」に基づいた「まんが・アニメ的リアリズム」に属している。

『ツルツルちゃん』の設定がハーレムものに近くその後の展開が予測できるというのは、決して無根拠な話ではない。「おれ」はときおりふゆに気があるかのようなそぶりを見せるし、また「おなじクラスの女子とふたり、薄暗い密室に肩を寄せ合って座り、メイドカフェのホームページを見ながらひそひそ話をしていただけだ。そのようすを発見しただけで、幼なじみの女がなぜああも怒り狂うのか、おれには皆目見当もつかなかった。」と語る「おれ」は、あきらかにハーレムものに典型的な主人公、つまりヒロインの好意になかなか気づかない朴念仁のようにふるまっている。しかし「お約束」が意識されながら、「おれ」は誰からも明らかな好意を向けられない。それどころか、恋愛といいうるものすらふらと見知らぬ男の間と、ふらと未来の間にしかあらわれない。なぜ、『ツルツルちゃん』において「お約束」は意識されながらしばしば完遂されないのか。それは、「お約束」=外部から与えられたルールを意識しつつリセットするプログラムが、『ツルツルちゃん』のなかに含まれているからだ。

ルールのリセットは様々なレベルで行われる。例えば「おれ」は第四章に至るまで未来の言うことを一切疑わず、「信じることしかできない」。なぜならば過去に一度、未来の言うことを聞いたために命を救われたという奇跡を体験しているからだ。未来はしばしば「おれ」の行動の根拠=ルールとなっているのだ。一度の奇跡のためにルールとなった未来(これはどこか神じみている)は、その後四章を境に「おれ」によって疑われ、その地位をふらに取って代わられる。新しくルールとなったふらが学園のアイドル(偶像)のような存在となっているのは、決して偶然ではないだろう。そして最も鮮やかなリセットが、人物描写による言語のリセットである。『ツルツルちゃん』には未来やふらの立ち絵が要所要所に挿入されているにもかかわらず、しばしば長い人物描写が入り込む。それもほぼ一章に一回以上のペースでふらや未来の人物描写が、似たような語彙を反復することによって行われる。このような描写は明らかに何かを写し取ることを目的としていないし、「お約束」の確認(例えば「文学少女のよう」という人物描写は、そのキャラクターが「文学少女」というお約束に従っていることを確認することを目的とする)としても機能していない。人物描写においては、「まんが・アニメ的リアリズム」の言語が無意味化されリセットされているのだ。そしてリセットされた言葉たち、たとえばふらの特徴である「三日月形の目」といった言葉は、第五章以前と以後においてのふらの変わらなさと、変わらないがゆえに際立つ「おれ」のふらへの評価の変化を際立たせるという、また違う機能を持つようになる。言語のリセットは、言語の再セットアップと同義なのだ。

以上のように『ツルツルちゃん』においては、「まんが・アニメ的なリアリズム」の「お約束」や言語のリセットが行われ、時には新しいルールが機能し始める。ポスト昭和の文学とは、このような自らに課せられた条件をリセットし、また別様のルールをセットアップするという実践にこそ、見出されるだろう。そして虚構に過ぎないライトノベルやマンガの表現にこそリアリティを感じてしまう現代において、それらのルールをリセットする実践は、リアリティを刷新する実践でもあるだろう。

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