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「変身」しか存在しない時代に

1.

 精神分析家 ヴィクトール・フランクルは患者が自殺願望を持っているかを確かめるために、まずは「自殺願望を持っているか?」と問いかける。すると死にたいと思っていてもそうでなくても、彼らはこの質問に「いいえ」と答える。そこで彼は続けてこう質問する。「なぜあなたは自殺したくないのか?」

 私たちは果たして、この問いに満足できる回答を用意することができるだろうか。心的次元において神経症を理解する既存の精神分析理論に対して、フランクルは人間の実存を病因の根幹だと考える。曰く、神経症患者の約半数は彼が言うところの実現的空虚の問題に悩まされている。実存的空虚を一言でまとめると、生きる意味、為すべきことの喪失だ。彼はその概観をこう説明する。

動物と異なり、人間においてはもはや何を為すべきか本能が教えてくれることはない。そして昔とは違い、何を為すべきかについて、伝統や価値観が教えてくれることもない。現代では、何を為すべきなのかを全く知らず、自分が基本的に何をしたいのかさえ分かっていないこともある。その代わりに、他の人がしていることをしたいと思い(順応主義)、他の人が自分にしてほしいと思っていることをする(全体主義)なのである。

為すべきことを提供してくれる広範な伝統の衰退、これを東浩紀『動物化するポストモダン』ではポストモダンの徹底化、「大きな物語の終焉」として説明している。東によれば社会の構成員が共通のイデオロギーを持つことができなくなった1970年代以降(日本でそれが明確になったのは1990年代以降)、自己決定や個人主義が是とされていくなかで万人が共通の価値観を持つべきだという価値観は失われていった。

 大きな物語が徹底して腐敗した結果、現代では個人主義を肯定するのが当たり前になっている。そんな時代に立ち現れる問題が、自由な個人であるはずなのに何を為すべきかわからないという行き場のない虚無感、実存的空虚なのである。しかし同時に、大きな物語の終焉はポストモダンに固有の概念ではないことも確認しておかねばならない。ヘーゲルは歴史を自己意識を持つ人間同士の争いであり、その繰り返しでのみ社会が自由で高度なものに発展すると定義した。そして、この定義に則れば19世紀前半にヨーロッパの歴史は終焉したのだとヘーゲルはいう。そしてそれに多大な影響を受けたコジェーブは、以降の消費ばかりを繰り返すアメリカ人を動物的、内容を伴わず形式だけを継承する日本人をスノピズムと呼んだ。どちらも歴史が終焉した後の人間の様式だ。つまり近代は、歴史の終焉と共に幕を開けたのである。

 しかし皆が共有する物語=歴史は今日も終焉の危機に瀕している。そもそもフランクルが実存的空虚と伝統について記したのは1972年、東が大きな物語の終焉に言及しているのは2000年である。なのに2015年の現在でも、大きな物語には絶えず死亡通告が送られ続けているつまり近代は大きな物語の死によって幕を開け、その後も絶えず死に続け、そして今もこの瞬間に繰り返し息を引き取っている。ポストモダンという時代区分を用いるまでもなく、近代はその始めから歴史の終焉を孕み、再生産しているのだ。

 そんな中で2015年あるいは平成27年を昭和90年と呼ぶことにはどんな意味があるのか。東は、文化や時流が昭和○○年代という区切りで呼称されることはよくあるが、平成○○年代という呼ばれ方は滅多に使われないと話す。文化や時流とはそのまま大きな物語のことを指す。であるならば、昭和とはそのまま大きな物語が(かろうじて)命を保っていた時代だといえるだろう。その呼称を平成も20年以上過ぎた現在に再生させることは、大きな物語が通用しないまでも、せめて小さな物語という形で「時流という物語」(と書いてひひょうと読む)に息を吹き返させる企てだろう。

 しかし、確認してきたように大きな物語はこれまで絶えず死亡を宣告され、そして今でも死に続けている。このような虚ろな状態でリバイバルされた批評は意味を持たない実存的空虚、言ってしまえばゾンビになってしまうのではないだろうか。ならば今すべきは、死に続ける存在を一度切り捨てることである。そうしなければ次の時代を切り開くことはできない。本論が目指すのは、大きな物語を死んだものとみなし、現在蔓延する問題をその後の想像力によって処理することである。

 

 現実には、常にその対となる反現実が存在する。大澤真幸は『不可能性の時代』でこの仮定をもとに戦後日本社会のあらゆる現象を大きな物語という反現実の衰退の過程として配置する。東浩紀は『ゲーム的リアリズムの想像力』でこの反現実を「想像力の共同体」と呼んでいる。では、大きな物語が凋落した時代の想像力の共同体とはどんなものか。そこで東が提示するのがデータベースである。東はこのデータベースモデルの説明として、オタクの消費モデルの変化を援用する。それまでのオタクの消費モデルは、大塚英志が「物語消費」と呼ぶ。これはそれぞれに物語の断片が書かれたビックリマンシールを蒐集することで、その奥に広がる世界戦記を知ることができるように、個別の物語の消費はその奥に広がる大きな物語によって駆動するというものである。

 それに対してデータベース消費では、小さな物語の奥に広がっているのは「属性」の集積地としてのデータベースだ。属性とは「無口」や「青髪」といったいわゆる「萌え要素」だ。ここでは、小さな物語=キャラクターはこうした属性の束として構成される。そしてオタクはキャラクターを通してこの属性に萌えることで、データベースを消費するのである。

 村上裕一『ゴーストの条件』では、このデータベースがキャラクターに取って代わられている(吸収されている)ことを提示する。例えば仮面ライダーディケイドは、過去の平成ライダーの世界を旅して、彼らをカードとして蒐集する。過去作『仮面ライダー龍騎』では、武器や技をカードで発動させて戦うのに対し、ディケイドは過去のライダー自体をカードで召還する。村上はこれを「存在の萌え要素化」と呼ぶ。つまり、一定数の属性の束としてデータベースの入れ子でしかなかったキャラクターを入れ子として取り込んだキャラクターである。

 さらに村上はデータベース化したキャラクター(=ゴースト)として2ちゃんねるで生まれたキャラクター「やる夫」を取り上げる。AA(アスキーアート)で描かれたやる夫はその進化に伴ってその差分によって感情表現を可能にしたことを確認した上で、村上はやる夫スレと呼ばれるやる夫メインで物語が展開される掲示板のスレッドの変遷に注目する。初期やる夫スレの「刺身のタンポポに花をのせる仕事の採用試験に受かったお!!!!」などでは、2ちゃん民の心情を反映している(?)やる夫が社会を舐め切った結果痛い目を見る話が多かったが、「やる夫が小説家になるようです」がその転機になっていると村上は推測する。これは同級生のやらない夫が小説家だったことを知ったやる夫が小説家を目指す話だが、そこには小説を書くための入門本や新人賞などの知識がふんだんに盛り込まれる。これを皮切りに歴史や法律などの知識やレジャーの入門を紹介する「やる夫が〜〜するようです」を題したスレが一気に登場する。やる夫スレが、ある種の知識を集積するデータベースになったのだ。

 さらに、「やる夫が小説家になるようです」では、やる夫ややらない夫といった2ちゃんねる発のオリジナルキャラクターではなく、長門有希(『涼宮ハルヒの憂鬱』)や芥川龍之介などの既存の物語作品の登場人物や、ときには実在の人物がキャラクター(AA)として登場する。やる夫は、AAとなった彼らと平然と会話をする。つまり、やる夫は進化を続けるデータベースでありながら、2次元・3次元を問わないキャラクターたちと交流するキャラクターなのである。これが村上が更新したデータベースの新しい在り方だ。

 

 以上のように、大きな物語が衰退した後の想像力には多量の言及があるのに、依然として「大きな物語の衰退」が力を持っているのはなぜなのだろうか。古市憲寿『絶望な国の幸福な若者たち』では、若者の空虚感は未来に対する期待の喪失としてで説明される。本書の主張は至ってシンプルだ。現代の若者は現状の(物質的に)豊かな生活に満足しているが、同時にこれ以上良い未来が訪れるとは思っていない。今より素晴らしい将来を想像することができないいう意味で、彼らは現在を肯定するしかない。だから、若者は「絶望」の国に暮らしながらも幸福なのである。

 大きな物語とは、未来の肯定だ。「物語」は現在に分かりやすい状況説明を与えるだけでなく、その先をある程度素描してくれるものでなければならない。ページとページの間に整合性がとれておらず、その先もこれまでの筋とは無関係、あるいは想定される物語に全く期待できなければ、人はページをめくることはなくなる。つまりは、大きな物語という想像力は機能しなくなるのである。

 大きな物語は単なる想像力ではなく、それが「物語」でなければならない。物語に比べて、「データベース」や「キャラクター」には時間概念を感じづらい(東がデータベースの説明をする際にコンピュータの例えを用いていることからも分かるように、彼はそこに更新性を織り込んでいるが、それは見過ごされることが多い)。データベース(キャラクター)は大きな物語に代わる想像力としては機能するが、それは人々の空虚感を埋める力は持たない。未来への予感=時間性が伴わなければ、人は想像力とともに歩むことはできないのだ。

 例えばさやわかは、『キャラの思考法』において東がデータベースの更新可能性を見ていたことを再評価し、その表出であるキャラという概念の変化を丹念に見ていくべきだと提言している。ここで彼は村上の論を参照しておらず、彼の主張は不可知なデータベースを知るために可視的なキャラに目を向けるべきだという意味だろう。しかし、2015年においてデータベースを知るためにキャラを見るべきだといわれることは、逆説的に彼のキャラクター=ゴーストがデータベースの域にまで昇華していることの微力な裏付けになるのではないか。彼がいうデータベースとなったキャラクターはやる夫などごく僅かだし、近年の時流に見合っているようには思えない。とはいえ、データベースの動向を知るためにはキャラクターに目を向けるしかない現実と、キャラクターが時にはデータベースをのむ込むまでに肥大化し一人歩きすることすらある状況は、データベース=現代の想像力とキャラクターの関係が単純な入れ子構造ではないことが分かるだろう。

 

2.

 ならば、ここでいわれるキャラクターとは何だろうか。フィクションを語る上で、あるいは社会を語る上でもキャラクターは欠かせない存在になっている。ポンチ絵やマンガでの図像がある種の人格として認識されたことから始まり、それは企業タイアップなどフィクションに留まらない範囲で活躍し、さらには我々人間自体を指す言葉にすらなっている。とはいえ、それだけにその定義も多種多様だ。例えば、前章で見たように東浩紀はそれを属性の束、小田切博はキャラクターを意味と図像と内面の集合として示した。以降で確認するように、キャラクターに対する言及や定義付けは既に有り余るほどに存在する。正直、キャラ/キャラクターへの議論に既に食傷気味になっている人もいるだろう。そこで、本論ではフィクション、及び現実に氾濫するこれらの概念をできる限り整理し、キャラに関する研究の不十分な点、あるいは探求が我々にもたらしてくれる可能性を指摘する。

 大塚英志の「死にゆく身体」、小田切博の「意味・内面・図像からなる3要素の複合体」など、キャラクターに関する定義付けは枚挙に遑がない。本論でまず参照するのは、キャラとキャラクターの違いを明確に提示した伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』だ。伊藤によれば、キャラは「多くの場合、比較的に簡単な線画を基本とした図像で描かれ、固有名で名指しされることによって(あるいはそれを期待させることによって)、「人格・のようなもの」としての存在感を感じさせるもの」であり、キャラクターは「「キャラ」の存在感を基盤として、「人格」を持った「身体」の表象として読むことができ、テクストの背後にその「人生」や「生活」を想像させるもの」だ。

 伊藤の論においてキャラクターは物語上の登場人物とほぼ同義だと考えられるが、それに対してキャラが示す概念は非常に複雑だ。岩下朋世は『少女漫画の表現機構』においてキャラの成立過程を明らかにするために、伊藤がいうキャラをキャラ図像とキャラ人格の2つに分けて考察している。キャラ図像とはその名の通りキャラを構成する図像であるのに対して、キャラ人格はその図像が指し示す個別対象であり、その人格である。

 こうした前提を踏まえた上で、岩下は手塚治虫『リボンの騎士』におけるキャラと表現の関係を研究する。本稿に関する結論だけを簡潔に述べよう。まず、マンガ表現においてキャラが立ち現れる第一の契機は、視覚的な図像が描かれることである。他とは差異化されたキャラ図像がまず存在し、その後にその内面としてのキャラ人格が表れ、キャラの同一性を担保する。こうして初めて「人格のようなもの」を感じさせる存在感としてのキャラは誕生し、その後登場人物=キャラクターとして物語内での役割を担うことができるのだ。換言すれば、マンガにおいてキャラは、図像がなければ出現することはできない。

 しかし、ここで注意しなければならないのは、キャラの誕生には他との違いを見分けるための図像の存在が不可欠だが、その保証については必ずしも図像の一致が求められないことだ。岩下は『リボンの騎士』の物語内で主人公サファイアが「リボンの騎士」や「あまいろのかみのおとめ」、「白鳥」などに変身(変装)しても、読者はそれが「サファイア」という同一のキャラ人格であることを理解できる。そして、岩下は『リボンの騎士』における図像の変化=変身が、キャラの区別どころかキャラの同一性の強化に貢献していると指摘する。

 順を追って見ていこう。『テヅカ・イズ・デッド』では、同じく変身を扱った手塚作品として『地下帝国の怪人』が取り上げられる。(中略)ここでは耳男/ミミー/ルンペンが同一のキャラだと読者に明かされるのは、(薄々分かっているものの)物語の結末である。つまり、キャラ図像とキャラ人格の一致に関する認識が物語の内部と外部(読者)で異なっている。キャラの同一性が事後的に明らかになることで、外部からは知ることができない内面の変化を遡及的に知り、感動をもたらすのである。

 それに対して、『リボンの騎士』では物語の進行に沿って変身の契機(王子フランツに会うため、魔法をかけられたためなど)が開示されるため、読者はキャラの同一性を容易に把握できる。前述のように、本作ではそれはサファイアの内面描写として機能している。そもそも、『リボンの騎士』という作品はサファイアが天使のミスによって男性の心と女性の内面を持ってしまったことから物語が展開する。さらに彼女は女として生まれながらも王子として育てられるというセクシュアリティ/ジェンダー的に複雑な内面を有している。それを図像(形式)のレベルで描き分けるているのが「あまいろのかみのおとめ」や「リボンの騎士」といったサファイアの変装だろう。

 しかし、さらにサファイアは物語中、悪魔の手にかかり白鳥に変身してしまう。ここでは、王冠を被ることで他の白鳥とは区別されるものの、これまでのサファイアと共通するキャラ図像はほとんど持たない。そこで岩下は、ここでのキャラ人格の同一性は「はくちょうにされてしまったリボンの騎士は 魔法使いのばけたわしにどこへともなくつれていかれるのでした」というナレーションなどによって保たれていると考える。つまり、これまでキャラの絶対的な条件だと考えられていた図像はキャラの同一性を保つ上での必要条件ではないのである。

 さらに岩下は、異なるキャラ図像が一つのキャラ人格を意味することで、外部状況とのギャップによってキャラの内面を深く描くことにも寄与するという。例えば、白鳥になったサファイアは、隣国の王子フランツからの手紙に返信しようとするが、白鳥の姿のため文字を書くことができない。「あまいろのかみのおとめ」としてのサファイアに恋をするフランツに対して、王子としてのサファイアは手紙を介することで「あまいろのかみのおとめ」としてコミュニケーションをとることができたが、さらに白鳥の姿という図像的制約を課されることで彼女の思いを対象化して描き出すことに成功しているのである。

 様々な変装・変身によってキャラ図像を変えることでサファイアの女性性への葛藤は形を変えて表現される。岩下は、この作業によってサファイアの内面は幾度となく対象化され、彼女は自らの女性としての自己像を繰り返し確認していると指摘する。キャラ図像が変化してもキャラ人格の同一性が壊れることはなく、むしろ内面が掘り下げられキャラクターとしての強度が増しているのである。

 

 岩下の探求を経ることで、改めて浮かび上がってくるのは伊藤によるキャラの定義の曖昧さだ(あるいはこれは意図的かも)。彼は、キャラクターを物語内の登場人物、キャラを図像から感じられる人間らしさだと定義した。この定義においてキャラは、まず岩下が見たようなキャラ図像(の連続)から浮かび上がるキャラ人格のようなもの、言ってしまえばキャラクターに先行する存在だと特定できる。

 しかし、その一方で『テヅカ・イズ・デッド』はテクストに縛られず越境する存在としてのキャラ、つまりは物語内でのキャラクターの要素を全てひっくるめたまま異なるテクストに移動する存在としてキャラが描かれているようにも見える(岩下はそのような解釈に則った書評の存在を指摘している)。例えば、アニメ『鉄腕アトム』でアトムというキャラの図像を見たときに、原作を読んだことがある人ならそこで展開されたアトムというキャラクターの人生を想起した上でアニメを見るだろう。また、二次創作においてはしばしば原作が完結した後のアフターストーリーが描かれるが、そこで原作のストーリーを細かに説明しなくても読者が話に載ることが出来るのは、二次創作上に描かれたキャラを見ただけで、原作完結までのキャラクターの生き様を思い出し、そのキャラの人生として二次創作のストーリーを接続できるからだ。また、例えばアトムの図像がプリントされたTシャツを街中で見たときにも、私たちはそれが『鉄腕アトム』の主人公アトムだと認識できる。これは、単にその図像に人間らしさを感じているだけでなく、物語の外部においても『鉄腕アトム』におけるアトムとしてその図像が認識されているからだ。

 つまり、図像表現から考えたキャラの性質には、「キャラ→キャラクター」にあたる人間らしさの生成と、「キャラクター→キャラ」にあたるテクスト(メディア)の移動がある。本論では、前者を岩下にならって「プロトキャラクター性」、後者を「間世界移動性」と呼ぼう。ここまでを要約すると、マンガにおけるキャラは、他と差異化された(キャラ)図像が人間らしさを感じさせた瞬間が誕生の契機になるが、その性質はある図像が人間らしさを感じさせること(プロトキャラクター性)と、複数のテクスト(メディア)においても同一のものとして認識されること(間世界移動性)にある。

 

 図像が同一性を保証するわけではないのなら、キャラを担保する要素は一体何なのだろうか。そこで村上が持ち出すのは、固有名である。村上の固有名論は東『存在論的、郵便的』に大きく依っている。まずはそれを簡単に確認しよう。クリプキ及び柄谷行人『探求Ⅱ』によれば、固有名は「確定記述の束」、つまりは定義付けの集積のみで説明することはできない。例えば、「アリストテレスはプラトンの弟子だった」「アレクサンダー大王を教えた」といった記述をいくら積み重ねても、「アリストテレス」という人物を完全に定義することはできない。また、「実はプラトンの弟子ではなかった」などの確定記述の書き換えが起きても「アリストテレス」が固有名として機能することと矛盾している。そこで柄谷は、確定記述などの性質による固有性=特殊性と区別した、固有名はただそれだけで個体を指示するという性質として「単独性」という区別を提案する。それは固有名が固有名たる神秘性に名前をつけたに過ぎない。同じように、ラカンはそれを対象aという象徴界の欠如として名指す。東によれば、これらはシステムの欠陥を一カ所だと断定し、それによってシステムが駆動するという否定神学的な態度である。

 固有名が人から人へ、あるいは文字から文字へ伝わる経路の全てに、それが誤って伝達される可能性はある。東(デリダ)は、このようにシステムの欠如を複数化する。常に起こりうる伝達ミスの可能性こそが固有名の神秘性であり、どこに現れるか分からない伝達ミスの可能性を東は「幽霊」と呼ぶ。

 村上は、この幽霊こそがキャラクターを担保するという。例えば、「モーニング娘。」や「AKB48」はそのグループ名=固有名を維持しながらも、メンバーが入れ替わる。それによって、ファンに育成の感覚(ダイナミズム)を味あわせながら、メンバーが入れ替わる新陳代謝(ダイナミズム)を繰り返す。これらを統御する固有名を核にしながら、アイドルグループというキャラクターはダイナミズムとメタボリズムによって存続する。

 前章で確認したように、この運動を前提とした上でキャラクターは幽霊として(主にインターネットを)徘徊する。そこで属性の誤認や追加が繰り返されることで、まるでキャラクターが自律しているかのような運動を見せるのだ。

 

 

3.

 ここまでのフィクションにおけるキャラ/キャラクター理解を踏まえて、本章では現実世界でこれらの概念がどのようにしようされているかを確認しよう。おそらく、2次元以外でまずキャラという言葉が広がりを見せたのは、バラエティ番組ではないだろうか。現代のお笑いが「キャラ」を見せる芸だと言われれば、多くの人は首肯するだろう。

 しかし、この通念の歴史はそう長いものではない。それを端的に示すのが、お笑い芸人オール巨人の以下の発言だ。

 本当の芸というのはね、無色透明同士が合わさって、色を出さなければならないんですよ。イメージのない人間、例えば、夢路いとし喜味こいし先生。いとし先生も、こいし先生もそれぞれの色やイメージはないじゃないですか。でも、喋ると面白い。これが技を見せるということですよ。

少なくともオール巨人が活躍した1970〜80年代、面白さは無色透明な人間によって産み出されるという認識が存在していた。しかし、それ以降面白さの産み出し方・見せ方は大きく変わっていく。荻上チキは、2000年代のバラエティ番組の特徴を「キャラ戦争」だと形容し、そこでは”芸”ではなく”芸人”を見せる、つまり「キャラ見せ」としての笑いが一般化していると説明する。キャラ見せの笑いとは一発ギャグやショートコントなどのネタが、芸人のキャラと不可分な状態で提供されることだ。

 キャラ見せは、無色透明な人間(というキャラクター)だからこそ緻密で技巧的なネタを産み出せるという考えとは対局に位置する。2000年代以降では単にネタの水準のみで笑いを誘うのではなく、そこに芸人自身の人間性がなんらかの形で関わってくるのである。

 その例として分かりやすいのが、オリエンタルラジオが2016年に再ブレイクのきっかけを作った「I’m a perfect human.」だ。これは、オリエンタルラジオ藤森がバックダンサーとともにキレのある踊りと自作の楽曲を披露し、その合間に中田が大きく間を取り「I’m a perfect human.」と言うだけのもの。ネタ単体としては、コントや喋りばかりのお笑いで急に比較的ハイクオリティな歌とダンスだという新鮮味としての面白さしかないが、そこに芸人としてのオリエンタルラジオを含めると笑いの可能性は一気に広がる。

 例えば、イケメン風なルックスを持つ藤森が前座としての楽曲を担当し、「パーフェクトヒューマン」という言葉を少し抜けた顔立ちの中田が発するギャップなどが、まず見た目からくるキャラを踏まえた笑いにつながるだろう。2005年頃に彼らがブレイクするきっかけを作った「武勇伝」ネタと同じ構造だ。しかし、武勇伝による彼らのブレイクは長くは続かない。その後、中田はオタクとして、藤森はチャラ男としてのキャラで多面的な仕事をこなすようになる。

 ……という彼らのキャラクター(文脈)を把握すれば、例えば藤森がシリアスな歌詞を熱唱しキレッキレのダンスを踊ることは(チャラ男キャラの彼を想起することで)更なる笑いを生むだろう。このように、いまや笑いはネタ自身の完成度そのものではなく、それを演じる人間自体と大きな関わりを持っている。これがキャラによる笑いだ。

 

 このような芸人のキャラは、バラエティ番組で特に力を持つ。荻上がいうように、笑いが芸ではなく芸人を見せるようになったのだとしたら、その個性が要請されるのは複数の芸人が集まる場だからだ。そこではイケメンキャラや毒舌キャラなどの分かりやすい役割=キャラ立ちが求められる。こうした意識はブラウン管の向こう側だけに存在するものではない。現実空間におけるコミュニケーションも、こうしたキャラ意識に強く規定されているという指摘は2000年代中盤以降、絶えずなされてきた。相原博之は、最近の若者は上辺のキャラを恣意的に設定することで、コミュニケーションを円滑に行っていると指摘する。そこではバカキャラやクールキャラ、へたれキャラや仕切りキャラなどの”分かりやすい”キャラに互いを固定化することで、関係性が成立する。故に、例えば教室などの一つの集団の中に同じキャラが存在する=キャラが被る状態や、上記のようなキャラとして認知されない=キャラを持てない状態は忌避される。2016年のセンター試験国語の試験問題にも使用された土井隆義『キャラ化する/される子どもたち』によれば、学校空間はバラエティ番組に強く影響を受けている。それはつまり、日常生活においてもキャラ立ちの意識が求められているということだ。

 土井によれば、若者はこうした場で生き残るために、「外キャラ」と「内キャラ」という2種類のキャラを意識している。簡潔に説明しよう。「外キャラ」はバカキャラなどのようなここまで見てきたコミュニケーションを円滑にさせるためのキャラ、つまりは他者との関係を破綻させないために提示する簡素な自己イメージだ。一方で、「内キャラ」は誰にも提示されることがない。それは自分だけが知っている“本当の自己”として、一切変化することのない生来的ない自己イメージだ。

 土井は、こうした自己理解モデルが登場した背景にはアイデンティティという自己理解モデルが失効したことがあるという。自己を単一的だが可変的なものだとみなし、様々な人との関わりの中で絶えず変化(=成長)していくのがアイデンティティによる自己理解モデルだ。社会が多様化したことでそれぞれの環境に適応し成長していくのが難しくなった若者が、それぞれの環境に適応した仮面を被ることで自己を保護するというのが「内キャラ」「外キャラ」による自己理解モデルだ。ここではこの是非については言及しない。しかし、一つ指摘できるのは、ここでは「キャラ」が非常に浅薄な形象として用いられていることだ。前章で確認したように、キャラ/キャラクターは多様な性質を持ち、ときにはデータベースを凌駕すらする。それが現実に適用されたとたん、そうした多様性は切り捨てられ「一面的な仮面」に成り下がってしまうのである。

 

 では、現実空間でのキャラ立ちは、フィクションにおけるキャラ理解を使用することでどう説明できるだろうか。そこではキャラを他人から強制される、あるいは自ら望んでこうしたイメージを引き受ける。相原はこれを、伊藤のキャラの定義を用いて「人間が比較的簡単に描ける線画」のような存在になっていると指摘したが、我々はここで適用すべきキャラの定義を既に獲得している。東のデータベース理論だ。

 確認したように、コミュニケーションの場において彼らはツッコミキャラ、いじられキャラといったキャラが認識される。ここでいう「ツッコミ」「いじられ」とは人間の性質の一部、つまりは属性だ。データベース理論では、データベースに集積されている属性をいくつかつなげることでフィクションのキャラが誕生する。現実でもそれと同じことが行われているといえるだろう。集団内に不足している属性としての振る舞いをデータベースから参照し、それを自分の内部あるいは外部(こうした区別をする必要はあるだろうか?)から取り付ける。

 重要なのは、それは仮面の付け替えではなく、あくまで部分としての属性の着脱に過ぎないということだ。キャラとは属性そのものではなく、属性の束だ。アイデンティティとの対比で語れるような完全な他人になり切るのではなく、自己を構成する一部を付け替えるだけで構わない。

 しかし、先程も確認したようにそうして表出されたキャラは「ツッコミキャラ」のような属性として名指される。もちろん、常に当人のことを属性名で呼ぶ訳ではないが、このように自称、他称としての表現を可能にするためには、自己の構成要素の一部でしかない属性を拡大させる作業が必要になる。部分としての属性を少しずつ変化させて拡大させていくこと。こうした変化の過程を「換喩的操作」と呼ぼう。換喩が重視するのは類似性、隣接性だ。例えば、赤ずきんを被っているという特徴を以て、童話『赤ずきん』の主人公は「赤ずきんちゃん」と呼ばれる。

 齋藤環は、伊藤のキャラ/キャラクターという定義が極めて隠喩/換喩的だと指摘する。あくまで一つの物語世界に所属し、その世界との関わりの中で成長していく「キャラクター」は換喩的存在であり、テクスト(メディア)に縛られずに世界を行き来する=世界の不連続性を前手にした「キャラ」は隠喩的存在だというわけだ。齋藤は隠喩的=キャラ的な存在としてディズニーキャラを、換喩的=キャラクター的な存在としてサンリオキャラを取り上げる。ディズニーキャラは膨大にある人間の特徴をディズニー世界という虚構空間で展開するための記号だ。人間という対象を丸ごと形容しているため、我々はそれを全体として「共感」することができる。一方で、サンリオキャラは動物や人間の特徴を拡大させただけのイコンだ。部分でしかないそれらに共感することはできないが、我々はそれを愛すべきものとして「感情移入」することができる。

 

 ここまでの論を踏まえればお笑いや学校空間についての言及で用いられた「キャラ立ち」「キャラが被る」「キャラがない」は、全て所属世界とのつながりについての問題であり、いずれも属性を対象としている(「所属世界内で自分の属性が目立っている」「所属世界内で自分を形容する属性が被っている」「所属世界内で自分を形容する属性がない」)ため、これらは換喩的問題、つまりは「キャラクター」の問題だといえる。故に、以降でこれらは「キャラクター立ち」などと表記するのが適切だろう。

 属性を媒介とした換喩的自己理解モデルは、なにも若者だけの問題ではない。就職活動における自己分析などは、まさにその好例だ。自己分析とは、主に新卒一括採用における就職活動の中で、マニュアルや就活サイトにおいて最初期に行うよう奨励される作業である。要はエントリーシートや面接といった採用活動を突破するのが目的だが、多くのマニュアルにおいて自己の属性を媒介とすることで「自己を理解する」よう勧められているのだ。

 例えば、『マイナビ2017 内定獲得のメソッド 自己分析』では、まずワークシートに沿って過去の出来事を振り返り、それを他人に評価してもらうプロセスを経て(他己分析)、企業の分析を経た上でアピールすべき自己の長所=属性を書き出すというプロセスを踏む。さらに、『自己分析驚異の超実践法』では同じく過去の出来事をワークシートに書き出した上で、用意された434(!)の設問に二択で答えることで強み=属性を発見する。ここまで膨大な質問は、まさに自己に関するデータベースと形容せずにはいられない。

 以上のように、属性の束としてのデータベースの中で自己を振るいにかけ、望ましい属性を集積することで自己を確定させるプロセスは、自意識過剰な若者の思い込みとして捨象されるものではない。社会に出るための通過儀礼と言われる就職活動で同様の作業が奨励されることが、何よりの証左だろう。

 

 ここまで、お笑いや学校空間でのキャラの問題が実はキャラクター的=換喩的であることを指摘し、それは必ずしも若者の自己意識による問題にはとどまらないことを指摘した。なぜこれらが換喩的に説明可能だったのかというと、なんらかの場とのつながりにおける自己の理解だったからだ(就活の例は志望企業とのつながり)。つまり、主語を個人に定め、関係する集団のそれぞれを切り分けられた世界として認識すれば、世界ごとのキャラ=隠喩的な問題になると考えることもできる。しかし、本当にそうだろうか?

 確認したように、場によってキャラを切り替えるとき、人は属性の一部を拡大させることが出来さえすればよい。土井は「キャラクターからキャラへ」という章で、大きな物語の喪失によって保証されていたアイデンティティモデルが機能しなくなったことで、若者はまるでリカちゃん人形の着せ替えのように自己を着飾りながら生きていると指摘する。ここでいう「着せ替え」とは間違いなく隠喩的だ。自己の大部分はそれによって着脱され、残るのは固定された「内キャラ」のみなのだから。つまり、ここではいくら着せ替えをしても換喩のような「ちょっとずつの変化=成長」は起こらない。自己を少しずつ変化させていくアイデンティティ・モデルは換喩的なモデルだからだ。

 つまり問題は、換喩的モデルである(これは成長とほとんど同義だ)属性の付け替えを隠喩的モデル=自己の大部分の成り代わり、変身として捉えてしまっていることだ。故にキャラ問題を扱った若者論の多くは、「若者はいかん!」に帰結するしかない。ここまでで、フィクションにおけるキャラ論を適用させることで、現実におけるキャラ論に異なる可能性を与えることができることを示した。今後のキャラに関する考察として欠かせない作業の一つは、氾濫する定義を整理することで同じキャラ論の中でも蔓延する「ズレ」を確認していくことだと言えるだろう。

 

 論を進めよう。では、アイデンティティ的な換喩と属性的な換喩の違いはどこにあるのか。齋藤は『キャラクター精神分析』において、学校空間やマンガ、小説、現実など幅広い事象を吟味した結果、キャラクターを「同一性を伝達するもの」と定義する。さらに齋藤は、この逆も成立するのだという。つまり、同一性を伝達する存在は全てキャラクターとなる。

 彼はなぜ、ここでキャラクターと同一性の関係を必要十分条件に定めたのか。ここに人間とキャラクターを分かつ決定的な要因があるからだ。言うまでもないが、我々人間も同一性を伝達する力を持つ。身体はいうまでもないし、固有名はこの力を持つからこそ哲学的論争の対象になった。ならば人間もキャラクターでしかないのか?齋藤はこれを強く否定する。なぜなら、人間は自己言及によって同一性を確認するだけでなく、変化=成長することができるからだ。彼は、人間の可能性をまさにここに見ている。

 ここでいう自己言及は、おそらく文字通りの意味にとどまらない。齋藤は同書で、「萌え」に依拠するコミュニケーションの全てを自分がそのキャラを愛すべき理由の再確認であると同時に、自分とキャラの関係性、あるいは自らのキャラそのものを確認するという意味でも再帰的コミュニケーションに他ならないと述べている。我々はここまで、現代のコミュニケーションがキャラ抜きでは成り立たないことを確認してきた。だとすれば、(ある意味ではごく当たり前だが)全てのコミュニケーションは再帰的な機能を持つ。再帰的とはもちろん自己言及に他ならない。あらゆるコミュニケーションはキャラとしての自身を経由し、そして自己に回帰する。キャラにできるのは、それによって自己の同一性を確認することだけだが、我々は違う。その一つ一つに、変化=成長の契機は内在しているのだ。

 自己言及による変化の可能性の有無。この違いがそのままアイデンティティ的な換喩と属性的な換喩の差異であることは指摘するまでもないだろう。我々は常に変化の可能性を保持している。齋藤はここに人間の可能性を見いだす。しかし、それは果たして希望として機能するのか。変化の可能性が破滅的な道へ続くことはないのだろうか。

 

4.

 『存在論的、郵便的』において、東浩紀は多義性ではなく散種に可能性を見いだした。改めて確認しよう。東はシニフィアン(ここでは主に固有名)の伝達ミスの可能性として、「多義性」と「散種」の二種類を想定した。デリダを参照した東は、パロール(声)は現前性、つまりは「今ここ」における主体の統御下にある一方で、エクリチュール(書かれた文字)は現前的な主体を逃れる記号としての可能性を持つ。しかし、ここで言われるパロールを単なる音声だと認識するのは誤りだ。伝達(とその失敗)について考える東は、パロールによる意味の複数性=多義性をそのまま意味内容における多様性だと考える。多義性=意味内容における伝達ミスは、遡れば誤認の主体に辿り着くことが可能だ。更に遡行すれば、やがては発話した主体に行き着き、そこで多義性は収束してしまう。パロール(意味内容)での多様性=多義性は、理念的には一つの正しさを確定することが可能なのである。

 一方で、エクリチュールでの多様性=散種は遡行による意味の確定を不可能にする。東は散種の例として「he war」という文字列を挙げる。「war」は英語と独語で異なる意味を持つが、これは声に出した瞬間にどちらの言語に所属しているかが明らかになり、文字が持つ二重所属性は立ち消えてしまう。しかし、エクリチュールとして存在する限り、その意味を確定させることは誰にも不可能だ。「he war」は常に英語として解される可能性と独語として可能性を孕み続ける。どちらに解釈されるかは筆者にさえ制御できない。それぞれの解釈の契機は文字が存在する限り常に残り続ける。逆に言えば、何度正しい解釈をされてもエクリチュールは常に誤訳される可能性、あるいはいつかは誤訳される可能性がなくなることはない。散種の可能性はエクリチュールが存在する限り常に平等であり、それ故に固有名は伝達経路のあらゆる箇所で失敗=届かなかった手紙が発生し、それが固有名の神秘性を作り出すのである。これが東のいう「幽霊」である。

 

 東はパロール(意味内容)とそこで起こる多様性=多義性と、エクリチュール(書かれた文字)とそこで起こる多様性=散種を対比させ、伝達経路を遡ることができないエクリチュールー散種に可能性を見いだした。その後の東の活動を踏まえれば、それは文字のコピー&ペーストや二次創作文化への期待だと考えることができるだろう。

 では、これをキャラに当てはめたらどうなるか。パロール(意味内容)は「キャラ人格」あるいは「属性」に、エクリチュールは「キャラ図像」に相当するだろう。我々は例えば、「暁美ほむら」(『魔法少女まどか☆マギカ』)というキャラを音声で説明する(パロール)際には、「彼女は無口だが意志が強くて……」「黒髪のストレートで銃火器を武器としていて……」というようにキャラ人格や属性の次元での伝達を余儀なくされる。エクリチュール(書かれた文字)がキャラ図像に相当することについては、殊更説明を加える必要はないだろう。

 村上の活動を思い起こそう。彼は「やる夫」や「アイドルマスター」シリーズのキャラが制作者の意図を越えて、まるでゴーストが徘徊するかのように自律し拡大させていく様を素描した。やる夫スレなら一度その物語(スレ内容)形式ができあがってしまえばあとはそれに沿っていくらでも物語を付け足されていき、それに従って属性も付与されていく。また、「アイドルマスター」シリーズの天海春香は主人公でありながら没個性な(キャラクターが立っていない)ため注目を集めなかったが、彼女の声優を担当する中村繪里子のラジオでの発言をきっかけに黒い春香という二重人格設定が見出され(作られ)、「春閣下」「はるかっか」という愛称が生まれ、腹黒い彼女のイラストがpixivなどのイラストコミュニケーションサイトに多数投稿された。こうした伝達ミス=新たな可能性の創出は2ちゃんねるなどの掲示板で、あるいはニコニコ動画などの動画プラットフォームで、近年ならTwitterに代表されるSNSで絶えず巻き起こっている。

 これらを引き起こす原因を村上は固有名に収束させるが、果たして本当にそうだろうか。村上も指摘するように、こうした可能性の広がりはニコニコ動画では動画に紐づけられた「タグ」が大きな機能を果たす。タグは動画の動画の性質を表す機能で、ユーザーはそのタグがついた動画を一括して検索することもできる。「歌ってみた」などのジャンルから「はるかっか」などの動画に登場するキャラの愛称、「どうしてこうなった」などの動画への感想と呼べるものまで、タグは様々な位相で動画の属性を表す。Twitterでこれと同じ役割を果たすのはハッシュタグだろう。これも話題の事件や固有のテレビ番組から、「#好きなアニメを友達に批判されたときの正しい対応」など(時事的要素を含む場合もあるが)の大喜利ネタまで、ツイートの様々な属性を表す。大喜利的なハッシュタグにはマンガや映画のあるワンシーンを用いることもあり、時には文脈を切断された一コマがどうにも気にかかり、検索をかけてしまうこともあるだろう。

 以上を踏まえることで、キャラ概念における東のパロール-多義性、エクリチュール-散種を2つの意味で更新することができるだろう。1つ目は、遡行不可能なのはエクリチュール(キャラ図像)ではなくパロール(キャラ人格、属性)であること。岩下が示したように、キャラが立ち上がる契機はあくまで図像にある。特に最近は写真での検索機能も普及しているため、原型としてのキャラ図像にまで遡ることは難しくない。もちろんキャラの図像から新たな可能性、二次創作が産み出される可能性は常に秘められているが、ここまで振り返ってきてもそうした事例はあまり多いとは言えそうにない。

 むしろ、パロール(意味内容)の多義性に伴って図像が改変される場合の方が一般的だろう。キャラ図像から立ち現れたキャラ人格は各人の解釈によって属性に分解され、データベースに登録される。そしてそれは、キャラに関する動画が投稿される際にタグとして表出する。ここから生まれる多義性が新たな画像を生んでいく。例えば、前述の暁美ほむらはテレビアニメ中で主人公である鹿目まどかに友情を越えた執着を見せたが、それが(あくまで描写の上では)愛情としては描かれていなかった。ところが放送当時からそれを同性愛的な執着だという認識(意識的な誤認)が存在し、ニコニコ動画では「クレイジーサイコレズ(読んで字のごとく、同性に異常な愛情を向ける女性キャラの属性)」としてタグに登録される。こうして原作にはない属性がデータベースに登録されることで、それをもとにしたイラストや二次創作が投稿されるようになる。加えて、続編にあたる『劇場版魔法少女まどか☆マギカ 叛逆の物語』で彼女は鹿目まどかへの感情を明確に愛だと言い切ってしまう。シナリオ担当の虚淵玄が、テレビアニメ版の大ヒットを受けてから劇場版のシナリオを考案していることからも、ファンコミュニティでの動きが原作の内容にまで波及していると考えることもできるのである。

 そして、こうした多義性の発生箇所を特定することは不可能だ。もちろん、テレビアニメ版において暁美ほむらが鹿目まどかに異常な執着を見せる場面や、2ちゃんねるにそうした指摘がなされたタイミング、ニコニコ動画に「クレイジーサイコレズ」というタグが登録された瞬間という描写の瞬間に遡行することしかできない。原作における暁美ほむらの発言、そしてクレイジーサイコレズというキャラ人格、属性が常に帯び続ける多義性はこれからも新しい可能性を生むだろう。つまり、キャラに焦点を当てれば遡行不可能なのはパロール(キャラ人格、属性)なのである。

 以上の説明によって、既にキャラ概念によるパロール-多義性、エクリチュール-散種への2つ目の更新も確認を終えている。多様性を媒介するのはキャラクターの固有名ではなく、属性だという点だ。新たな動画やツイートが生まれる、発見される契機がタグ(ニコニコ動画)やハッシュタグ(Twitter)であるならば、多様性を媒介するのもそれらだ。キャラの固有名すら必要にはならない。キャラの部分でしかないはずの属性だけで、多様性は芽吹くのである。これは、データベースの入れ子でしかなかったキャラクターがデータベースを内包する存在になったという村上の論に相似している。本論ではそこまでの主張をするつもりはないが、属性がキャラクターの統御下を離れつつあること、幽霊のように自律し新たなキャラクターを生成する可能性すら持っていることは指摘しておくべきだろう。

 ここで想定される反論の一つに答えておこう。東のパロール-エクリチュールの対立は意味内容-図像ではなく、音声-文字(書き記されたもの)という対立だ。つまり、タグやハッシュタグもネット上の記述である以上、エクリチュールとして扱うべきだと考えることもできる。しかし、これらはあくまで属性の可視化にすぎない。データベースはあくまで実体を持たない想像上の装置に過ぎず、故にその一部である属性も人によって微妙に認識の仕方が異なる。本論で指摘した多義性は、それが目に見える形で表出したものだと考えられる。むしろ、こうした概念が全て想像的なものであることが、次章の議論のベースになる。

 

5.

 前章の結論はこう換言することもできる。エクリチュール(図像)より遡行不可能であり、可能性を秘めているのは属性であると。

 『存在論的、郵便的』で東がパロール(多義性)-エクリチュール(散種)において後者を強調したのはなぜだろうか。これは前述のようにコピペや二次創作などの文化への期待だと解釈することもできるが、同時に決定的な物象性=現実から逃れることはできないという意味に捉えることもできるだろう。その証左として、東は2011年1月11日に「【郵便的とは】真実とか正義とかについて抽象的に考えるのではなく、むしろ具体的事実のほうが大事なんじゃないの、っていうか、要はおれらが抽象的なこと考えちゃうのって具体的な問題に行き詰まったときじゃね?って発想で、抽象的思考を生んじゃう現実の構造に着眼するコミュニケーション論のこと。」とツイートしている。想像上の意味の複数性ではなく、目の前に現前するエクリチュールを真摯に見つめること。抽象的問題は現前する対象がなければ生まれることはないし、多義性ばかりを氾濫させては現実が見えなくなる。東の郵便論はこのように受容できるだろう。

 しかし、現実は真逆の方向に進行している。キャラに溢れる現代は、まさに想像力が氾濫する時代だ。そこでは東が重視したエクリチュールの価値が貶められていることは既に確認した通りだ。パロール-属性による多様性は散種とは違った新たな可能性をもたらす一方で、そこで展開される言説は東の主張の真逆に進行する恐れがある。

 ところが、昭和90年代たる現在は、これよりさらにねじれた時代になっているだろう。それを痛切に描いているのが、2013年から『イブニング』にて連載中、2015年には講談社漫画賞・一般部門にもノミネートされた松浦だるま『累-かさね-』だ。本作は名女優の娘でありながらあまりに醜い容姿を持った淵 累(ふち かさね)が舞台女優を目指す過程として進行する。これだけだとサクセス・ストーリーに見える本作をおぞましい話たらしめているのは、累が母から受け継いだ、キスした相手と一定時間顔を入れ替える口紅だ。醜い顔を持つ累は、口紅の能力で美人の顔を奪い、舞台で虚構のキャラクターを演じる。以上の筋からも分かるように本作は美醜をめぐる葛藤が全編に渡って展開されるが、それは「顔は女性の命」といったかねてからの規範をただ繰り返すだけには留まらない。キャラという想像力が充満した現代だからこそ、本作の命題がより一層切実になるというのが筆者の主張だ。

 すれ違った人間に奇異な目で見られるほどに醜い顔に生まれた累は、とにかく美しさこそが絶対的な価値だと考える。だから彼女は、長年顔を入れ替えてきたパートナーのニナが死んだ際に、役者としての生命だけでなく生きる活力までも失ってしまう。自身の内側から聞こえる「人の目にふれてはいけない 醜いお前に生きる価値は無い」という言葉は、長年醜い顔によって傷ついてきた彼女の心の底からの叫びなはずだ。

 なぜそこまで美醜が価値判断の絶対的な基準になりうるのか。前述の散種論を思い出そう。パロール(意味内容)-エクリチュール(現実性)として東は後者を評価したが、それをキャラに投射するとパロール(属性)-エクリチュール(キャラ図像)となり、その価値が反転することを確認した。キャラ概念があまりに一般化した現在、少なくない数の日本人にこうした価値観がインストールされているはずだ。だからお笑いや学校空間、さらには就活においてまで、属性が重要視されている。

 しかし、ここまで確認したように、属性の多くは着脱可能だ。例えば、クールキャラを演じよるのならば寡黙でいればいい。もちろん、実際には個人への適合性の度合いに違いはあれど、誰でもどんな属性を着脱できると(理論的には)想定することができる。だから、それは個人にかけがえのない個性には決してなりえない。固有名における単独性は、確定記述の束に回収されない存在だ。

 筆者は、前段落の1文目で「属性の多くは着脱可能」と書いた。そう、全ての属性が着脱可能な訳ではない。例えば、イケメンキャラ。現実では、美しい顔という身体性を冠詞とするキャラにはなれない人間が存在する(むしろほとんどの人間はイケメンキャラになれないだろう)。一方で、美しい顔を持つ人間はそれだけで無条件にイケメンキャラだと認定されることも少なくない。累の腹違いの妹で、累の母 透世が顔を入れ替えるパートナーとしていた女性を母に持つ野菊は、絶世の美貌に生まれても「いいことなんてなかった」と語る。彼女に近寄る男は全て、その美貌ばかりを目当てにしていたからだ。

 我々の顔は生まれつき決まった身体性であり、変えることができない。この制限がフィクションには当てはまらないことは既に確認した。『リボンの騎士』における変身が示したのは、キャラは図像によって立ち現れるものの、一度キャラクターとして認識されれば図像を変えても同一性が保たれるということだ。だから『累』では不可能なはずの顔の入れ替わりが実現する。

 しかし、『累』のキャラクターは(ストーリー上では)自らの身体性に縛られながら生きている。よってこう換言できるだろう。『累』が描くのは、キャラとしての想像力を内面化してしまった現実の人間の限界性、苦痛の模写だ。フィクションのキャラに投射した東の散種論をさらに現実の人間に投射してみよう。パロール(意味内容)に相当するのは人格や属性、エクリチュールに相当するのは肉体になる。パロール(意味内容)における多様性はキャラクターとしての属性を少しずつ変化させること(換喩)であり、エクリチュールにおける変化はコーディネートの変化や化粧、整形となるだろう。だが、この区分は正確ではない。イケメンキャラなどの例で確認したように、身体性は属性の一部としても捉えられるからだ。

 加えて、身体の変更可能性としての化粧やコーディネートが妥当なのかも疑問視すべきだろう。累が「生きる価値がない」とまで断言する醜さの苦しみは、恐らく化粧程度では解消しない。だからこそ「顔の入れ替え」という非現実的な解決策が価値を持つ。単なる属性は切り替えることでコンプレックスを解消できるが、エクリチュール=物象の次元にも属する身体性はそうはいかない。いや、性格的な属性に関する悩みを持つ人間だって少なくはないだろう。しかし、『それらは「キャラの切り替え=キャラの着脱」という作業で解消できる』という想像力が普及してしまった。『累』が現代だからこその痛烈さを持つのは、属性の処理だけでは解決できないことで相対的に自己に関する苦痛としての価値が高騰した身体性の問題のみにスポットライトを当てた作品だからだ。

 ニナと常に顔を入れ替えるようになってしばらくすると、累は自身が自然と醜い人間に差別的な態度をとってしまっていることに気付く。そしてニナの死後に入れ替えができなくなると、「劣った(醜い)ものを見下そうとする感情 そしてそれに伴う優越感…あれは人間に本能的に備わっているものだわ」と気付く。本作では性格を含めた人間の高感度のほとんどが、そのまま美醜の差異に直結する。素顔の累がまともにコミュニケーションをとれなかったのに対して、美人の顔に馴れた累が誰からも好かれる性格になり、対人関係においてほとんど苦労しなくなる。醜い容貌は自身の目に映る世界さえ醜く歪めてしまい、(容姿に根拠づけられた)余裕はそのまま他人に対する寛容な態度につながるという、引き寄せの法則のような否定し難い現実がそこには描かれている。容姿が優れているだけであらゆるコミュニケーションが上手くいく(前述したように、負の側面は野菊によって描かれているが)というのは人間描写の浅さに映るかもしれない。しかし、だからこそ本作は属性の切り替えが当たり前になった現代の寓話たりうるのだ。 

 大塚は、生身の人間としての「私」を描こうとする自然主義(リアリズム)小説に対して、生身の身体を持たないキャラクターを描くライトノベルを、虚構の世界を写生するまんが・アニメ的リアリズムの小説だと呼んだ。さらに東は、まんが・アニメ的リアリズムを消費するプレイヤー(読み手)の視点を加えた環境としてゲーム的リアリズムを提示した。本論では、『累』を「キャラとして現実を生きようとする人間の苦悩」を描くリアリズムとして扱ったのである。これは、『クオンタム・ファミリーズ』『うみねこの鳴く頃に』を「受肉を試みるフィクションキャラクターの苦悩」として描いた村上の対になる試みといえるだろう。

 

 齋藤は『キャラクター精神分析』で、東と自身の見解を「欲求に従い、確率に晒されつつ生きる「キャラ」たちの動物的な生を肯定するか。成熟の可能性を「キャラ」の統合に賭け、固有の生を生きる「人間」の回復を待望するか」と比較している。筆者は東が動物的な生を肯定しているとは思わないが、齋藤も参照している東の「真に恐ろしいのはこの偶然性、伝達経路の確率的性質なのではないだろうか。ハンスが殺されたのが悲劇なのではない。むしろハンスでも誰でもよかったこと、つまりハンスが殺されなかったことが悲劇なのだ」というアウシュビッツへの言及からも、確率に晒され続ける生の中で「選ばれなかった、あるいは選ばれる必然性がない中でどうやって生きるか」を彼が問い続けていると考えることはできるだろう。だから彼にとって、固有名は深刻なのだ。

 精神分析的否定神学=固有名には欠如という神秘が宿っているため、キャラより人間は優越すべきと考える齋藤と、それは確率と誤配の結果でしかなく、人間に優越性はないと考える東。齋藤が人間をキャラに優越すると考える理由は3章でも触れた。キャラは自己言及によって同一性を確認することしかできないが、人間はそれによって変化=成長することができる。齋藤は、これが人間の固有名に特有の単独性だと考える。つまりはアイデンティティ的換喩による変化の可能性だ。

 しかし、累が行うのは「顔の切り替え」=隠喩的な変身だ。これは、土井がいう「内キャラ」の成長とは無関係な「外キャラの切り替え」とは異なる。累は何らかの「なりたい自分」に向かって前進しているし、自己の内面も変化しているからだ。累の目標は「自分の行きたい場所へ行って 生きたいように生きるの」という言葉で体現される。醜い顔ではそれが達成できないと考えるから、彼女は変身を繰り返すのだ。

 だから彼女は、舞台を終えた後でも役が抜け切らないことが多々あり、「自分に戻るのが嫌なのか?」と聞かれても「さあ……」と答えることしかできない。舞台の役が抜けたところで、彼女は美しい顔に依然変身したままである。多くの読者は既に気付いているだろうが、累は美しい顔への変身を遂げた上で虚構の役を演じるという二重の変身を通して真の輝きを得る。そんな彼女にとって、変身前の自己は「戻る」対象だとは思えないのである。土井の論では、あたかも外キャラの仮面を脱ぎ捨てたストレスフリーな場所に内キャラとしての「本当の自分」が存在しているように見えるが、累にとってそんなものは初めから意識されることすらない。

 「皆が”本物”と認めてくれるから 私はこうして…私に成ることができる」「私は本物の私に成るために 生きるために 美しさが必要なのよ」(いずれも強調原作ママ)。彼女は「本当の自分」をこう考える。「本当の自分」あるいはもとに「戻った」自分すらも、変身を遂げた先にしか存在しない。固有名の神秘性は、変身を繰り返すことで埋められるのである。

 東と同じく、彼女は自身の固有名が特権的でないと認識している。並外れた演劇の才能を持つものの、彼女の欠如はそれによって満たされているようには見えない。東はその欠如が過去、あるいはこれからのどこかで損なわれた(る)と考え、欠如を抱えた(ない)別の世界を想いながら生きようとする。もちろん累は、そのような選択をとらない。欠如を埋め、「本当の自分」になるべきだと考えるからだ。

 その点で彼女は自己の統合を目指す齋藤と意見を共にするが、彼はそれをメタレベルでない自己言及=換喩によって達成しようとする。累がとる手段は繰り返し確認しているように、変身=隠喩である。「累-かさね-」という文字は読みの通り、「つぎつぎとつながり重ねる。積み重ねる」という意味を持つ。何かを重ねるためには、自分だけでなく重ねるための他のなにかがなければならない。「累」という固有名は、固有名が抱える欠如それ自体を意味しているのである。とはいえ、積み重ねる対象は他者そのものでなくても構わない。属性を積み重ねることで、換喩的に変化していくという選択も可能なはずだ。彼女は換喩的な選択肢を考慮しない。更に言えば、換喩という選択肢に気付いてすらいないだろう。しかし、筆者はそれこそが現代的な人間の姿だと考える。

 累が隠喩を選択するのは、とにかく醜い自分から変化したいからだ。ニナを植物状態にしてしまったことに罪悪感を持ち、能力の行使をやめようとした彼女は、鏡で醜い顔を再確認することで改めて変身を続ける決意をする。そこにあるのは、現状を受け入れられずにただ変化しようとする欲望だけだ。つまり、変化の可能性を示唆することで人間の地位を回復しようとする齋藤の処方箋は効果的ではない(齋藤の処方はそれだけではないが)。むしろ我々を突き動かし、同時に苦しめるのている原因こそが変化への欲望だ。欲望にあまりに忠実だからこそ、累は属性の付け替えという換喩的行為には目を向けない。欲望と極端な付き合い方しかできないとき、人は全体を手っ取り早く変えるか全く変化しないかの二択で物事を判断する。属性の変化でしかないキャラクター立ちを多重人格的に扱うことはもちろんのこと、大きな物語がないことに絶望する若者や実存的空虚もこれに相当するだろう。

 かといって、筆者の主張は換喩的行動のススメではない。なぜなら、換喩的行動は属性の付け替えとして既に実践されているからだ。それをバラバラなキャラの切り替えとして見なしてしまうことに問題がある。なすべきはそれを変化として認識できるように優しく配列する、つまりはキャラに時間性を与えることだ。「本当の自分」は過去にも現在にも存在しないが、かといって探求から降りることもできない。ならば、どこかに辿り着いたときにそれが見つかるように、せめて幽霊の痕跡を道として認識するべきなのだ。

 

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