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村上春樹がデビュー時からコミットメントし続ける世界――「単独性」は埋葬によって復活する

初期の村上春樹がデタッチメントの作家と呼ばれる所以は、評論家 渡部直己が黙説法と細部描写と評する作風を根拠にすることができる。例えば、処女作『風の歌を聴け』(1979)の登場人物は固有名を持たない。「僕」は「鼠」と25mプールいっぱいのビールを飲み、「小指のない女」と淡い関係を持つようになる。一方、「僕」が見る景色は固有名詞を伴って、細部まで描写される。鼠は愛車の「フィアット600」を故障させ、僕はビーチボーイズ「カリフォルニア・ガールズ」のレコードを購入する……といった調子でだ。哲学者 柄谷行人は、固有名の働きを実存の実詞化だと指摘する。『探究Ⅱ』(1989)で柄谷は、近代哲学の多くが「他とは違うたった一人の私」を指す特殊性か、「無数にいる人間に完全に還元される私」を指す一般性の二者しか扱わないことを批判。たんなる「この私」を指す概念として単独性を提示する。

柄谷の固有名に対する姿勢は、固有名を固定指示詞としてとらえた哲学者 ソール・クリプキに由来する。分析哲学においてラッセルは固有名を確定記述の束だと考えた。これは、例えば「夏目漱石」という固有名は「『吾輩は猫である』の作者である」「1867年生まれである」といった要素の集合だということを意味するが、クリプキはこれを斥ける。後世になって「『吾輩は猫である』の作者は夏目漱石ではない」ことが判明するなど、あらゆる確定記述は無効化される可能性をはらんでいる。そこでクリプキは、漱石が『吾輩は猫である』の作者ではない場合を含めた可能世界全般を世界の一部として考えた。漱石が1867年生まれでなくても、あるいは作家ですらなかったとしても夏目漱石という固有名は「この彼」という単独性を指し示す。固有名はあらゆる可能世界を射程に入れ、それを媒介することで私たちは個体を指示できる。だからこそ、クリプキは固有名の役割を固定指示詞と呼んだのだと柄谷は指摘している。

こうした固有名の役割を踏まえたとき、登場人物に固有名を与えない、また情景に過剰なまでの固有名を付与する初期村上作品はどのように姿を現すだろう。柄谷が『探究』という仕事を通じて模索したのは、「他者」との向き合い方だ。彼がいう他者とは言葉の通じない外国人、あるいは文化を違う異星人を想像すればよい。我々を取り巻く共通認識は、普段は意識されないがあまりに儚い。普遍的なようで刻々と流れ、変化する着尺な基盤を失ったとき、果たしてコミュニケーションは成立するのか。それを問うたのが『探究』だ。単独性という概念は、そのための足場作りだといえる。全人類を共通存在として扱う一般性も、逆に独我論から始まりすべてを個別的だと扱う特殊性も、ともに人と人との間に共通の基盤があることを前提としている。そうではなく、それぞれをただ「ここに」ある別箇な存在として扱う単独性があってこそ、柄谷が「命がけの跳躍」と呼ぶ真のコミュニケーションを立ち上げることができる。

それならやはり、固有名を持たない初期村上作品の登場人物は命がけの跳躍とは無縁の存在だというほかない。「鼠」という一般名詞、「小指のない女」という確定記述、そして「僕」という指示代名詞でしかあらわされない存在はまさに取り替え可能で、そこに単独性は見いだせない。台風のような勢いで自室を荒らされるのを目の当たりにしてもビールのプルタブに手をかけるくらいに執着心を持たず、政界を牛耳る大物に脅しをかけられることでようやく重い腰を上げ冒険に出かけ、そして常に(読者に対しても)ストレートな本音を打ち明けようとしない。まさに彼らは、コミットメントとは極北に位置する存在だ。

では、核を見せない登場人物と対をなすように固有名を持つ密な情景描写は、渡部がいうように謎を隠ぺいする機能しか果たさないのだろうか。実はここでは固有名が媒介として作用し、ある種のコミュニケーションが成立している。しかしそれは、村上と読者の間でなされるものだ。『ノルウェイの森』(1987)が爆発的なヒットを果たす前(あるいはいまでも)、村上春樹は格好のファッション・ツールだった。「同じ音楽を聴いていたことに共感するのではない。『同じ音楽を聴いていた』という嘘に共感するのだ」(内田樹『もういちど 村上春樹にご用心』(2010))というように、村上はある種の人間がかゆいところをぴたりと掻いてあげるように固有名を配置する。内田が「読者への目配せ」と呼ぶこの行為は、評論家 川本三郎にからすれば記号で自らを表現するカタログ世代の振る舞いでしかないが、それでも共通の基盤を持つ者との密なコミュニケーションとして確かに機能した。しかしこのやり取りは、言うまでもなく「命がけの跳躍」の極北に位置する毛づくろいでしかない。

 

やはり、初期村上作品において単独者による真のコミュニケーションはなされていないのだろうか。実は、『風の歌を聴け』には固有名を与えられた登場人物と呼べるかもしれない人物が存在する。「僕」が最も敬愛する作家 デレク・ハートフィールドだ。「僕」曰く「文章は読みづらく、ストーリーはでたらめで、テーマは稚拙だった」ハートフィールドは、1983年6月の晴れた日曜日の朝、傘をさしたままエンパイア・ステートビルの屋上から飛び降り、自殺した。ハートフィールドから文章の多くを学んだ他と語る「僕」は、作中で何度も彼の作品や人間性に言及。本作を一読したとき、あるいは既に生者として存在しない彼の方が登場人物の誰よりも強く記憶に残るだろう。こうした点から、彼を本作の登場人物と呼ぶことは可能ではないだろうか。

また、第二作『1973年のピンボール』(1980)で「僕」の恋人だった人物、直子も固有名を持っている。近くに井戸がある家に住み、「僕」が20歳の頃に亡くなった彼女の存在は、「僕」の心にうつろな穴を残し続ける。

以上からわかるのは、登場人物が名前を持たない初期村上作品の中で死者のみがこ有名を持ちうることだ。死者だけが実存を与えられた世界。このモチーフからは必然的に、『ノルウェイの森』のメイン・パッセージ「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」を連想させる。奇しくも本作は村上作品の中で初めて、登場人物が固有名を与えられた作品だ。死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。そのことを受け入れて、なおも冥界に旅立ってしまった(直子)を振り切って生者(緑)を選び、現実を生きようとする本作を転換点とするならば、『風の歌を聴け』を始めとする初期作品は生が死の対極ではなく、その一部として存在する世界だ。

整理しよう。単独性=「命がけの飛躍」の足場となる固有名を持たない初期村上作品の登場人物が、死を生の一部として受け入れる『ノルウェイの森』で初めて固有名を手に入れる。これをさらに『ダンス・ダンス・ダンス』(1988)『ねじまき鳥クロニクル』(1994-1995)へと続く実存の回復、デタッチメントからコミットメント志向への転換と捉えるべきなのだろうか。

 

筆者はそうは思わない。断言しよう。『風の歌を聴け』、そして初期村上作品は生者のデタッチメントの小説ではなく、死者によるコミットメントの小説だ。

これを説明するために、死者とのかかわり方を思考し、柄谷が単独性を考案するにあたって強い影響を受けた哲学者エマニュエル・レヴィナスに話題を移そう。ユダヤ人として第二次世界大戦期を生きたレヴィナスは、死者の埋葬について「死者をして死なしめる」ことと語る。生者ができる死者への正しい接し方は、死を存在論の語法で語らないこと。「ここ」にいない死者を生者が語れば、彼らを「ここ」において好き勝手に利用可能だからだ。レヴィナスのこうした思考は、復讐心が争いを生み出す当時の世相だからこそ萌芽した。彼が駆け抜けたのは、死者の名を借りて私刑を正当化する単独者たちの世界だ。復讐の語法において立ち現れる死者は固有名を持つからこそ利用される。そんな悲劇を起こさぬために、レヴィナスは死者のために語らないことを真の弔いとしたのである。

存在論的な死者のために語るのではなく、存在論的な死者に語らされる。レヴィナスの死者との向き合い方を参照すると、『風の歌を聴け』は村上なりの埋葬のように思えてくる。レヴィナスは、「存在するとは別の仕方」で死者と向き合う術を模索していた。ここに存在する私たちが彼らを存在するように語ることの無いように。これは柄谷風に換言すれば、死者を特殊性ではなく単独性を見出すことだ。しかし単一の存在として「他者」に働きかける命がけの跳躍は、言葉を持たない死者にはなしえない。そこで村上が行ったのが、死者だけを「ここに」存在する単独者として配置し、生者に存在(=固有名)を与えないという手法だ。物語の冒頭、「鼠」は「生きてる作家になんて何の価値もないよ」と語る。そして続く語りはこうだ。「死んだ人間に対しては大抵のことが許せそうな気がするんだな」。彼は死んだ人間の語りにのみ価値があるとは、決して言わない。そうではなく、ただ生者と死者を共に「ここ」にある単独者として平等に扱えないことを指摘するのだ。故に村上は死者にのみ単独性を与えた。デタッチメントする生者に共感を与えるためではなく、死者の声を少しでも聞こえやすくするために。死者を単独者として扱うだけでは、彼らの存在は生者の傀儡にしかなりえない。固有名を持たない、単独者になりえない生者を媒介することで初めて彼らの声を聴くことができるのだ。デレク・ハートフィールドという実在しない死者に固有名を与えてまで行ったのは、彼なりの埋葬だったのだ。

以降の村上の作品も、デタッチメント→コミットメントという図式で語るのはあまりに表層的だ。『ノルウェイの森』で登場人物が固有名を持ったのは、生者と死者の世界をより近く、そして生者から死者への移行を描くためだ。そして、長編・短編問わず同一名を持つ人物を多く登場させること、地下鉄サリン事件被害者へのインタビューを収めた『アンダーグランド』(1997)での証言者のプロファイルがどうにも薄っぺらいのも、生者に確固とした単独性を与えない、存在の揺らぎを維持する目的と読み取れる。『風の歌を聴け』で村上は、レヴィナスの埋葬に一つの回答を示した。それを起点に捉えれば、彼は新しい手法を少しずつ試行しながら、一貫して死者の言葉に単独性を与えるある種のシャーマニズムを志向しているのだ。

 

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