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日常系アニメ キャベツにおける「不気味なもの」

想像力は私たちに翼を与え、ときには現実を超えた高みにまで飛翔させる。しかし、この認識に誤りはないのだろうか? 私たちは想像を通して世界に希望を見出すのではない。想像を通してしか、このつらい現実に目を向けることが出来ないのではないだろうか?

デヴィッド・リンチという監督は分かりやすいストーリーを滅多に提示してくれない。断片的なシーンの連なりから、ストーリーを想起することを観客に強いるのだ。『マルホランド・ドライブ』もまさにそうで、視聴者は現実、妄想、回想、夢をそれぞれ仕分けなかればならない。

女優を目指してハリウッドを訪れたペティは、記憶を失った女性、リタと生活を共にする。慣れない生活に戸惑いながらも女優として大抜擢され、ダイアンとも親密になっていくペティ。夢のように順調な生活は、実は本当に彼女の夢だった。現実のペティ=ダイアンはリタ=カミーラに出し抜かれ、ハリウッドという夢の舞台の敗北者となる。親密だったカミーラに全てを奪われたダイアンは彼女の殺害を試みる。暗殺に成功した彼女が、親友を殺してしまった後悔と何も残らない自分への絶望に苦しみ自殺する直前に見た夢こそが、ペティだったのだ。

精神分析家のフロイトによれば、夢には自分でも気づかない欲望が、形を変えて現れる。才能だけで一流監督に抜擢される、記憶喪失=最も脆弱な状態のカミーラに頼りにされる、彼女を一蹴した監督をさんざんな目に遭わせる……。ペティとは、死の淵にダイアンが見た、理想的な自分の姿だったのだ。

この映画を見終えたとき、きっと私たちは何とも言えない虚脱感を覚える。気丈ではつらつとしたペティは、全て夢幻だったのか! と。ペティの笑顔やあの世界で起きた何もかもが、哀れな女の妄念だったのだから。

蒼樹うめ原作の四コママンガを題材にしたアニメーション作品『ひだまりスケッチ』は、高校の美術コースに通う主人公ゆのの和やかな日常を描いた作品だ。いわゆる日常系と呼ばれるジャンルの走りにあたる本作では、学校近くの「ひだまり荘」に暮らすゆのたちの何気ない日常がヤマもオチもなく描かれる。

『マルホランド・ドライブ』のダイアンの夢の中には、得体の知れない不気味な男が現れる。それは言うなれば、彼女をとらえて放さない死のモチーフだ。フロイトによれば、そうした理解不能な「不気味なもの」とは抑圧された恐怖の回帰を表している。

『ひだまりスケッチ』が深夜アニメとしては珍しく4クールも続いたのは、ほのぼのとしたストーリーだけでなく、特徴的な美術演出のおかげである。スクリーントーンを多用した一風変わった背景とデフォルメされたキャラクターによって、日常的なストーリーは非日常的な絵柄で展開される。しかし、中でも目を引くのは実際の写真を使った料理物だ。立体感の希薄な画面の中に、あまりに異様なリアリティを発する食品たち。例えば、第11話「4月28日 まーるキャベツ」では突如写真のようにリアルなキャベツが登場した。映画批評家アンドレ・バザンは「想像的なもの」の自律によって生まれるリアリズムに価値を見出した。映像は「現実」と「空想fantaisie」という排他的なはずの二項を併存させる。そのことはアニメーションを考えれば容易に理解できる。では、その中に埋め込まれたあまりに現実過ぎる存在とは何なのか? 私はこれを、『ひだまりスケッチ』世界における「不気味なもの」と呼ぼう。

精神分析家ジャック・ラカンは、主体を現実界・想像界・象徴界の3つに属する存在だと考えた。彼の思想は時間の経過とともにかなり変化するが、最終的に彼は現実界を重要視する。イメージや暗黙のルールはすべて、理解不能な現実界に自分を位置付けるために存在する。実は眼前の現実こそが最も私たちから遠くに位置している。イメージが氾濫する世界において現状において最も不気味なものこそが、いま私たちが目にしている現実界なのだ。

『マルホランド・ドライブ』のあまりに複雑な構造ゆえに、映画公開時にリンチは鑑賞の手助けになる10のヒントを発表した。上述のあらすじを読み解くこと自体が、1つのエンターテイメントだったのだ。誰の妄想なのか、どの場面が現実なのか。リンチの映画は一度答えが分かれば、数珠つなぎのようにほかの場面の意味が見えてくる。このとき、「不気味なもの」にははっきりとした意味が与えられる。分析医がトラウマを指摘することで患者の症状が回復するように、場面の必然性を理解できれば得体の知れないシーンから感じる恐怖はかなり減じられるだろう。

それならば、『ひだまりスケッチ』における「不気味なもの」は何を表しているのか。哲学者スラヴォイ・ジジェクは、幻想を生々しい現実を直視しないための透過膜だと考えた。日常系アニメはとるに足らない現実を、想像の産物であるキャラクターによって描く。そのままでは耐えがたい現実を直視せずに済むよう、非現実的なキャラクターがフィルターの役割を果たしてるのだ。そこに現れるキャベツは、日常を描いた虚構の中に登場する、生々しいまでのリアリティだ。この「不気味なもの」の真に恐ろしいところは、『マルホランド・ドライブ』の謎の男と違い、誰のどんな心理を症候化したものなのか一切分からないことだ。しかし、これこそがまさしく真のリアリティだ。目の前で繰り広げられる現実が誰のために用意されたのか、私たちは知ることができないのだから。

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