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融解、そして神の不在

 

映像圏はいま、著しく融解している。私たちがなすべきは、そこに神を見出すことではないだろうか。

 

現代の映画的なものを象徴する作品は、2014年10月から半年にわたって放送された全24話のアニメーション作品『SHIROBAKO』だ。『SHIROBAKO』は、アニメーション制作の現場を描いた作品。アニメ会社で制作進行を務める主人公 宮森葵を始めとする5人の女子を中心に、声優やアニメーター、3Dクリエイターなどアニメに携わる様々な人の視点から週刊アニメが完成するまでのドラマを描いている。アニメが完成するまでの波乱万丈をドラマチックに描きながら、美少女をメインに据えることで生々しくなりやすい「仕事」というテーマと萌えを両立させているといえるだろう。

まずは、現代の「映画的なもの」について確認しよう。渡邉大輔は、現在の映像をめぐる環境はそれを取り巻くあらゆる人間同士のコミュニケーションを含めて考察すべきだと主張し、この仮想的空間全体を映像圏と定義した。つまり、作者の背景やプラットフォームにとどまらず、SNSやニコニコ動画のコメントといったネット上にログとして残る感想や、そこから生まれるn次創作やMADまでを踏まえなければ映画的なものを考察できないのである。作品をめぐるコミュニケーションは、最近では制作過程においてもかなり前提化されている。『SHIROBAKO』には、『伝説巨大ロボットイデポン』のような往年の有名作品のタイトルをもじった架空の作品や有名監督と見た目までそっくりな監督 菅野光明が登場する。

「分かる人だけが分かるパロディ」がコミュニケーションを活性化させるというのは、容易に想像出来るだろう。岡田斗司夫が『オタクはすでに死んでいる』で述べたように、他人が知らないものを知っているという優越感、そしてそれを教えてあげるという特権意識こそがオタクをオタクたらしめている。気づいた元ネタをコメントするだけで容易に優越感を得ることができるし、分からなかったパロディを教えてもらうことで作品鑑賞の質を手軽に高めることが出来る。

ここまでをまとめれば、『SHIROBAKO』は仕事という現実的で多くの人に間口が開かれた題材を扱いながら、美少女を画面に配置することで萌えを求める層の需要にも応えている。さらに、気づきやすいものから難解なものまで様々な小ネタをちりばめることでコミュニケーションの喚起にも気を配った、非常に戦略が練られた作品なのである。

 

渡邉はこうした現在の映像圏をアーリーモダン期の反復だとするが、これはテクスト理論の観点からすれば、受容者を重視するドイツ受容美学をさらに拡大したものだと言えるだろう。作者―作品―鑑賞者においてただ一人一人の鑑賞者を重視するだけでなく、それを受け取った鑑賞者の反応やそこから導かれる真似に副次的な創作までが、現代の映像を語る上では欠かせない要素なのだ。

さらに渡邉は、現代の芸術作品としてのブレイクスルーは作家のオリジナリティではなく、コミュニケーションがシステマティックに自己演出する「冗長性/変異性」という差異化の情報処理が相対的に安定した均衡状態から現れると考える。これは言い換えれば、作者と鑑賞者の境界が限りなく低くなっていることを意味する。ニコニコ二投稿される動画はコメントを含めた作品として鑑賞者に届き、鑑賞者が感動したシーンを切り集めたものがMADになり、同人誌になる。

いまや、映像を作るコストは限りなく低くなり、作者と受け手の境界線は限りなく曖昧だ。iPhoneで撮った写真をTwitterに投稿したり、ニコニコ動画にコメントを寄せることも製作の一部だと言えるのなら、現代では誰もがクリエイターだと言えるだろう。映像圏という考え方を採用する以上、前述の作者―作品―鑑賞者という構図はもはや成り立たない。個人を作者か鑑賞者に分類するのは不可能だ。こうした状況を受けてか、ベネッセが行った「子どもがなりたい職業ランキング」でも2010年には男子で2位だったゲームクリエイターは7位に転落、女子で7位だった漫画家は10位にまで転落している。誰もがクリエイターを名乗れるというのなら、職業としてのクリエイターになる必要などないということだろうか。

 

 

しかし、本当にそうだろうか? むしろ誰でも創作ができるからこそ、それを完遂させ世に出すことができる人間の神性はより強固になっているとは言えないだろうか? 『SHIROBAKO』で描かれるアニメスタッフは、納期を守らなかったり連絡を怠ったり、仕事として最低限の水準にまで達していない人間ばかりだ。

そんなダメ人間でも、アニメという作品を作ることに対して言葉にできないやりがいを感じている。「待遇も悪く、拘束時間も長いのになぜかアニメを作るのが辞められない」という彼らの言葉からは、社会的価値には決して還元できない、創造行為だけに宿る崇高さが描かれている。

自分の作った物語が、イラストが全世界に届けられる。酷評やネタにされることを含めて、自分が産み落とした何かが世の中に影響を与えるという感覚は何にも変えられない。

 

 

だが、創作の絶対性を語るのは容易ではない。『SHIROBAKO』の後半では、創作を巡る問題がより複雑に描かれる。宮森が所属する武蔵野アニメーションが手がける作品『第三飛行少女隊』はライトノベルを原作とした作品だが、最終回の結末について監督が提示したシナリオが原作者に頑なに拒否されてしまうのである。

0から1を作り上げる喜びが描かれたこれまでに対し、後半部で描かれるのは「自分たちがやっていることは、所詮誰かのコピーでしかないのか?」という問題だ。これまで監督という神を中心になんとか努力を続けてきた武蔵野アニメーション一同は、自分たちにはどうにもならない絶対的な神の前に何も出来なくなる。事実、担当編集を通して連絡するだけで23話までその出で立ちが一切分からない原作者は宮森の想像の中に神として登場し、彼女に二択を強いた末に、理不尽に不正解だと言い渡し天罰を与えている。

作者と鑑賞者の隔たりが融解している現在の映像圏において、唯一その絶対性を確保できているのは、原作者だけだ。作者―作品―鑑賞者という一方的な垂直構造はいまや限りなく流動的に、カオスになった。しかし、その中で唯一以前と変わらない不動の地位にいるのが、原作者という立場なのである。

 

 

改めて『SHIROBAKO』に話を戻そう。担当者を介して一方的なシナリオNGを受け続けて煮詰まった木下監督は、ひょんなことから原作者のメールアドレスを知り、強引にアポを取り付ける。担当編集や出版社の重役などの反対を振り切り、木下はついに原作者と邂逅。ラノベのキャラクターは自分の分身だとして、木下の考えるラストを頑なに認めない原作者だったが、監督の作品への思いを知ることで心を開き初める。そこで原作者は、木下は彼だけの『第三少女飛行隊』を作っているのだと知り、対等な作家としてともに最終回のシナリオを考えることになる。半ば都合良く展開されるが、こうしてアニメ最終回は無事完成し、オンエアを迎えるのである。

 

実は、このとき木下監督だけでなく原作者もラノベの結末を決められずにいた。しかし、上記の場面で初めて対等な作家である木下監督と言葉を交わすことで、彼はアニメのラストとともに原作のラストに関する着想を得たのである。ここから分かることは、作者―作品―鑑賞者という図式の中で唯一絶対者だと言える原作者は、あくまで客観的な視点の上でのみ成り立つということだ。自分を誰の影響も受けていない絶対的な原作者だと考える以上、作品を完成させることはできない。作品を巡る長い長い連鎖の一部に自分が組み込まれているということ、自分だけがクリエイターではないと認識したときに、初めて作品は完成するのではないだろうか。

 

ゆえに、「映画的なもの」とは鑑賞者の誰もがその奥に存在する作者を想起せずに入られないものである。誰かがそこに作者という人間を見出したとき、初めて映像圏としての磁場が立ち現れるのである。

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