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振り返らず、文字だけを追う

伊藤剛は、いがらしみきお『i』を要約不可能な作品ではなく、要約を拒む作品だと評した。「自分は世界にたった一人なのか」という問いから始まる本書は、見えないところにいると言われる神様を探し続けた後、それはあらゆるところにある人と人を繋げる存在だと気づき、やがては主人公自身が創作家として神様を作る立場になる。テクストだけを見れば、本書は独我論を普遍主義で乗り越える(ように見せかける)だけのごくありふれた作品だが、本書にはそれだけではこぼれ落ちてしまう「何か」が存在する。そして本作を読み返したいま、不思議と筆者にはその「何か」が減じられているように感じた。テクストだけではすくい上げることが出来ず、そして再読時しても同じ感動を得難い力を言語化するのが本稿の狙いである。

平倉圭は、対象に宿る「何か」を外在化された言葉としてではなく、内在的な立場から明らかにするために『ゴダール的方法』で作品を擬似的に構成された編集台に見立て、そこに布置される思考を丹念に観察した。作品内部を視点の始まりにすることで明らかになるのは、外部から投げかける私たちの鑑賞の曖昧さだ。平倉曰く、映画鑑賞は失認を回避できない。紙面という限られた環境の中で複数の静画を意味ある連なりとして認識させるために、マンガはこれまで幾度となく映画的リアリズムの手法を取り入れてきた。言葉と図像が同居するマンガの分析にこそ、テクストの外部性を認めない分析手法が求められているといえないだろうか。

要約を拒み、読者の目を釘付けにし、異質な迸りすらも感じさせる「何か」。伊藤だけでなく本作の一端に触れた者なら、そこにある種のカルトさを感じずにはいられないはずだ。本作の主人公 雅彦は絶えず神を探し求めるが、イサオはそれを「誰も見ていないところにいる」と断定した。それ以後雅彦は、ふとしたときに自分の視界には決して入らない背後を振り返るようになる。作中人物にとっての「見えない場所」は背後に他ならないが、紙面に向かうとき、読者が注意を払わねばならない見えない場所はもう1ヶ所存在する。次のページだ。見えない場所に潜む神を探す雅彦の旅は、まさに見えないページへ欲望をむける読者の紙をめくる指によって進行する。換言すれば、本作の読者の注意を先のページと同時に現実の「見えないところ」である背後にも向けられることになる。読者の欲望は背後と次のページに分散し、緊張を強いられながらも手を動かすのだ。

しかし、イサオの「見ればそうなる」という言葉は、緊張の天秤を死の方向へ傾ける。神の分身のようにふるまうイサオは、「誰も見ていないところ」に自由に移動できる能力を用いて無慈悲な殺人を開始するのだ。「誰も見でねえおめえの後ろは真っ暗だ。」背後に現れる声を認知して振り向いた瞬間、いままで目にすることの無かった暗闇と同時に命を落とすことになる(図1)。

写真
図1

 

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図2

ここで、本作での振り向く瞬間のコマと現実の(しかしモデルとして少々動きが強調された)振り向きざまの写真(図2)を見比べてみよう。すると、いがらしの作画には、動きに勢いをつけるための2つの特徴が捨象されていることが分かる。驚いて振り向くとき、現実の人間は上体全体に比べて首を傾ける側の肩をより大きく動かし、頭を少々上向きにしているのだ。この動きを図式化して後ろからやや見下ろしたとき(図3)、なにかと類似していることに気がつかないだろうか。そう、ページをめくられる際の紙面(図4)である。

無題
図3
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図4

先にある「見えないところ」と既に呼んだページとしての背後への引力を同時に受けているのがいままさに視線を走らせているその1ページである。読者が自分がめくろうとする紙面に同一化したとき、読者と興味の対象の物理的距離はまさしくゼロになる。しかし、リアルな振り向きの動作を一部捨象することで、読者はページのように後ろを振り返ることはない。唯一イサオの魔手から逃れた村長は、イサオの呼びかけにこう返答する。

「真っ暗なら真っ暗でいいさ。誰も見ていないんだったら今も昨日も明日も同じだ。確かに全部ありもしないことなんだろう。じゃあこのありもしない世界はなんなんだ。」

まだ見ぬ場所にある神を探すために紙面の1ページは後ろを振り返らなければならないが、そこには死が待っている。見えない場所を探すために振り向くことしか出来ない存在は、”既に読まれたページの束”として先の展開を目にすることはない。読者は背後の死に引き寄せられながらも、神を探すために「ページをめくる存在」でなくてはならないのだ。

 

背後を振り向くことなしに「見えないところ」を見る。雅彦は視覚と聴覚を失うことで、正面と背後の区別すらつかない世界の中に自己の数秒先を生きる存在として神を感じるようになる。まだ見ぬ紙面に希望を託した我々の試みは間違っていなかった。近い未来に視認する場所――次のページにこそ神はいたのだ。

かくして神の居場所は明らかにされたが、我々を取り巻く緊張はむしろ激しさを増す。雅彦は2011年の東北大震災によって妻と父を亡くし、背後だけでなく辺り一面を死が覆う世界に直面する。それでも神を探し続けた雅彦は、ついにイサオに再会する。健常者でカルト宗教団体の代表になったイサオは神を見ることはできないが、それでもイサオと同じく世界の全てを神と知覚している。このときイサオは、この世界は全て言葉だと語る。親に恵まれず言葉を覚えることが出来なかったイサオや、目と耳を失い暗闇の中を歩く雅彦だからこそ神様を感じることができたのだ。

世界が言葉だとしたら神はそれとどう関わるのか、神を見つけて一人じゃないと実感することで何が変わるのかはもちろん分からない。しかし、本作を読み取る私たちはあくまで言葉の領域でしか世界とふれあうことが出来ない。その中で書物の1ページとしてではなく、死を背後に感じる読者でいること。先のページが分からないからこそ、本書の緊張は初読の際に最高潮を迎えるのかもしれない。本書から迸るテクストできない緊張、それこそがまさに現実という言葉を読み解く私たちが日々つかみ損ねている何かだといったら、それは抽象化のしすぎだろうか。

文字数:2536

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