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昭和90年、批評は射精する

 

子を残すという欲望

m:ここではあえて、「批評の再生」というあまりにストレートなテーマについて議論を交わしてみたい。

w:まず、批評誌『ゲンロン』の中での「昭和批評の諸問題 1975-1989」の位置づけを考えてみようか。これは本誌の特集に位置していて、44頁(大澤聡「批評とメディア――知に接続するためのレジュメ」も合わせると56頁)とボリュームも最大。間違いなく『ゲンロン1』のメインだよね。

m:うん。けれど、「創刊にあたって」で東は、『ゲンロン』を『思想地図β』ほど多くの人に読んで欲しいわけではないと言っている。そうした意図で編まれた雑誌の第一号にこれまでの批評の振り返りがメインとして載っているというのは、彼が考える批評史を読者にインプットさせて閉じた空間を作ろうとしているように思える。東は「外部を強調する柄谷のせいで批評が閉じてしまった(p86)」と言っているが、彼も同じ轍を踏もうとしているんじゃないかな。その直後に「柄谷は勉強していなくても本質を突く」などの流言が蔓延したせいで柄谷さえフォローすれば世界に接続できると錯覚する人が現れたと言っているけど、これは東さえ読んでいればオタクコンテンツを好きなだけで知識人に見えると錯覚してしまったゼロ年代の東フォロワーと同じようなものに聞こえてしまう。

w:そこで「昭和批評の諸問題」で扱われているのが、息子と私生児だよね。外部を希求したものの誤解という父子関係しか理解できなかった柄谷に対して、東は予想外の人物に予想外の形でメッセージが届く誤配を提示した。それで生まれるのが私生児。「昭和批評の諸問題」は、批評の継承がテーマなだけあって「父」についての言及も少なくない。しかし、そこで成功例が語られることはない。柄谷や江藤淳の問題意識が父になれないことだとすれば、それはそのまま批評が抱える問題ということもできそう。父=システムの絶対的な支配者が現れないからこそ、批評は常に緩やかな断絶を繰り返して現在に至っているのかも。「批評は対象がないと成立しないジャンル」(p68)というのも、「批評は上から目線でも下から目線でもなく、外から目線」(佐々木敦)というのも、要はそれ自体が一つの完結したシステムではないということだよね。未成熟だから一つのシステムたり得ないのか、そもそもシステムたり得ないこと自体が批評を根拠づけているのかは一考の価値がありそう。後者ならば、そもそも批評に父は存在しえないことになる。

m:『ゲンロン1』を見ていると、どうしても東は父になりたがっている気がする。ただ、現状では彼の実子にあたるような人は本書の中にはいない印象。

w:東さんと父といえば、以前ゲンロンカフェのイベントで『インターステラー』(2014)について熱弁をふるっていたのが思い出されるなぁ。あの作品には息子と娘が登場するけど、父の意志を継ぐのは仲違いしてしまった娘なんだよね。本作では父になりきれなかった後悔が強く描かれるけど、それでも娘が彼を見つけてくれる。宇宙という絶対的な距離を使って、ごく狭い父子の関係が描かれている。

m:宇宙と父子関係というキーワードなら、やはり『スターウォーズ』は外せない。『エピソード7 フォースの覚醒』(2015)では失敗した父親像の役割をハン・ソロが担うことになる。彼は子どもと向き合うことを避け続けた結果、最後の最後までその声を息子に届けることができなかった。また、メインの男性キャラであるレンとフィンは父権構造からの逃避が原動力になっている。細田守『バケモノの子』(2015)も、息子の成長物語というよりは父親になりきれないワルが奮闘する映画にしか見えなかったし、2015年になって父親になれない(なりたくない)苦悩というのはむしろ前面化したように思える。

w:だとしたら、父が現れない批評界の問題はそのまま父になることができない現代を考えることになるのかもしれないね。

射精を批評できるのか

m:東はp61で誤解を放出された精子が届いた状態、誤配を放出された精子がどうなったか分からない状態だと説明している。2015年には、射精=男性の享楽的な映画も盛り上がった。「見るととにかく知能指数が下がる!」と話題になった『マッドマックス 怒りのデスロード』(2015)がその代表だよね。最低限のプロット以外を全て削ぎ落として、とにかく気持ちのいい映像を配置することに全力投球している。

w:『劇場版 ガールズ&パンツァー』(2015)も限りなく同じやり方だよね。「ガルパンはいいぞ」というマジックワードを排出した点でも共通している。どちらもシンプルな構造を洗練することでエクスタシーを演出しているわけだ。

m:正直、こういう映画に対して批評がどう機能できるかが分からない。エクスタシーを感じさせる部分を緻密に記述するのが王道なのだろうけど、詳述すればするほどそれは劇場で感じた興奮とはほど遠いものになる。だって、射精の気持ちよさを記述したいとは思う人はいないじゃないか?だから、内容には触れず快感だけを表現する「ガルパンはいいぞ」という言葉がバズったんじゃないかな。

w:既存のシステムでしかない男性の享楽には批評が求められないということ?それに乗っかれば、逆に評論家の町山智浩とジャズミュージシャンの菊池成孔による長文のやりとりが話題になった『セッション』(2015)は射精の快感を阻害する映画かもしれない。全編を通して父権による徹底的な抑圧が行われ、演奏というエクスタシーは絶えず中断される。

m:目新しい意見ではないかもしれないけど、批評対象になるようなエロゲが流行らなくなったのは比喩としての射精に到達するまでの時間が長すぎるからだと思う。プレイ時間に比べて、エクスタシーを迎えるポイントが少なすぎる。『Fate/stay night』(2004)なんて、クリアまでに60時間近くかかる。その中で直接的なエロシーンという意味でも話が盛り上がるという意味でも快感を覚える時間は割合にしたらそこまで多くないはず。インスタントな物語消費が普及したいま、射精に入り組んだ過程は必要なくなっている。

w:「動物化」が進行することでエロゲの需要が低下するというのは、なんとも皮肉な話だね。

自慰でも性交でもない場所

w:父になれないというのが批評界だけでなく現代に通底する問題意識だとすれば、世代交代に成功した映画から批評が再生する道を考えることができるかもしれない。『インターステラー』『フォースの覚醒』に共通しているのは、父の後を継ぐのが誤配を起こした女性だということ。

m:『インターステラー』の場合は誤配というべきか微妙なところだけどね。ただ、どちらの作品も対になる男性ではなく女性が活躍するというのは時代を反映しているのかな、とは思ったよね。『フォースの覚醒』におけるフィンは主人公にあたる立場と言ってよいはずだけど、全編を通して見るとやはり彼の活躍が少ないと言わざるを得ない。ライトセーバー・アクションは無理でも、スターキラーベースを破壊するのが彼ならば、エピソード4におけるルークの継承と考えることも出来たはずだけど。『インターステラー』のトム(息子)も逃げることを考えてばかりで、地球を救おうとするマーフの対局の存在として描かれる。差別的な物言いになってしまうけど、従来の男性ヒーローが活躍するような物語で女性がその立場を担うためには逃げ腰の男性を出さなければまだ説得力が薄いと思われているのだろうか?

w:うーん、一方を立てるために他方がいるのではなく、むしろ主人公が二人いるからこそこれらの物語では継承に成功しているとは考えられないかな?ラカンがいう享楽には、男性の享楽の他に女性の享楽が存在する。そしてこれは、他者の享楽と言い換えることも出来る。精神分析における性別化の公式によれば「女性(=女性を定義するシニフィアン)は存在しない、つまりは核を持たない透過的な存在だ。

m:主人公を二人にすることで、男性的享楽とは違った享楽を表現する。

w:『フォースの覚醒』の作成にはディズニーが強く関わっている。だとすれば、それは『スターウォーズ』の続編であると同時に『アナと雪の女王』(2013)を継承した作品と考えるべきだ。父と子という能動/受動を乗り越えるために現れたのが、『アナ雪』というダブルヒロイン作品。『アナ雪』に比べれば『フォースの覚醒』は二人の主人公の中でもフォースを持つ/持たないという力関係が残っていて、それが物語に直結している。誤配という血縁を逃れた関係であれ、これはやはり継承の問題だ。一方で『アナ雪』においてエルサの魔法は物語を駆動させる装置ではあるけど、それが両者を決定的に分かつことはなく、継承という問題が無化されている。あくまで相互能動的であり相互受動的な二者関係を描くことで、継承という問題の超克に成功したんじゃないだろうか。『アナ雪』は、機能不全を起こした父子関係を捨てて新たな関係の在り方を描いたように思える。だから、そこでは射精=男性の享楽ではなく他者の享楽が登場した。作品が他者の享楽として機能するようになるのがこれからの潮流の一端であり、そのように読み解くのが批評の活路だというのは言い過ぎかな?

m:だとしたら、他者の享楽とはなんなのかを考えなければならない。例えば、斉藤環は『生き延びるためのラカン』の中で、それは男性同士のカップリングを妄想する腐女子の想像力のようなものだと言っている。そこでは自身の主体性は排除され、攻め/受けのように移ろい続ける二者間の不安定なパワーバランスを妄想する。たしかにここには父子関係のような一方性はないけれど、それなら主体性を排除して妄想をするお前はいったい誰なんだ?という疑問がぬぐえない。主体性の排除と簡単に言ってのけているけど、それは単に超越者という無責任な立場に居直ろうとしているようにしか聞こえないんだよね。

w:自分でもしゃべりながらそんな気はしていた(笑)加えて、批評あるいは思想全般が凋落していった原因はいま述べたような「超越者という無責任な立場に居直ろうとする姿勢」にある気がする。だから政策コンサルタント(p91)という具体的なプランを提示してくれる=責任を追及できる人材しか必要とされない。なんだか、この会話自体が抽象的なものについて語ることで結局目の前の現実に回帰してしまうという、思想にありがちな自分で自分の首を絞めるパターンを踏襲してしまっているなぁ。だけど、『アナ雪』を持ち出して言いたかったのはそういうことではない。だって、登場人物たちは超越的な立場ではなく確実に物語上のシニフィアンを構成しているのだから。ダブルヒロインという言葉からもあるように、注目すべきは彼女らが二人でヒロインという一つのシニフィアンの位置を占めていることじゃないかな。だから彼女たちはきっと、女王になって国を統治したり一方が他国に嫁いだりはしない。二項対立ではない、二人で一つのシニフィアンが親になれば現在の父子関係とは違った継承の在り方が現れるはず。

m:単独でいるときでも、あるいは対となるシニフィアンと向き合うときでも、快楽を象徴するのは結局射精でしかない。そうではない二者関係を提供できるのがダブルヒロインということだね。これを批評に置き換えてみると、メインの編者が二人いる批評誌ということになるのかな。今までそんなものがあったのか、わたしには覚えがないけど……。

w:僕も知らないなぁ。もしそんなものがあるのなら、今までにないような新鮮味を覚えるかもしれないね。

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