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出張中のなかむらなおきが批評再生塾での千葉雅也の課題『イディオムを探せ』にどのように応えればいいのか悪戦苦闘している中、この前観た語られていた『ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン』と『写像理論』に何か惹かれるものを感じたので、そこから何か「イディオム」を探せるんじゃないかと悪戦苦闘している。さて見つけられるか、1つの「イディオム」!!!

1.1

こまばアゴラ劇場で行われた、Theater Des Annalesの第4回公演『従軍中のウィトゲンシュタインが(略)』を観劇した。その作品は第一次世界大戦中に祖国を守るため、オーストリア・ハンガリー軍に志願したウィトゲンシュタインが砲撃兵となってロシア軍と戦う最中、写像理論についての考えを得るまでを描いていたものだった。

1.2

舞台上にはウィトゲンシュタインと上官、古参の兵、画家志望の若い兵、女好きの下品な男の5人がいる。物語は彼らの会話で進んでいく。誰とも関わり合いたくないウィトゲンシュタインと他の男達と軋轢が生まれていく。他の男達がいくら食ってかかってもウィトゲンシュタインは福音書に没頭し、夜は哲学に更ける。そして親友の手紙を楽しみにしている。

1.3

そんななか、ロシア軍が攻めてくるという情報が入る。配給されたパンとソーセージを作り、戦場を再現したウィトゲンシュタインは、パンやソーセージに別の意義を与えて語ることができることを認識する。

1.4

ロシア軍が目前に迫る頃、ウィトゲンシュタインと男たちは死の恐怖が覆い被さる。死ぬこと、そしてその死が意味であることかどうか。神は存在するというものと神は存在しないとするものが諍いを起こす。でも、ウィトゲンシュタインも科学的な言葉を持たないので、証明することができない。語り得ぬものについては沈黙しなければないのだ。

1.5

ロシア軍が攻めてくる。舞台上だけでなく、劇場内は真っ暗闇となる。観客は何も見えない中でウィトゲンシュタインと男たちの言葉をただ聞かされて、頭の中で進行している状況をひねり出さないといけない。パンパンパンとなる銃声。たまに発せられる閃光。

1.6

ロシア軍との戦いが終わった。ウィトゲンシュタインと男達は戦略的撤退の命令を受けた。そして遅れてやってきた手紙を受け取ったウィトゲンシュタインは、彼の親友が死んだことを知るのである。そしてウィトゲンシュタインは撤退をする前に、哲学的な思想から離れ、歯を磨くという現実的な行動を起こすのである。

2.1

Theater Des Annalesの演劇は物語を伝えるというよりも、状況に観客を連れていって考えてもらおうという傾向が強いようだ。今回の作品もウィトゲンシュタインが辿り着いた『論理哲学論考』の『写像理論』とは何なのかを「語る」、「語れない」の2つのシーンを提示することで感じさせるようとしていたように思う。その上で「あのシーンは~である」と考えさせることで観客にとっての観劇世界という写像を描かせようとしていたのかもしれない。

2.2

観客が思い描いた「この作品は~である」という科学的な言葉。それを集めることで『従軍中のウィトゲンシュタインは(略)』という絵が描かれる。たとえばtwitterやtogetterにはこの作品の感想が集まっている。そのためこの作品を観たことがない人でもこれらの集まった感想を読むことで、どのような作品だったのかを認識することができる。これはまさに『写像理論』そのものである。

3.1

『写像理論』というものをもう少し知ろうと思い、kindleで『論理哲学論考』を購入。そして読み始める。ウィトゲンシュタインは数学を専攻していたらしい。そのためだろうか、言葉というものがどんどんと細分化していくのである。そして細分化された言葉が最小になると、「単語」と「~は~である」という文型のみが残った。

3.2

世の中は「~は~である」という科学的な言葉が表す事実が集まっているものである。そして「~は~である」が科学的な文であるために、誰もが確かめることができるものでなくてはならない。

3.3

確かめることができない「神は存在する」、「人生には意味がある」などは科学的な文ではない。なので語ることができない。『語り得ぬものは沈黙するしかない』のである。

3.4

この言葉により、いままで積み上げてきた哲学的命題は否定されたと言われている。そして哲学の命題は分かることと分からない事の線引きであると言われている。

4.1

はたしてそうなのかなぁ。ウィトゲンシュタインの『語り得ぬものは沈黙するしかない』という言葉は、ソクラテスの『無知の知』と同じことを言っているように思える。知らないこと、分からないことを「知らない、分からない」というのではなく、ただ沈黙しているだけで。

4.2

ウィトゲンシュタインは従軍の際、トルストイが書いた福音書の解説本を持って行った。それを何遍も何遍も読み込み、さらにはその福音書を読むように薦めて廻っていたようだ。この一文だけでも「ウィトゲンシュタインは信仰心の厚い男である」と言えるだろう。

4.3

だから、ウィトゲンシュタインは神を否定するために『語り得ぬものは沈黙するしかない』と言ったとは思えないのだ。逆に彼は「神を語る言葉を持ち合わせていないので、神を語ることができない。だから沈黙するしかないのだ」と苦虫をつぶしながら言っているように思えてならないのである。

4.4

ウィトゲンシュタインの人生をwikiで調べると『論理哲学論考』を発表した後、莫大な財産を放棄して小学校の先生となったとある。そうだよな。彼は科学的な言葉を得るために現実の中に身をさらさざるをえないよなぁ。

4.5

『写像理論』とは自分が観ている世界がセカイでしかないことを認識させるものではないだろうか。信仰心の厚いウィトゲンシュタインは神を語りたいのだけど語れない。それだから神を語るためにはもっと多くの科学的な言葉を得て、セカイを神にも届く世界へと拡張していかなければならないのである。

4.6

『語り得ぬものは沈黙するしかない』とは、逆説的に『語るためには言葉が必要である』であり、『語るための言葉を得るために、思考または体験をしなければならない』となるのである。

5.1

さて、小腹も空いてきたので、この辺で夕食にすることにしよう。24時までに課題を提出するので調理をする時間が惜しい。なので夕食はレトルトカレーにする。レンジで温めてご飯にかける。ああ、なんて良い香り。ジャガイモと肉が入ったカレーをスプーンで掬って一口。ああ、美味しい。この美味しいをどうやって言葉にしよう。でも、このカレーに対して語れる事実は今のところ「このカレーはレトルトカレーである」しかない。「このカレーは美味しい」は科学的な言葉ではないのだ。つまり『写像理論』では美味しいを語ることができないのだ。一番伝えたいのは「このカレーは美味しい」だというのに。でも、このカレーを伝えることは事実を重ねることでできるかもしれない。

5.2

「このカレーは日本ハムが製造しているレストラン仕様カレーの辛口である。」

こう語ることで、このカレーを食べたことがある人は目の前のカレーを事実として受け止めることができる。だけど、このカレーを知らない人には伝えることができない。

5.3

袋の裏面には原材料名が書いてある。最初に現れるものほど多く入っているものである。一番最初に記載されているのは野菜(じゃがいも、玉ねぎ、ニンニク)、その次は肉類(牛脂肪、牛肉)である。裏面を見るまで知らなかったなぁ、牛脂の方が牛肉より多く入っているという事実に。そして小麦粉、砂糖、チャツネ。チャツネとはインドなどの野菜や果物に香辛料を加えて煮込んだり、漬け込んだりして作った調味料だそうな。そんなものも入っているんですね。その他にも濃縮パイナップル果汁や濃縮りんご果汁、ナチュラルチーズ、醤油などが入っている。これらも科学的な言葉である。

5.4

だけど、これらの材料があっても、製造方法が分からない。その科学的な言葉がない限り、材料と暖め方という事実しか存在しない。それではこのレトルトカレーを事実として万人が受け取ることはできないのである。目の前のカレーすらも事実として語ることができないなんて。言葉を失い、沈黙するしかない。

6.1

言葉とはなんとも不便なものだと認めざるを得ない。それでも語りたいという欲求は抑えられないのだ。この世の全てのことは、人間が言葉で思考する以上、言葉で語れるんじゃないかと思っている。だからこそ、批評というものに魅力を感じ、取っ組み合いを挑み、批評再生塾にやってきているのだ。

6.2

語るためには、対象を理解しなければならない。そのためには対象を細分化し、細分化したものを言葉に転換していかなければならない。そのためには今まで積み重ねてきたもので思考しなければならない。新たに積み重ねるために体験しなければならない。

6.3

あれ、これって『写像理論』そのものではないか。『写像理論』って批評の姿勢そのものなのかもしれない。

6.4

そうであれば『語り得ぬものに沈黙しなければならない』状況を少しでも改善するために、ウィトゲンシュタインの人生をもっと知る必要がある。まだまだ勉強が必要だな。

7.1

世界を語るとはなんとも大変なことなのか。前に広がる広大な泥沼にただただおののいてしまう。難儀なものに足を突っ込んでしまったなと思いつつ、その泥沼をずぶずぶと沈みながら一歩一歩踏み出していかなければならないと思いつつ、今回もどうにか課題を出せて胸をなで下ろす。

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