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フェティシズムでは神秘に手が届かない――追い詰められた男の、とある言い訳

 

「こんな遅くに呼び出してごめん。『なんで電話にでないんだ』とか『この前のことを説明してよ』とか、言いたいことはたくさんあるかもしれない。だけど、いろいろと原因を追究する前に、まずは僕の話を聞いてほしいんだ。

この前2人でコーヒーを飲んだとき、君は藤沢数希『僕は愛を証明しようと思う』をぼろくそに批判していたよね。「女性をモノ扱いしないで!」って。僕は恋愛工学についてはかじった程度の知見しかなかったのだけど、なぜかあのとき、絡まりきった糸を前にするようなモヤモヤを感じたんだ。君が怒るのももっともだと思う。けど僕は、あの本は――著者が意図してかどうかは分からないけれど――現代に対する盛大なアイロニーに見えるんだ。

 

僕が通う大学の学部が、数年後になくなることは知っているだろう? 国立大学文系学部廃止。すべての文系学部が本当に「廃止」されるわけではないとはいえ、僕の周囲ではこれはかなりの現実味を持った言葉だ。文部科学省が通知した文章の中で最も存亡の危機にあるのは、教員免許の取得が卒業要件にない、いわゆるゼロ免課程らしい。とはいえ、他の学部だって事態は深刻だ。文科省からは「組織見直し計画を策定し、組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう」は求められている。

そこで重要視されているのが、社会への貢献を目的にした明確なミッションの制定、そしてそれに基づく中長期的なミッションの設定だ。資格という目に見える形での証左や目標設定、それを前提として一歩ずつ成果を積み上げていく。文系という実績が目に見えにくい学問組織に対して文科省が要求しているのは、こうしたPDCAサイクルに依拠した組織運営だ。これは20年前に起こった一般教養課程の廃止と同じ動きだといえる。どこで役立つかわからない教養科目より、利用先がはっきりしている専門科目を重視するということだからね。

そうそう、PDCAサイクルといえば、君が働く区役所でも窓口業務の査定が行われるという話をしていたよね。ノルマがないゆったりした空気の区役所でさえ、外部の目が入り数値化された結果が昇進に影響するようになったんだ。

ねぇ、僕らが直面しているのは、誰でも一瞬で正解が手に入る世界だ。手のひらサイズのパソコンが普及しきった現在、目の前の課題へのベストアンサーはネットの海から即座に引っ張ってこれる。昔のように難しい本を読んだ人が偉いんじゃない、幅広い知識をインプットした人が偉いわけでもない。最善案は誰にでも手に入る。そんな中で評価されるのは、最善策をとにかく速いペースで実行できる人間だ。

もう少しかみ砕いてみよう。最善策を実行するには、①目標を具体的に設定し(適切な検索ワードを打ち込むこと)、②現在地からゴールまでに必要なステップを把握すること(検索結果を身近なものから順に配置すること)が大切だ。つまりは合理的な判断、原因に対して演繹的な選択を積み重ねるのが最善手という考えだ。もちろん僕だって例外じゃない。受験勉強ではまず志望校を決定して赤本に目を通し、簡単なレベルから手を付けるべき参考書を決定した。このやり方はかなり有効だった。それだけに、あらゆる場所でこの手法が採用されているのだろう。けれど、それに縛られすぎて思考が固定化されているとも思うんだ。それこそが現代の病だろう。2010年の世界に蔓延しているのは、原因と結果の間には明確な近道があり、それは誰にでも把握可能だという無意識的な前提。そして僕らに必要なのは、ただスタートとゴールを設定しそれをつなぎ合わせることなのだ。

 

そして、その潮流をあまりにベタに採用してしまったのが恋愛工学だ。藤沢数希『僕は愛を証明しようと思う。』の内容は、ただのナンパ本となんら変わらない。その特異性は、ナンパテクニックを恋愛工学という科学の体系に付置させたことだ。例えば、「とにかく声をかけまくれ」という教えはPDCAサイクルでいえばDo(実行)を繰り返し、その結果をCheck(検証)することで精度を高めることだ。「女性と付き合う」という目標のもと試行とフィードバックを高速化する本書の教えは、まさに合理に基づいた科学的思考を恋愛に持ち込んだといえるんだ。

だから、君がこの前言っていた「女性をモノ扱いしないで!」という批判はもっともだ。固定的なメソッドで愛を獲得しようとする恋愛工学では、ターゲットとなる女性は仮説を検証する実験対象、あるいは精度を高めるための材料に過ぎないといえるからだ。とはいえ、藤沢もこのことを想定していないわけじゃない。彼の問題意識は、「現代の恋愛市場では、(非モテ)男性は初めから女性と付き合えるような振る舞いはできない」と考えているからだ。

現代の恋愛観は、おそらく明治初期に西洋から伝わったといえるだろう。厨川白村『近代の恋愛観』で一般大衆にも浸透したその恋愛観は、大雑把にいってしまえば①肉体的ではなく精神的なつながりの重視、②対等な個人同士の関係、③その後のステップとして結婚が想定されていることだ。少し嫌な分析に聞こえるかもしれないけど、僕らの恋愛観もおおむねこれと変わらないはずだ。つまり、ここで理想とされているのは、肉体関係をむき出しにせず相手の心を思いやることができ、しかもその後の人生を共に助け合う存在になる以上単に男女平等だけでない対等な一者としてふるまうことだ。藤沢が言っているのは、そんなこんな振る舞いは実際に女性と接してみなければこのように女性に対等な一者として認められるふるまいはできないということだろう。そこで彼は、合理的思考に基づいてその振る舞いを獲得しようと考える。そういう意味で彼は、恋愛という神秘に科学をとりいれたといえるのだ。

だからこの本には、男女問わず賛否両論が殺到している。男性からは、「彼女ができた」「自信がついた」という声もあれば、「こんなやり方は認めたくない」という声もある。女性からは「女性蔑視だ!」という声もあれば、「男性の思考がよく分かった」という声もある。けれど、賛否両論が寄せられるからこそ、僕はこの本が2015年を象徴する本になると思う。世間に蔓延しきった原因―結果の自明性に基づいた合理性を、恋愛という科学からは最も遠い世界に持ち込んだのがこの本だからだ。

 

それなら僕らは、この息苦しさからどうやって脱せばいいのだろう。そのヒントを僕らは、まさに合理化と最も隔たっている恋愛に見ることはできないだろうか。ジャック・ラカンは、フェティシズムをシニフィアンの連鎖における中断だと考えた。それは、新たな意味を生むことがないシニフィアンのメトニミー(換喩)的連鎖がファルスを不在と認識しながらそれを否認すること、例えればカメラが足先から徐々に上昇していくのに、肝心なスカートの中を移す前にピタッと止まってしまうようなものだといったんだ。カメラが見えそうで見えないその位置に止まってしまうとき、僕らの脳内では間違いなくその先の映像が映し出されている。だとすれば、フェティシズムとは必ずしもカメラが静止するその瞬間だけではないのかもしれない。カメラが足から徐々に上昇していくその時点で――原因を決めた瞬間に既に結果が想定されているように――すでにフェティシズムは完成しているとは言えないだろうか?

以上から、立木康介は誰もが次の項を予想できるほどに一般化されたメトニミーに依存し、振りかざすこと自体をフェティシズムと呼んだ。見えるか見えないかは問題じゃない。スタートからゴールまでの道がただ一つだと思うこと、そしてそれだけがすべてだと思うことそれ自体がフェティシズムなんだ。

だとすれば、社会への貢献をゴールに設定しさえすれば合理的な改革がなされると思い込む国立大学への通達や、目的さえ設定すれば職員の士気が上がると思い込む態度こそ、まさにフェティシズムだ。だとすれば、いたるところにフェティシズムは蔓延している。2010年代が直面する問題、それはまさに社会のフェティシズム化なんだ。

 

フェティシズムを脱するにはどうすればいいんだろう? 一面的な問題設定によって捨象されるものに目を向けること、合理化だけでは解決できない世界を考えることこそがその一歩だろう。だから僕は、恋愛のように世界を思考したい。愛を証明するのではなく、証明しか存在しない世界に愛を持ち込みたいんだ。そのメカニズムを100%知ることはできない人の心。神秘があることを自覚しながら、それでも対等になるために思いをはせる恋愛のように、世界と向き合うべきではないだろうか?

メトニミーの固着から脱出できるのは、メタファー(隠喩)だけだ。長々と話していたら、もうこんな時間だ。だから僕を問いただそうとする君に、僕はただ『今夜は月がきれいだね』と言いたいんだ」

文字数:3599

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