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社会は遍在する――引き裂かれた言説回路と10年代文学

1、社会は遍在する、あるいはセカイの後先

どうやら、これまで社会問題や政治的葛藤に目もくれなかった書き手が、震災や原発事故といった、重大な問題であることだけはわかりやすい社会問題が現れた瞬間、手のひらを返したように社会派を気取ってしまうという軽薄な身振りとは違うらしい。また、現実の諸問題を反映することが困難になってしまった多くの創作媒体たち――文学、映画、美術に限らず、漫画やアニメなども含む――が再び現実とつながるための、新しい回路が生まれたというわけでもないらしい。かといって、時代の例外として名指すにはあまりにも時代性を帯びすぎている対象について、どのように考えればよいのだろうか。このような問いを投げかけるのは、震災や原発事故を扱った作品の中でもひときわ異彩を放つ作品である『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』(2014~、以下『デッド』と表記)の持つ「奇妙さ」に、現実と想像力の問題を考えるうえで重要な、ある現代的な逆説が胚胎していると思われるためである。

『デッド』の作者である浅野いにおは、主に『ソラニン』(2005~2006、2010年に宮崎あおい・高良健吾主演で実写映画化)や『うみべの女の子』(2009~2013)などの青春群像劇の書き手として知られているが、近作『おやすみプンプン』(2007~2013)など、個人の離人症的な自意識と、家族・友人・教室といった狭い共同体との関係を描いた作品によっても高い評価を得ている。全体として、彼の作風は「サブカル」的であり、自意識とそれを取り巻くコミュニティの変わらなさ(変わりたくなさ)と、いやがおうにも流れて行ってしまう時間とのチグハグさに主眼を置いた作品が多いのも特徴だ。本論が扱う『デッド』も、大枠としては彼の過去作品とあまりかわらない。詳しく見ていこう。

「3年前の8月31日。突如、『侵略者』の巨大な『母艦』が東京へ舞い降り、この世界は終わりを迎えるかにみえた―― その後、絶望は日常へと溶け込んでゆき、大きな円盤が空に浮かぶ世界は変わらず廻り続ける。小山門出、中川凰蘭。ふたりの少女は、終わらなかった世界で、今日も思春期を過ごす!」(注1)というのが『デッド』のあらすじである。むろん、東京の空に浮かび続ける『侵略者』の『母艦』というアイコンは、明らかに原発と領土問題のハイブリッドな表象として機能している――つまり、それについて誰もがよく知らないがゆえに、過度に危険なものとして認識してしまうか、ほぼ無害なものとして忘却してしまうかという相異なる二つの反応を引き起こしてしまう原発の特徴と、どうすれば解決できるのかがわからないがゆえに、武装か話し合いの継続かという相異なる二つの解決策に割れてしまう領土問題の特徴とが重ねあわされた表象として『母艦』が機能している――と言えるし、この作品の主眼が、これらの社会問題が日常の次元にどのような影を落としているのかを描くことにあるのも明らかである。また、社会が『侵略者』の『母艦』(原発や領土問題)の恐怖に敏感でありすぎるかそうでないかの二つで分断されていて、両者の間を架橋するロジックがない(つまり、『侵略者』におびえる者たちはおびえる者たちの間でだけ通じるロジックに自閉し、そうでない人々も、それぞれあるロジックに固着し自閉してしまっているという状態。平たく言えば、立場が違えば話が全く通じなくなるという状態)という現状認識は、ある程度正確であるように思われる。とはいえここで注目すべきなのは、震災や原発事故、あるいは領土問題や日米の安全保障問題など数多くの社会問題を取り入れた『デッド』を下支えするガジェットが、通常なら現実の問題を描かないために用いられるものである、という点である。どういうことか。

先に引用したあらすじが示す通り、『デッド』の作品世界とは「世界の終わり」が「日常」の次元に溶け込んでしまった世界である。そのことは、物語を回想する小山門出が第24話において、変わらない日常の先に「8・32」と呼ばれるカタストロフが待ち受けていることを明示していることからもうかがえる。そして「世界の終わり」と「日常」という組み合わせは、2000年代前半に話題となった「セカイ系」というタームを想起させる。1990年代前半のバブル崩壊や1995年の阪神・淡路大震災、ないし地下鉄サリン事件をきっかけに、ことさらアクチュアルな問題となった「大きな物語の喪失」――誰もが信じうる価値観やイデオロギー、あるいは「これについて語れば、時代精神について語ったことになる」といいうる対象の喪失――を背景にして現れたセカイ系の特徴を要約すれば、「主人公と(たいていの場合は)その恋愛相手とのあいだの小さな人間関係を、社会や国家のような中間項の描写を挟むことなく、『世界の危機』『この世の終わり』といった大きな問題に直結させる想像力」(東浩紀『セカイからもっと近くに』、2013)となる。いささか意地の悪い言い方をすれば、セカイ系とは世界の全体像どころか自らが所属する社会の全体像すら把握できないという状態において、それでも世界の中に自分の居場所を定位したいという願望がもたらした、自意識の投影としての「世界=セカイ」へのフェティッシュな愛着でもあるのだが、『デッド』はこの「セカイ系」という想像力を借り受けつつ社会を描いている点において、いくらか奇妙である。

奇妙な点はもう一つある。主人公である小山門出と中川凰蘭は自称「ゲーム脳」であり、作品内において頻繁にFPSをプレイする姿が描かれる。そしてそのような彼女たちの生の在り方は、東浩紀が「ポストモダンの解離的な生」と呼んだものと、ぴったりと重なるのだ。詳述は避けるが、「ポストモダンの解離的な生」とは、だれもが利用できるインフラの上に、様々なコミュニティー=イデオロギーが林立している時代の生の在り方を指し、イメージとしては、twitter(インフラ)の中にさまざまなクラスタ(イデオロギーによって結びついたコミュニティ)があって、ある特定のクラスタであることを強制されることなく、誰もがクラスタ間を自由に渡り歩けるような状態を指す。そのような生の在り方を、この場では過剰相対化による「メタ的な生」と呼ぶことにしよう。ありとあらゆるイデオロギーにノることができない、どこかシラけた生のモードとしての「メタ的な生」。そのような生を描くことは、社会を全体として認識することの困難を描くことと同義である。

では、社会を描くことの困難を引き受けた「セカイ系」的日常の中に、『デッド』はいかにして社会を持ち込むのか。そのためのツールが、テレビやパソコン、ラジオなどの情報メディアであり、そのなかでも特に重要なのが、作中に幾度も描かれるスマートフォンとtwitterの存在である。社会問題は、ほぼすべて情報メディアを介して門出と凰蘭の日常に入り込み、それに対して彼女たちは驚くほどの無関心を示すか、せいぜい野次馬根性を示すかにとどまっている。それでも、そのようにして日常の中にもたらされた「社会についての情報=ニュース」は、ネタ的なメタ・コミュニケーション(コミュニケーションをとっているという事実性のみが重要なコミュニケーション)のための消費財として活用される。ニュースのネタ(メタ)化。あるいは、ニュースがメタ・コミュニケーションのための消費財となること。これこそがまさに、セカイ系的日常と社会とを繋ぐものであるのだが、そのことについて論じる前に一つ補助線を引こう。

「インターネットのメディア的な特異性とは、いわば『メタ・メディア』としてのそれであり、ネット上でのコミュニケーションとは、一種の『メタ・コミュニケーション』である。それは絶えざる『先読み』の連鎖と交錯、『ネタ』と『マジ』の区別が(本人自身でさえも)付けられなくなるほどの『パフォーマンス』の加速と過剰、それらのフィードバック・ループから成り立っている。そのような『メタ』な感覚は、やがて程なくオフラインへと漏れ出してゆくことにもなった」(佐々木敦『あなたは今この文章を読んでいる。』、2014)。ここで論じられている「メタ・コミュニケーション」とは、たとえば「右から左へと流されやすい烏合の衆め!!まさに衆愚の極み!!さっさと滅してちょんまげ!!」「さ~すが凰蘭ちゃん、今日も中二病お疲れ様でーす!!」(第一巻 pp. 180,181)などの、ネタ的なセリフが空転していき、ただ言葉数だけが増長していくような無意味な会話や、アニメやネットスラングを多用した定型的な会話などを指す。そして『デッド』における会話文のほとんどは、そのようなメタ・コミュニケーションによって占められている。

佐々木敦の指摘するオフライン(現実)におけるメタ・コミュニケーションの一般化は、2,000年代前半のメタ・フィクションブームを説明するために持ち出された議論であるが、2000年代後半のtwitter誕生を契機に、事態はより加速したといえるだろう。そしていうまでもないことではあるが、twitterとニュースとは深くつながっている。メタ・コミュニケーションの空間であるtwitterのタイムラインには常にニュースがあふれ、かつiPhone向けのtwitter公式アプリは、ニュースサイトに容易にアクセスし、そのニュースを素早くフォロワーと共有できるようカスタマイズされている。そして当のニュースサイトのほうでも、ニュースの良し/悪し(場合によっては善し/悪しまで)を判断する基準として、twitterでどれだけ拡散されたのかが参照される。すると、出版不況を根拠とした「若者の活字離れ」というクリュセにしても、選挙の投票率の低さを根拠とした「若者の政治離れ」というクリュセにしても、twitterによってほぼ一日中活字とニュースに触れている人間が増えている現代において、何ら意味を持つものではありえないだろう。インターネットによって、あるいはかつてないほど手軽で身近なメディアであるスマートフォンとtwitterによって、現代の日常には活字と活字化されたニュースがあふれている。そしてスマートフォンやtwitterがニュースを氾濫させるツールとして機能しうるようになった原因の一端に、東日本大震災はかかわっている。

東日本大震災が発生した際、電話やメールがつながらないなか、twitterによって友人や家族の安否を確認することができたという事態はよく知られているが、それ以上に震災の被害についての情報が、正確さを企図したTVよりも早く拡散されていたという事態を見逃すわけにはいかない。選挙特番において当選確実を報じる速さをテレビ局同士が競っていることからも明らかなように、ニュースの価値とは正確さよりも速報性にこそあるといえるが、新聞よりも速いメディアとして現れたTVよりも、twitterのほうがより速報性が高い。まさに震災が明らかにしたのは、広く人口に膾炙しており、かつ今現在もっとも速いメディアであるtwitterとニュースとの相性の良さであったのだ。そしておそらく、2015年に世界各地で起こった大規模なデモと、twitterによるニュースの氾濫ないしニュースの日常化には何らかの関係があるように思われるが、詳述は避けよう。とにもかくにも、3.11後の日常を描くということはすなわち、かつてないほど膨大な量のニュース(社会についての情報)に囲まれた生を描くことと同義であり、日常と社会はもはや単純な二項対立によって区切れるものではなくなっているのだ。

すると『デッド』が描き上げたのは、メタ的な生を生きるポストモダン的主体たちの、もっとも社会問題や政治的葛藤とは遠いはずの何気ない日常にすら、メタ・コミュニケーションの消費財としてのニュースを通して、社会問題や政治が入り込んでしまっているという、震災以後の現実であることになる(注2)。だが『デッド』が描き上げたのは、そのような現実の様態だけではない。作品の射程は、震災後の言葉の問題にまで延びている。詳しく見ていこう。

冗長な会話文があふれかえる『デッド』において、言葉は徹底的に無力なものとして描かれている。たとえば、親子げんかによって傷ついた門出を慰めるさいに凰蘭は一言も言葉を発することはなかった(第一巻pp.82~84)し、小比類巻と破局し、悲しみに暮れているキホを慰める手段も、言葉なしの抱擁やおちゃらけた行動であった(第二巻pp. 52~54)。さらに『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』というタイトルがそれ自体無意味であるうえに、扉絵や冒頭部の景色にタイポグラフィとして刻印され、言葉よりもグラフィカルなオブジェとしての側面がしばしば強調されていることからも、『デッド』における言葉の無意味さ・無力さがうかがい知れる。ちなみに、この作品のもっとも有名なセリフである「ゆうべは荻野首相の定例会見があったから、右だの左だの意識の高い一般人様のご高説で今日一日SNSが荒れる。そこで俺は猫の金玉画像を大量投下するわけだ……さすれば奴らは気がつくだろう。右も左も関係ない。社会とは二つで一つの金玉なんだよって…」(第二巻p. 7)は、先述した社会の分断――右翼(作中では「タコ」と呼ばれる)と左翼(作中では「イカ」と呼ばれる)の間を架橋する言語がないこと――を埋めるためのツールとして、言葉ではなく画像を用いているという点でもって、言葉の無力さの例として数え上げることができるかもしれない。以上の例に加えて、第一話の最初の会話文が「おんたん…そのハンドル乗りづらくないの?」「あのさっ!!きのうネットで見たんだけどさッ!!」というすれ違いであったことを指摘しておけば、事態の深刻さが見て取れるだろう。つまり『デッド』において言葉は、友人を慰めるための道具として機能しえないどころか、気の置けない人間同士の何気ないやり取りにおいてすら機能不全をきたしてしまうものなのであり、言葉が十全に機能するのは、唯一メタ・コミュニケーションの場においてのみなのである。

1’、政治は遍在する

この先の議論を明確化するため、ここまでの内容を定式化しておこう。

社会の描写を欠くセカイ系の特徴は、しばしば「想像界と現実界が短絡し、象徴界の描写を欠く」という言葉によって定式化される。この場合の「象徴界」とは「社会の公共的な約束事や常識」を指し、「想像界」とは「恋人や家族など親密圏内部での幻想の世界」を、「現実界」とは「そういう常識も夢もともに壊すリアルなもの」を指す(東前掲書)。これらの概念を用いて『デッド』を公式化すれば、「想像界と現実界の短絡回路に、象徴界が接続された」(象徴界の接続)となる。ここで注意しなければならないのは、本来想像界・現実界・象徴界はボロメオ結びによってつながっているのであり、たがいに絡みあってはいないということである。平たく言えば、想像界・現実界・象徴界は決してまじりあうことはなく、互いに関係しあいながらも別のものであり続けているということなのだが、『デッド』においては、その三つが混然一体となってしまっている。その結果、なにがおこるのか。想像界と現実界の短絡においては、内面がすなわちセカイとなった(私的領域の公化)。対して、「象徴界の接続」によって起こるのは、公的領域の私化である。どういうことか。政治的な立場がそのままアイデンティティとなり、言葉が親密圏の結束を確認するためだけの道具となり果てる世界。社会や政治が親密圏(友)と他者(敵)の二項対立を絶えず生産し、その間を架橋するものが存在しない世界。それが公的領域が私化した世界である。

ここで一つ、補助線を入れよう。蓮實重彦は『反=日本語論』(1977)において、「言葉の政治性」という概念を提唱した。たとえば「犬」という言葉は、当然「犬という概念」や「現実にいる犬」を表象=代行している。それと同時に、「犬」という言葉を選択する際には、「あの四足」とか「あのふわっとしたやつ」とか、「犬」という言葉の代わりに発しえた無数の言葉を切り捨てる作業が行われる。その血なまぐささを隠ぺいするために、「犬」という言葉は「あの四足」などの言葉を代表(=表象)しているのだ、というロジックが作られる。このロジックは民主主義と同形の構造を持っており、言葉は本性からして政治的である、というのが「言葉の政治性」である。対して「象徴界の接続」は、言葉に別種の政治性をもたらす。すなわち、言葉が十全に機能してしまうことが、党派性の証となるということである。もし誰かの発した言葉の意味をあなたが十全に理解できてしまったとしたら、または何かしらの目的を達成しようとして発せられた言葉によって、あなたがその目的を十全に達成してしまったとしたら。そこには、党派性の萌芽が胚胎しているのだ。

むろんこれは原理上の問題であるし、そもそも『デッド』という作品を分析することによって導かれた理路であるため、必ずしもわれわれが生きる現実にそのまま適応しうるものではないだろう。よって震災以後の言葉の問題についてより深く考察するために、ここで文学に目を転じることにしよう。

2、自動詞化と盗むこと――仙田学『盗まれた遺書』について

あるいは、単なる偶然として処理しうることなのかもしれない。ある時代の、ある二人の書き手が、よく似た構成でもって、近しい問題を主題とした作品を書き上げたという事態は、文学史を見ればありふれていることだろう。のみならず、佐々木敦が『ニッポンの文学』(2016)で指摘した通り、1995年以降、純文学は日本文化の全体を描く(仮構する)メディアとしての役目を終えてしまったのだから(「サブカル化」)、純文学のなかであるテーマなり技法なりがどれほどトレンド化していたとしても、そのトレンドをもって時代精神を論じることはできないだろう。とはいえ、その二人の作家のある作品が、震災以後の言葉の問題を扱った『デッド』の導線上にあるとしたならば?そこから2010年代の日本文学を考えるうえでアクチュアルな問題を、いくつか取り出すことができるかもしれない。仙田学「盗まれた遺書」(2013)と福永信「未来を生きる君へのダイイングメッセージ」(2015)について、詳細に見ていくことにしよう。

「盗まれた遺書」は奇妙な小説である。というのも、冒頭や結末部で示されるとおり、読者が読んでいる文章とは、みつるの書いた遺書を今まさにリアルタイムで書き換えている松彦の文章であるというのだから。つまり、設定上読者が読んでいる文章は、今まさに松彦が書き付けた文章であって、しかもその文章には元ネタがあるという。そのことを強調して、「読者が読むことによって生成する小説」だとか「書くことと読むことの一致」だとか、文芸批評の世界における紋切型を書き付けることは無意味ではないだろうし、実際そのとおりであるようにも思う。とはいえ、そのような解釈や批評をしてしまう読者とは、はたしてその文章を読んでいるといえるのだろうか。もしかしたら、紋切型によってそのように読まされているに過ぎないのではないか…このような不毛にも見える問を発するのは、この小説の主題が「盗む」ことであり、かつ「読むこと」と「書くこと」という小説にとって最も原理的である行為まで、その主題の射程内に入っているからだ。

松彦がリアルタイムで書き付ける文章(物語)は、みつるのものとは別の、一通の「遺書」を中心として展開される。まず、奈緒がみつるの万引きを撮影したことをきっかけに、彼女はみつるに盗撮の共犯者となるよう強制する。それと同時に、彼女は偶然手に入れた何語で書かれているのかもわからない(のちにアフリカーンス語であることが判明する)遺書を解読するようみつるに迫る。その遺書に書き付けられた「シマザキミユキ」という名前と、見覚えのある地名や固有名の拾い読みによって、みつるはみゆきの働く喫茶店の所在地を割り出し、みゆきと接触することに成功する。その後のみつるはみゆきの私物を盗んで部屋に溜め込んだり、かと思えば万引き癖が収まったり再発したりと、「盗む」ことをめぐる紆余曲折を歩むことになるのだが、詳述は避ける。そのかわりここではまず、「書くこと」と「読むこと」がいかにして「盗む」ことにつながるのかを見ていこう。

先述したとおり、リアルタイムで文章を書き換える松彦の位相(以後は便宜的に「テクストのメタレベル」と呼ぶ)においては、「書くこと=書き換えること」がおこなわれており、松彦によって書きつけられる物語内容の位相(以後は便宜的に「テクストのベタレベル」と呼ぶ)においては、みつるによる「英語っぽい単語のあいだを妄想で埋めてるだけ」の遺書解読が行われる。このようなみつるの遺書読解は、文章を「読むこと」一般に敷衍することも可能だろう。なぜなら、ある文章をすべて読み切ることなどできない(読み返すたびに新しい意味や言葉と言葉の関連に気づいたりするし、そもそも人間の記憶力には限界がある)のは自明であり、にもかかわらずそれらしい解釈をすることによって文章を「読解」するというのは、テクストを拾い読みし、その拾った要素を妄想で埋める作業であると同時に、テクストそのものを書き換えてしまう作業でもあるからである。このことから再び「書くことと読むことの一致」という手あかのついた結論を導き出すこともできるだろう。

「手あかが付いている」という感覚は、過去に同じことが繰り返し行われているという事実性に担保されている。いささか敷衍すれば、「書くことと読むことの一致」という読み方が、「文芸批評」や「解釈」というジャンルの中に数多くアーカイブされていることによるだろう。さらに敷衍しよう。「遺書」を「遺書」として書くということは、つまり「遺書」らしい書き方(エクリチュール)なり状況なりで書くことを指し、その「らしさ」はかつて書かれた無数の「遺書」によって決定されている。無論、何が遺書らしいエクリチュールなのかは、それ自体として確定されているわけではない。しかし、「遺書らしさ」という不透明な実態だけが、遺書を書くうえで重荷のようにのしかかってくる。しかし、「盗まれた遺書」において顕著なのは、むしろ「らしさ」が脱臼していくことである。

 

みつるに頼まれたとおり、僕は遺書の内容のうちお姉さんに必要な部分だけを選んで並べなおし、知らないだろう事実をおぎなって、すべてを書き換えているところです。書き換えたこの遺書は、後でうちのアパートの郵便受けに入れておきます。(後略)/この遺書を、おそらくみつるは書き換えてしまうはずです。/(前略)ただ、ぼく自身が伝えたいことにまでは、踏みこんでこないことを願うばかりです。(以後、引用中の/はすべて改行を指す)

 

松彦は、みつるの遺書を書き換えることによって何かを伝えようとしているらしい。すると郵便受けに入れられる松彦の文章は、幾分か「手紙」じみている。しかし松彦は自らの文章を指して「この遺書」と呼んでいる。だが何よりも不可解なのは、みつるによって書き換えられてしまうことを承知で、松彦が書き始めているということだ。無論、この事態に誤読されること=書き換えられてしまうことを承知で文章を書く、という作家のテーマを見出すのもよいかもしれないが、事態はむしろ、「らしさ」を拒む身振りとしての一面が顕著である。どういうことか。

松彦における「書くこと」とよく似た事態が、みつるにおける「万引き」においても起こっている。はじめみつるは「聖書」を盗むことによって生活を豊かにしていた。特に理由もなく聖書を盗み、それをため込むことによって、みつるの欲望は満たされていたのだ。しかし、みつるは盗んだ聖書を生活のために売ってしまう。すると、みつるは急に「売ったことへの後悔」によって苦しみ始める。その苦しみを埋めるかのように、「食事や排泄や睡眠に喜びを与えてくれたのは、聖書を盗む行為そのものではなく、盗んだ聖書を手もとに置いておくことだったのだ。そしてそれは、聖書である必要すらないのかもしれない。」と語り、「万引き」らしくない「万引き」を始めるようになる(「商店街を歩き散らして、あちこちの店からすこしずつ商品をせしめ、家をでるときには空だったバッグがいっぱいになるたびに荷物を置きに帰るのです。」)。そのようにして部屋の中を万引きした品物でいっぱいにしたみつるは、「それらを支えるためだけのものをまた万引きに」行くようになり、ついには「盗むためにまた盗む生活をつづけて」いくことになる。

さらによく似た事態は、奈緒における「盗撮」にも起こっている。奈緒は「撮りたくて撮っているわけではこれっぽちもない。繁華街で隠し撮りをした女の画像を、高額の会費を払った会員しか閲覧できないサイトに売って、フリーカメラマンとしてだけでは足りないぶんの収入をおぎなっている。そんな説明は、だが奈緒が撮っていることと何のかかわりもない気がした」。松彦の「書くこと」、みつるの「万引き」、奈緒の「盗撮」に共通しているのは、行為の自動詞化、つまり自己目的化である。

行為の自動詞化については、テクストのベタレベルにおける(つまり、書くことではなく盗むことをやっている)松彦がもっともわかりやすい例として挙げられる。松彦は「テン・サウザント・タイムズ・ピッカー」という、「盗みたいという以外の何の動機もなく万引きをする者」が「霊的に高い段階にいる存在と目される」サークルを主催している。ここで注目しなければならないのが、松彦の人物描写である。

 

男の口もとから鼻を遠ざけてみても、饐えたようなにおいはいっこうに弱まりません。どうやら口臭ではなく、もう長いあいだ洗っていないらしい、服から立ち上るにおいのようでした。

 

さきほどは顔を背けたほどだったにおいが、鼻になじんでしまった、というよりはじめから自分のものだったような気がしはじめる

 

松彦の空っぽの財布を拾ったみつるは、しばらく止めていた万引きをやってしまい、かつ、松彦の服に染みついた臭いを「自分のもの」として引き受けることによって、松彦に感化されたかのように、万引き癖が再発してしまう。ではなぜ、万引き癖は再発してしまったのか?それは、行為の自己目的化と「ため込む」ことが結びついているからである。みつるが盗むために盗んでいたのは、万引きした品物をため込んだ時だった。また、みつるがみゆきの衣服を盗んでいた時、彼はみゆきの衣服をため込んでいて、みゆきが盗まれた衣類をすべて捨て去った時、みつるはみゆきの服を一時的に盗まなくなった。つまり、「盗まれた遺書」というテクストにおいては、(因果関係があろうとなかろうと)何かを行う→その行動によって、何かがため込まれる→ため込まれた量が閾値を超えると、欲望が独り歩きし、当初の因果関係から切断された自己目的化が起こる、という法則がある。現にメタレベルにおける松彦も、当初は何かを伝えようとして書き換えていた遺書の結末部に「遺書を読みこめば読みこむほど、自分のもとに届いたことが当然のように思えてならなくなってくる。まるで自分がいつか書いたもののようだった。だから、いつしか書き換えていた。書き換えても書き換えても、うまく書き換え終わることができない」と記し、挙句の果てには「まったく身におぼえのない過去をあたらしく書いていく」ようになる。これは明らかに書くことの自動詞化であるし、「読むこと=みつるの文章を記憶にため込む」ことによって、欲望の独り歩きが起こっている。このような状況は、もはや書いているというよりも、ため込まれた「アーカイブ」によって書かされていると表現したほうが正確であろう。

無論書くことの自動詞化はエクリチュールの問題でもある。書くために書くということは、「~として」書くのでも「~のために」書くのでもない、なにものでもない透明なエクリチュールによってなされる。「遺書として書く」という理由から切り離され自己目的化した彼の文章は、まさに「~らしさ」からずれることによって、バルト的な意味での「零度」を生産するのである。では、「~らしさ」から逃れることによって、いったい何が起こるのか?そのことを考えるために、ここで「盗まれた遺書」における特殊な文体に注目しよう。

ロラン・バルトは『零度のエクリチュール』(1953)において、文体を個人的なものであり、かつ生物学的な身体などの特徴によって規定されるもの(個人の意思によって変えることのできないもの)だと定義した。しかし仙田学の文体は決して統一されておらず、その奇妙かつブレの激しい文体は、批評家の渡部直己をして「性別不明」とまで言わしめた。なぜ、仙田の文体はブレるのか?当然理由は複数ある。もっとも単純なのは、語りの最中に視点人物がたびたび入れ替わることによるものだ。語り手が変われば、必ず語りの文体が変わる。だがそれにしても、今この瞬間に松彦が書き付けている文章の語り手がたびたび入れ替わるとは、あまりにも奇妙な事態ではないだろうか。すでに複数の視点による語りが入っているみつるの遺書を書き換える松彦は、みつるの文章を書き換えているというよりも、複数の語り手の語りを書き換えているといったほうが正しいのではないか。いや、それでも遺書を書いたのはみつるなのだから、みつるの文章を書き換えているといったほうが正しいのではないか。いや、そもそも「遺書として」書くとは過去に書かれた無数の遺書を範として書く=書き換える行為なのだから…といった循環をもたらす「盗まれた遺書」というテクストは、いうなれば複数人によって書かれている。というよりも、書くとは常にかつて書かれたものの書きかえであるのだから、書くことは原理的に、常に複数人によってなされる。書くことの複数性の表現としての文体のブレ、これが仙田の文体を規定するもう一つの要素となる。

「盗まれた遺書」において「書くこと」と「読むこと」が一致しているとするならば、「読むこと」にも当然自己目的化=自動詞化と複数性を想定しなければならない。読むことの自動詞化は、作中においてフェティシズムとしてあらわされる。先に述べたとおり、原理的にある文章のすべてを読み切ることはできない。そのために、みゆきについて知ろうと思ったみつるが「みゆきさん自身より、みゆきさんのまわりにあるもののほうに近づいて」いったように、また奈緒が人間の全体ではなく、体の部位ばかり盗撮していたように、読むことはある断片=部位を収集していくフェティシズムに似てしまう。もし、かつて読まれた仕方に倣って読むこと――それは批評的なクリュセによった読みでもいいし、感動をありがとう!といった平凡な読みでもいい――のもつ、読むことの複数性を受け入れるならば、断片の集積の間を「妄想によって埋める」ことができるだろう。しかし、「~らしく」読むのではなく、ただ読むことが自己目的化してしまったとしたら、「空でいえるほど繰り返し読」むことによって、すべての断片を集積してしまうか、「自分のことが書いてある」かのように錯覚してしまうか、の二択しか解決策はないだろう。そして「自分のことが書いてある」と錯覚することと、その文章を書き換えてしまうことは、等価な行為である。むろん、「~らしく」読まない「読むことの自動詞化」と等価である、「書き換えること」に求められるエクリチュールは、当然「~らしく」書かないエクリチュールであるだろう。

3、痕跡と改ざん可能性――福永信「未来を生きる君へのダイイングメッセージ」

「盗まれた遺書」について結論めいたことを述べる前に、よく似た構造を持った、同じく10年代に書かれた作品である「未来を生きる君へのダイイングメッセージ」について見ていこう。

「未来を生きる君へのダイイングメッセージ」は、雑誌のライターをやっている「おれ」が「変死体が転がっているからそれを見てきなさい」というメールをきっかけに死にかけの「仏さん」と出会い、その「仏さん」が異様に長いうえ要領を得ない奇妙なダイイングメッセージを書く様を、「おれ」が自ら主観を交えつつ記録する、という小説である。「おれ」は小説の語り手であり、かつこの小説の書き手でもある。読者が目撃するのは、今まさにこの小説を書いている「おれ」――とはいえ、「おれ」はこの小説のタイトルを「異色のダイイングメッセージについての俺の経験」と題しているのだが――であり、小説の読み手(かつ聞き手)として設定されている作中人物「あんた」は、読者である我々と近い立場にいる(所謂、中心紋の構造である)。

小説における書き手(作者)と語り手、読み手(読者)と聞き手は、ジュラール・ジュネット『物語のディスクール』(1972)を持ち出すまでもなく、全く違う位相にいる。本という物質を挟んで対峙するのが作者―読者であり、語り手―聞き手はあくまで本(フィクション)の中での関係である。「未来を生きる君へのダイイングメッセージ」ではしかし、本の中と外は区別されない。おおざっぱに言ってしまえば、この作品は今この作品を書いている(語っている)「おれ」/「おれ」の語りを聞く(読む)「あなた」と、「おれ」に語られる「死にかけの「仏さん」/「仏さん」の語りを聞く「おれ」という二層構造からなり、どちらの層においても語り手は口頭で語る能力を持ちあわせていないため、異常なまでの雄弁さを以て書くことを語ることに一致させていく(「言うこと〈書くこと〉」)。そのことが「未来を生きる君へのダイイングメッセージ」と「異色のダイイングメッセージについての俺の経験」を一致させ、「未来を生きる君へのダイイングメッセージ」は、書きながら(語りながら)死にかけている「おれ」(「おれ自身の意識がはっきりしてるうちに~」。また、「あなた」に対して「笑うなよ、頼むから」ということによって、「おれ」がこの作品を口頭で語っているかのように錯覚させた後、実は、語っているのではなく書いているのだと明かすことは、「おれ」の意識がはっきりしなくなっていることも相まって、「おれ」は今「仏さん」と同じような状況下にいるのでは?と推測させる)のダイイングメッセージとなる。

つまり「未来を生きる君へのダイイングメッセージ」は、「仏さん」のダイイングメッセージを記録した側面(この側面は作中「異色のダイイングメッセージについての俺の経験」と呼ばれる)をもちながら、かつ「おれ」のダイイングメッセージでもあるのだ。

 

心ある様々な関係者に読んでもらうことで、ああ、これは、あいつのことだな、あのことを書いているんだな、と、時間をかけることでようやくわかるような、読者自身が積極的に参加して、なんていうのかな、ほのめかすというと言葉が悪いかもしれないけれども、ある種のヒントだけを書いておいて、読む側が自分で考えることができればそれでいい(中略)「こんなことを訴えたかった」というダイイングメッセージになることだけは死んでも避けたいね。

 

「仏さん」は、「犯人について書いてこそのダイイングメッセージ」と語りながら、一方でこの引用部にみられるとおり、はっきりとしたメッセージ性のあるダイイングメッセージを忌避する。このメッセージ性への拒否を敷衍して、「仏さん」の「指示」や「伝達」への抵抗と名指そう。というのも、「仏さん」は「言葉の力」への異常なこだわりを見せており、例えば「おれ」から「『カっとなる』とかそのような反応を引きだしたことは『言葉の力』のたまものなのである」と、言葉を発することによって相手に何かしらの行為をさせる、言葉の対象指示的でない、パフォーマティブな側面を称揚し、一方ライターである「おれ」が「仏さん」を殺した犯人の名前を直接記事に載せようとしたことには難色を示した(「そんなのは言葉の力ではないのよ」)。言葉による「指示」・「伝達」の無力感を「痛みを感じてないな、いや、感じていたとしても、それをどうやっておまえさんに伝えることができるのかね」と語ることによって表現する「仏さん」が、「おれ」の書く「読者の興味本位の視線を集めるための記事」を「ちんぷな原稿」と呼びながらも擁護する(「興味本位の最初の下衆な心を忘れないでくれ」)のは、「おれ」の原稿が内容としては、つまりコンスタティブな面においては「ゴミ文章」であったとしても、パフォーマティブな側面においては「言葉の力」を実現しているからだろう。「読む側が自分で考える」ことを求める彼のダイイングメッセージは、明らかに「『謎の手法』を通じて、作品に対する読者の注意力を喚起する」「フォークナー的な試練」(渡部直己『小説技術論』、2015 )と同質なものであり、メッセージのよくわからなさが読者の注意を惹き、様々に解釈させるという、パフォーマティブな「言葉の力」の実現を狙ったものである。しかし「仏さん」の用いる言葉にはもう一つ、別の側面がある。

言葉のもう一つの側面の最もわかりやすい例が、分解された言葉たち(「人ラ」=今、「ウハ」=穴、「ウハエ」=空、「一一一一口」=言「○○」→「8」→「∞」)である。「仏さん」はいったい、日本語を形象へと分解することを通して何をやろうとしているのだろうか。東浩紀によるジャック・デリダ『グラマトロジーについて』の読解を参考にしよう。デリダは言葉の本質を「絵だか文字だかよくわからない、刻み目のようなもの」に求め、「自然にもできる」「刻み目」が「文字のように見えてしまうこと」を「自然のなかに魂を発見してしまうこと」として考えた(東浩紀編『思想地図βvol.3 日本2.0』、2012) 。簡潔に表現すれば、「人ラ」とは刻み目のような痕跡であり、かつ意味を持った言葉でもあるのだ。つまり分解された文字たちの存在は、書くことと語ることが一致したこの小説の言葉たちに「痕跡」というレイヤーを付け加える。このことはつまり、黒いインクによって『すばる』に印刷された活字たちが、同時に模様や痕跡でしかない――作品の設定上、「仏さん」の言葉はすべて血文字によって書かれたダイイングメッセージであり、スプリンクラーなどによって容易にかき消されてしまう――という事実を意識させる。

文字や言葉が痕跡に過ぎないことは、「おれ」が「異色のダイイングメッセージについての俺の経験」を書く理由とも深くかかわる。「仏さん」のダイイングメッセージを記録することについて「全文はおれがこうして書き残すことでしか示せないのが遺憾だが、とうとう犯人については全くメッセージを残さなかったこの奇妙なダイイングメッセージのナゾをおれに代わって読み解いてほしい。」と語る「おれ」は、同時に「あんたはおれが犯人に関する仏さんの記述を意図的に隠ぺいしているとでも思っているだろうが、おれはそんなちんぽなことはしません」と留保を置く。もともとが血文字で書かれたダイイングメッセージであった上に、途中メールが来たからと言って読むことを放棄し、かつ記憶によってその全体像を記録している「おれ」が、いくら記述の真正性を主張したところで意味はないのだが、それはおいておこう。問題は、「おれ」が「こうして書いているおれの言葉があんたによって改ざんされる可能性もある」という懸念を表明していることだ。どういうことか。

前章の問題は、原理的にある文章のすべてを読み切ることができないのだから、1、丸暗記するか 2、自分の経験として書き換えるかすることによって、ある文章を自分のものとしてしまう=盗んでしまえばいい、という点にあった。しかし、「盗まれた遺書」の結末は、むしろ読むこと=書くことを自動詞化しようが、盗むことが不可能であることを示唆していた。

 

遺書を読みこめば読みこむほど、自分のもとに届いたことが当然のように思えてならなくなってくる。まるで自分がいつか書いたもののようだった。だから、いつしか書き換えていた。書き換えても書き換えても、うまく書き換え終わることができない。(「盗まれた遺書」)

 

なぜ、盗むことは不可能なのか?「未来の君へのダイイングメッセージ」は、その答えを提示する。そもそもこの作品自体、他者のダイイングメッセージをまるまる記録したものを「俺の体験」と名指したものであり、まさに仙田学的「盗み」の実践によって成り立っているのだ。

「盗まれた遺書」と「未来の君へのダイイングメッセージ」の最大の違いは、後者においては「盗み」の過程において、痕跡としての文字の脆弱さが強調されている点である。文字は平気で読み飛ばされ、気づけば形象に分解されてしまうし(「人ラ」)、かつちょっとした事故によってかき消されてしまう。文字という媒体が絡む以上、そもそも伝達の過程においてエラーを避けることができないのだ。しかも、そのようなエラーを超えて何とか全文を記録(丸暗記)したとしても、そこから本当に知りたいことを抜き出すことができるとは限らない。「未来の君へのダイイングメッセージ」は、「盗まれた遺書」の問題を、文字という媒体の脆弱さの問題として引き受けたといえる。

では、福永は「盗む」ことの不可能性に対し、どのような態度をとるのか。先に述べたとおり文字という媒体が脆弱である以上、言葉は「改ざんされる可能性もある」。そのような事実性を受け入れたうえで、書き手は「人ラ(今)を生きている人間」を「信頼」するしかない。つまり、他者の言葉を「俺の経験」として「盗む」のではなく、むしろ「未来」の「君」へと、諦念と表裏一体の「信頼」でもって送り出すことにしか希望はない。決して伝わることのない、謎のままである文章たちを、「解釈」するのでもなく「盗む」のでもなく、謎は謎のままで伝えていくこと。おそらく、伝えられた言葉たちが正しく解釈されることはないし、それどころか原形をとどめもしないのだろう。いや、もっと悪いことに、活字のあふれる現代において、謎のままである文章などすぐにロストし、ネットの海の奥深くにまで落ちて行き忘れ去られてしまうのだろう。それでも、「未来を生きる君」を信じて、脆弱であるがゆえに現在進行形で死んでいるメッセージ=ダイイングメッセージを送り続けていくこと。それこそが、福永信が読者に送ったダイイングメッセージなのである。

終章

3.11以後の言葉の問題について考察した『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』から始めて、本論は分断された社会における、親密圏の中でしか機能しない無力な言葉とどう向き合えばよいのか、という問題に答えを出すことができた。スマートフォンやtwitterの存在によって、3.11後の社会はニュースが偏在し、想像界と現実界の短絡路に象徴界が接続してしまった。そのことによって社会はむしろ人々を分断するものとして機能するようになり、言葉は親密圏(党派性)におけるメタ・コミュニケーションの道具に成りはててしまった。むろん、この理路はデストピアを描いた漫画から導かれた理路であり、現実における親密圏同士の交流の可能性は、まだ十分あるのかもしれない。

とはいえ、文学の領域においても他者の言葉の読解可能性をめぐる思索が少なからず出てきており、そのなかでも「盗まれた遺書」と「未来を生きる君へのダイイングメッセージ」の二作は、『デッド』の提示した思索を深めるうえで適切だと思われた。その結果、言葉が文字という媒介を持つ限り、現在進行形で死に向かうしかない=ダイイングメッセージであるしかないのだから、我々にできるのは「未来を生きる君」を信じて、メッセージを伝え続けることなのだ、という結論が出た。むろん、1995年以降「サブカル化」した文学の思索をもって現実の分析とすることは、今や困難なのかもしれない。結局は、この批評文を読んだ読者諸氏にとって、以上の理路がどれだけ共感に足るものであったのかにかけるしかないのだろう。本論は、いままさに未来の君に向かって投げ出されたのだ。

付章

「未来」の「君」に向かって謎を謎のまま伝えるとはすなわち、「わたし」の親密圏(党派性)に参入してくれるよう要請することであり、結局はメタ・コミュニケーションである。というのも、「未来」の誰かとは「他者」でしかありえないはずで、「君」という親密な対象であることは絶対にないからだ。すると、「君」を信じて謎のダイイングメッセージを送り続けるしかないという結論は、結局メタ・コミュニケーションによってしかつながることができない、親密圏に閉じこもるわれわれの生を投射してしまっているのではないか。つまり論旨は、一周回って第一章へと戻ってしまったのではないか。福永は、明らかにそのことに気づいている。

 

ほんとにバカげてるよ。おれはウソでも「感動した」とそう言うべきだったんだ。仏さんが書いてきたダイイングメッセージに対して、嘘でもそう言ってやるべきだったんだよ。バカすぎるよ。バカバカしい。分かってる。バカすぎるよね。気づくのが遅すぎた。(「未来を生きる君へのダイイングメッセージ」)

 

アイロニーを存分に込めつつ、メタ・コミュニケーションの肯定によって終わる結末。福永の思索は、『デッド』の浅野と同じ地点に着地している。

我々は今、出来の悪い反復の中にいる。渡部直己が『小説技術論』において指摘した通り、2010年代とは1930年代の反復である。1923年に関東大震災が起こり、左翼の瓦解と右翼勃興が起こり、文学においてはメタフィクションが流行した後、横光利一の「四人称」がでてきた。2011年には東日本大震災が起こり、右翼が勃興し、メタフィクションの時代であるゼロ年代の後、現代には「移人称」という、一人称と三人称のハイブリッドが生まれた。2016年はつまり、戦争を挟んで昭和へと回帰してしまっている。すると、人々を分断させる言葉について考えることは、すなわち戦前としての現在を考えることと同義であるだろう。

だからこそ、かならずしも明るい結論を導けずとも、現代に文学は必要である。危機の時代であるからこそ、一層意味を持つ文学。言葉が無能力であるからこそ、言葉について自己言及することが求められる文学。そのことによってのみ、対立をもたらす点において政治的である言葉をメディウムとする文学は、メタ・コミュニケーションによる分断から逃れうるのだろう。

 

 

(注1)http://spi-net.jp/weekly/comic022.html (最終閲覧日時3月3日19:25)
(注2)東浩紀は『動物化するポストモダン』(2001)において、ポストモダン的主体のモデルをアニメ・ゲームオタクに求めた。そのことと2000年代の「オタク」のステレオタイプが、社交や政治参加に積極的ではない、内向的な存在であったこととを考えあわせると、twitterにおいてアニメアイコンの人間が、政治について昼夜を問わずなにかしらのメンションをしている2016年という時代の特性が際立ってくるだろう。ちなみに『デッド』第三巻には、ヤフー知恵袋を模した質問サイトの政治・社会カテゴリを熱心に読む小学生が描かれてもいる。

 

 

 

 

 

 

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