印刷

その「永遠」に私は含まれているか

社会を語ることなど、誰にもできない。そんな自明の理を重々承知しながらも、人はなんとかして自分を取り巻く環境を理解しようと苦心してきた。できるのは、社会という全体像を把握できないものによせた人々の「イメージ」を象ることだけだ。だから人は、時代に名前をつける。例えば見田宗介は、戦後社会〜90年代を理想、夢、虚構という「現実」という語への対義語で象った。意味の秩序としての現実は、常にその意味ならざるもの、「反現実」との関係で構成される(『不可能性の時代』)からだ。つまり社会について知るということは、一見それとは正反対のようで実は密接に繋がっているイメージの領域に線を引くことである。

***

「永遠の愛」という言葉を聞かなくなったのはいつごろからだろう。もちろんはじめから、そんなものが幻想だというのは分かっている。例えば、ドラマ『もう誰も離さない』第12話のサブタイトル「永遠の愛」は、それが破滅する結末を暗示するからこそのタイトルだ。そんな「永遠」という語が一度も登場しない作品が、短編マンガ集『現代魔女図鑑』第5話「或る魔女と花火」である。異能を持つ魔女が一般人と同居する世界で、ごく普通の男子高校生 朔は予知能力を持つ園田とつきあうことになる。しかし、2人で校舎の屋上から花火を見上げる高2の夏、「1年後も花火を見よう」と告げた彼は「私のことなんて忘れて?」という園田の言葉で突然フラれてしまう。その後言葉をかわすこともないまま翌2月に園田は交通事故で他界、彼は花火とその時に握りしめた園田の手の感触に後ろ髪を引かれたまま受験勉強に突入することになる。いつまでもあの夏の自分たちでいたい――このときの彼は、まさに「永遠」を希求している。変わりゆく自分に期待せず、ある時間にとどまり続けようとすること。常に流れる時間に逆らってそれを固定する行為こそ、まさに永遠に他ならない。

古市憲寿によれば、日本の若者はとても幸せなのだ。不安定で給料も少ない中で働き、時間つぶし程度のスマホゲームと休日に立ち寄るショッピングセンター、仕事終わりに知り合いと呑む安い酒だけで彼らは満足しているのだという。しかしこれはもちろん、カッコつきの「幸せ」だ。若者の「今の生活への満足感」の値は過去に比べて上昇傾向にある一方で、将来に対する希望をほとんど持っていない。つまり不幸になることが分かり切っている未来と比較して、相対的に現在を「幸福」だと捉えているのにすぎないのだ。ここでいう若者の幸福こそ、永遠への希求に他ならない。未来にも、あるいは不便で生きづらかった過去にも希望を見出せないとき、自己を守ってくれるのは平凡でも居心地が良かった現在だけだ。アンチエイジングという言葉が意味するのも同じことだ。あらゆる時間が生きづらいからこそ、我々は永遠のすぐ裏側にいるのである。

 

 

そのまま高3の夏を迎えた朔は、昨年と同じく夏祭りの日に屋上に上り、花火を見上げる。彼らが住む街の花火は、魔法の源を司る大魔女が作り上げている。打ち上げの挨拶にに代えて彼女は次のように語る。「私は50年、この街を見てきました。たくさんの人が生まれ死んでいくのを。私たち魔女がこの世に及ぼすことのできる力は限られているけど、魔術は人の営みに寄り添う力であり続けたい」。我々が過ごす時間軸の外側に位置すること——大魔女はそういう意味で永遠の座に位置している。時間という現実世界の絶対的な枠組みに囚われない奇跡のような存在。時間軸を超越することこそ、まさに永遠に他ならない。

若者はいま、世界を革新させようとしている。2011年以後、たびたび話題になっているのは若者によるデモだ。古市によれば、その中には普段は熱心に活動を行わない「普通の」人々でありながら、「このままでは日本がやばい」という危機意識を感じてデモに参加した人が多い。

この超越者たる大魔女によって奇跡が起こる。彼女が花火に用いる膨大な魔力を利用して、園田が死の間際に仕掛けておいた投影魔法が発動されたのだ。戸惑う朔を目の前に、過去の投影でしかない園田は独白する。小さい頃から自分の死期を予知していたこと、死を迎えることで初めて朔が何を考えているか分からなくなったこと、死んでようやく普通の人間になれるのが嬉しくてたまらないこと。この会話を聞いたらすぐに、自分のことを忘れて。2人の時間は交差していない。半年前の記録でしかない園田はただ胸中を語るだけであり、朔の驚きも反論も彼女には届かない。一方的に自分のことを忘れてほしいと告げた園田は、「私だけが君の記憶を持っていくよ」と言って夜に消えるのだ。

 

 

忘れてね、忘れてね、忘れてね——園田が消えた後、朔は彼女の言葉を反芻する。そして彼は、彼女が持ちかけた提案を拒否することを決める。園田がこの街にいたこと、先がないと知りながらも彼とつきあったことを記憶に留めたまま歩き続けることと誓うのだ。本編はここで幕を閉じるのだが、その次のページ、いわゆる空きページに四コママンガとして現実時間で朔が高3を迎えた頃に、園田が死後の世界に到着した姿が描かれる。ここで彼女は神様に「まあゆっくりしていきなよ」と言われ、朔が自分の投影魔法を見る瞬間を眺め、自身の恥ずかしいセリフに赤面するのである。ここで登場する神様は自分の死後に出会う存在でありながら親しみやすさを持った、常に自分と一身にいるような存在である。つまり彼の視線は、自分の時間軸の終点からの視点として常に内面化されている。死後の世界の主という、これまでの話とほとんど関係のない形でいきなり神様が登場しても我々がすんなり受け入れることができるのが、そうした神が身近にいることの何よりの証左である。宮台真司は『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』などで描かれる(繰り返される)日常生活を、「既に終わってしまった世界」における「終わりなき日常」の表象であり、終末論的な時間概念だと説明した。宮台が終わりなき日常を提唱したのは20年近く前であり、以降のサブカルチャーはそれに追随した、あるいはそれへの抵抗の歴史だといってもよい。園田を待ち受けていた神様は、まさにそうした最後の地点からいまを見つめる視点であり、終末というある種固定的な位置に留まり続けているという意味で、彼もまた永遠の存在なのである。

***

この話をどう結論づけるべきだろう。3つの永遠というイメージを通過した結果、主人公が現実と向き合うことができたという安易な更正ストーリーだろうか。むしろ本論の趣旨に沿えば、現実と向き合うためにはここまで多様なイメージのレイヤーを経るべきだったと言うべきだろう。しかしこれとて筆者には、フィクションと社会を接続するための詭弁に思えてならない。ここまでで確認できたのは、永遠——時間の固定、時間軸からの超越、終末からの視点——が我々の日常に深くとけ込んでいることだけだ。つまりはまだイメージの上辺を撫でているだけ。現代社会を抉りとることができるほどの強烈な何か——それこそが神である——はまだ見つかっていないのではないだろうか。冒頭で確認したように、半現実としてのイメージは常に現実と表裏一体だ。ならば我々が探すべきは、作品全体を広く覆った「永遠」に回収されない何かだ。現実の真逆には位置しない、イメージの領域からも漏れ出たイメージこそがそのまま現実の核になりうるのだから。

本作が特徴的なのは、魔法というまさしく奇跡の表象が日常の一部として取り込まれていることである。例えば、園田は予知能力をクラスメイトと仲良くなるための人脈づくりの道具として使用するし、大魔女の大規模な花火も街の恒例行事でしかない。もちろんこれは、魔法というファンタジーが一般化した現代だから可能になった二次創作的な発想だと位置づけることもできる。しかし、魔法が存在して当たり前の本作にも、一カ所だけ魔法として成立する魔法が存在するのである。

それが、園田が朔に向けた投影魔法だ。彼女の魔法は大魔女の魔力を源にして発動されたが、発動にはもう一つ条件があった。朔が高3の夏祭りの瞬間に、1年前と同じように1人で高校の屋上に存在していることである。多感ですぐに次の未来を見据える高校生を相手に、この賭けはあまりに分が悪い。これまで全てを予知できた彼女は、自分の死後の世界を一切見ることができなかった。故にこれは彼女の生涯最初で最後の賭けであり、だからこそ生前絶対に打ち明けることができなかった本音を喋ることができたのである。

魔法が発動して当たり前の世界で、この投影魔法だけは「奇跡的」に発動した。言い換えれば、この魔法は「永遠」に発動しない可能性も十分以上にあったのである。ここでいう永遠を理解するためには、レイ・ブラシエのいう絶滅の定義、「絶滅はこれから相関関係を終焉させるのではなく、既に遡行的な仕方で相関関係を終焉へと至らしめていたのだ」が役に立つ。園田の魔法は、自身が死ぬからこそ行使された。そしてそんなメッセージで彼女は、(表面上は)既に終わった関係に対して改めて「私のことを忘れて」と未来に向けて遡行的に(そして完全に)決裂を突きつけるのである。彼女が告白を終えた後、結晶化された魔力は崩壊し「悲劇が世界を満たしていく」。未来を知り続けてきた彼女にとって、朔と長くは付き合えないことも、自分が夏祭りで彼を突き放すことも分かっていた。既に分かりきった未来しか歩まない、一般人からすれば過去を彷徨うような人生の中で既に断ち切った関係を断ち切ろうとしたのが、彼女の魔法である。だからこそそれは奇跡となり、時間を超えて宛先に届くことが魔法を超えたドラマになる。

我々にとって想定できない「永遠」こそがこの、それ以前に何も残ることのない、誰にその痕跡を認識されることもない完全な死である。おそらくはるか昔は、この言葉と私たちとの距離は全く違うものだったはずだ。だとしたらやがては、誰にも見つからない完全な絶滅が私たちのイメージに定着する日も訪れるのかもしれない。

 

文字数:4109

課題提出者一覧