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「好き」はどこにあるのか?

 

昔からどうも、夏祭りというイベントを楽しめた覚えがない。先日、2015年初の夏祭りに行ってきたがやっぱり同じ感覚を抱いた。いや、正直に言えば夏祭りが楽しかったことなんて一度もない。それはたぶん、綿菓子も金魚すくいもリンゴ飴も、そのベクトルは全て過去に向かっているからだ。

 

田中ロミオ『最果てのイマ』の主人公 忍は、仲間と過ごす場を「聖域」と呼び、それに殊更な愛着を見せる。それは、彼には未来が絶望でしかないことが分かっているからだ。だから、彼はいま・ここにいる自分の仲間を大切にする。『絶望の国の幸福な若者たち』で古市憲寿も同じ事を書いていた。未来が不幸になるのが分かっているから、若者は自分が幸せだと主張する。けれど、忍が本当に大切にしているのは現在ですらない。欠損という絆で結ばれた聖域メンバーを結びつけたのは、きっと過去の特殊なつながりだ。彼は過去の思い出を愛でるために、今のつながりを守っている。

 

夏祭りもそれと同じなのかもしれない。どうも僕はあの場にいるとき、いつもなにがしかの既視感を抱く。いまここにある楽しさは、本当にいまの僕が実感している楽しさなのだろうか?

 

僕が今楽しんでいるのは、目の前の金魚すくいじゃない。中学のときあのこの前で震える手を隠しながら挑んだ、5歳のとき両親の応援を背に受けながら頑張った金魚すくいだ。いや、その記憶はもっと遡られるべきかもしれない。それはセピア色で思い出されるような、かつて誰もが希望を持っていたとされる理想の夏祭りを再現する舞台装置だ。

 

 

 

『最果てのイマ』は、あらすじをかいつまんで説明すればごくごく一般的な美少女ゲームだ。特別な力を持った主人公が、セカイの危機と戦ったりなんやかんやしたりしながら、特別な絆で結ばれた美少女達とえっちなことをして、めでたしめでたしのハッピーエンド。

だが、実際にプレイしてみるとそんなキャッキャウフフな印象はほとんどない。むしろ過剰なまでの生物学、哲学、ネット工学の用語が飛び交い、それでもやはり、物語を要約すると前述のようなテンプレ美少女ゲームになってしまう。

そう、これは美少女ゲームのテンプレというごくごく当たり前の、しかし冷静に考えれば矛盾だらけの状況を説明するためのゲームなのだ。なんで美少女ゲームでは主人公たち以外のキャラクターがほとんど描かれないの? なんでいろんな女の子とえっちしてるのに主人公はヤリマン認定されないの?

こうした「矛盾だらけなのになぜか正常に機能しているもの」を合理的に説明するために『最果てのイマ』にはあまりに複雑な設定が盛り込まれているのだ。

 

 

 

 

僕は冒頭で、1つ嘘をついた。正直、今年の夏祭りはめちゃめちゃ楽しかった。一人暮らしをしてから初めての夏祭りはいつも歩く道がガラリと顔をかえて、でもそれは地元の夏祭りともまた違った風景で、お面を着けてはしゃぐ子供も、けだるく歩く中学生も、ばか騒ぎするDQNも、すべてが愛しくなった。

 

改めて平成とは何なのだろう。未来を夢見る事ができず、現在、ひいては過去を理想化することしかできない絶望の国なのだろうか。それでは不十分だ。正しくは、未来の絶望や過去の栄華を引き合いに出さなければ、自分の好き」を表明する事ができない世界だ。

 

 

『最果てのイマ』がそうであるように、これまで当たり前だったトンデモなシナリオに、筋が通る理由をつける。かつての僕たちはブレをネタとして消化しながら、見ないフリをして矛盾とうまくつきあってきた。

曖昧な態度はもう許されない。ビジネスで大切なのは仮説に基づく収益見込みと、結果の合理的な分析から導かれる軌道修正だ。夏祭りの楽しかった思い出一つ話すためにも、僕は筋の通った物語を考えてしまう。

 

 

理屈が素直な感情を覆い隠しているのなら、僕らはただ臆せず「好き」を表明するべきなのだろうか。ちょっと視点を移せば、「好き」に満ち溢れた世界は既に実現している。Facebookにアップされる定番の観光地で撮ったお決まりの構図、Twitterに投稿される「楽しい」「可愛い」に終始するアニメの感想……。SNSを見れば、こちらからすれば全く興味もない他人の「好き」はいくらでも観測できる。

愛情の表明は、ある種の暴力だ。それは赤の他人に求愛された女性だけが感じることではない。なぜなら、「好き」は他人にその価値を論破されえない、絶対的なものだからだ。「あなたは違うかもしれないけど、僕の『好き』は僕だけのものなんだ!」

 

 

論理武装なんて、スマホがあれば一瞬でできる。理屈は決定打にはなりえない。自分の外に絶対的なものが存在しないからこそ、感情といういまは自分だけのものだと言える武器がかつてないほどの価値を持つ。

最近、遺伝子情報をもとに最適なダイエットをコーチングしてくれるアプリが登場した。体型に頓着しない僕からすれば、「普通に運動してバランスよく飯を食えよ」としか思わないけど、スマホから送られる自分だけのダイエットプランに頼りきりになる光景は近いうちにあたりまえになるはずだ。

「未来に夢を見ることはできず、僕らは過去を理想化している」と前述したけど、やはりそれは正しい。いま科学が追い求めているのは、まだ見ぬ未来ではなく自分の起源だ。過去=ルーツが理想郷とされているからこそ、就活では(特にベンチャー=未来を切り開く業界では)自分が何をしたいか=欲望を求められ、ビッグデータで集合的無意識がわかれば今よりすばらしい選択ができると考えられる。

 

いまのところ特権的な地位にある「好き」を引き摺り下ろすのが科学の仕事だとしたら、そんな世界で僕らは何をよりどころにするのか……。おそらく、これを考えるのが批評の役割だ。素人目線からすれば批評家がやっているのは、「好き」「嫌い」を論理的に説明しようとするか、「好き」「嫌い」を振りかざして勝手な主張をするかのどちらでしかない。

昭和は「好き」を取り巻く環境がまだまだファジーだった。現在は、「好き」を説明する、あるいは振りかざしているがここにも疑問が生まれ始めている。きっと次の10年、僕らは自分の「好き」と対峙しなければならない。

『最果てのイマ』の問題意識は、他者との向き合い方ではなく、「どうすれば僕らは他者になりうるか?」だった。自分の「好き」と対峙すること、自分を他者として見つめることができれば僕らは自分の「好き」と新しい付き合いができるのだろうか。

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