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批評家養成ギブスの授業で、さやわかさんはこのような事をおっしゃっておりました。

「批評とは、自分が表現だと思うものを説得的に伝える行為です」

そして続けます。

「戦争すらも表現と捉え、批評することもできるでしょう。パンダは…難しいですね」

この『難しいですね』は、ほぼ不可能であることを表していました。でも、私は素直に感心してしまったのです。

「パンダですら批評しようと思えば批評をできるなんて。批評ってすごいな!」

いろんなところで批評について学んで来たのですが、人によって言うことがまったく違うのです。ある人に褒められた書き方が、別のある人に酷評されるなんてことがよくありました。それが繰り返されることで、批評とはどのように書けばいいのか分からなくなりました。そもそも『批評とは』もさっぱり分からなくなっていました。その『批評とは』の真理をようやく得たと興奮しました。『批評とは』はとても簡単なことであり、可能性に溢れているものだったのです。

「無理を通せば道理が引っ込む。説得できれば俺の勝ち!」

ようやくこれで批評と向かいあえる。その認識を確信に変えるため、パンダを批評することにチャレンジしてみることにしました。

 

パンダを批評するためには、パンダのことを知らなければなりません。まずはインターネットでいろいろ調べることにしました。パンダと言う名前は竹を食べるものという意味からきた言葉という説と、竹を食べるために骨が変化して親指状の出っ張りができてしまった掌を意味する言葉から来たという説があるようです。そもそもレッサーパンダが先に発見されて「パンダ」と名付けられていたけれど、その後にジャイアントパンダが見つかった。それにジャイアントパンダの方がインパクトがある。ということでジャイアントパンダが「パンダ」と呼ばれるようになったそうです。レッサーパンダとジャイアントパンダは同じような掌の変化をしているけれど、全く違う系統の動物である(遺伝子解析によってようやく分かったことだそうです)など今まで知らなかったパンダの知識がどんどんと頭の中に入ってきます。でも、パンダが表現者である証拠が全く見つかりません。

まあ、当たり前ですね。パンダが表現者であるなんて、誰も思いません。私も半信半疑なのです。そもそも野生に生きるパンダは人間にそもそも出会わない。動物園のパンダだって人間を楽しませようとしていないでしょう。人間を相手にするのは要求をする時だけでしょう。人間はそれを感じ取って反応しているだけ。それは果たして表現と呼べるでしょうか。言えないでしょう。だからどうやってもパンダを表現者とは思えないのです。

「パンダは表現者ではない」

と断ずることしかできませんでした。それでも、パンダにまつわる人間の行動を表現だと捉えることは可能です。なぜ人はたれパンダなどのキャラクターを生み出すのか、なぜ中国政府はパンダを外交の道具にするのか、WWFのマークがパンダなのかなど。なので、批評できるのは人間の営みに限られるのではないかとこの時は結論づけることになったのです。

でも、この認識は数ヶ月後に覆ってしまいました。批評家養成ギブスで行われた平倉圭さんの講義で、こんな話を聞いてしまったからです。

「カラスの格好をしてカラスの鳴き声をまねてみました。そうするとカラスが鳴き返してきました。」

それは人でないものと接続するために、自分自身をチューニングすることが目的だったそうな。人でないものと接続しようとする人がすでにいたなんて。それもすでに成功させているなんて。そのことに衝撃を受けてしまいました。そして思うのです。

「カラスと接続できるのなら、パンダだって接続できるに違いない!」

私は改めてパンダは表現者であると認識することに挑戦いたしました。今回はパンダと向かい合うのではなく、パンダそのものに憑依して、パンダの身になっていろいろ考えてみる事にしました。

 

まずは動物園にいるパンダを思い浮かべました。透明な壁に隔てられた空間の中、彼らはただ存在しています。そしてその壁の向こう側には多くの人間がしばらく自分たちを眺めた後、足早に立ち去っていきます。壁の内側と外側は時間の流れるスピードが違うみたい。外側の人間たちの目まぐるしさに目がチカチカしてしてきます。それがなんとも腹立たしい。人間たちは自分たちパンダに何を求めているのだろう。

これはあまりよろしくありません。これではパンダの恰好をしている人間です。パンダの実態から離れています。それならばと、もう一歩踏み込んでパンダのことを考えます。さらにパンダについて調べてみると面白いことが分かってきます。パンダは竹しか食べないのにあまり吸収できないんだそうな。そのため、ひたすら竹を食べ続けなければいけない。パンダは熊の仲間なので、草食動物のような消化システムを持っていないのです。そのように無理をして竹を消化しているので、パンダは月に一回、腸の粘膜を張り変えなければなりませn。その時、古い粘膜の塊を糞と一緒に排出するのですが、それがとても痛いらしいのです。そこまでパンダしてパンダは竹を食べている。その懸命な姿は「生きること」または「食べること」の意味を問うているようにも見えてきます。つまりパンダは竹を食べるという行為で「生きる」ということを表現していると言ってもいいかもしれないように思えてきます。それならば、パンダは表現者であると言っても問題ないでしょう。ようやく表現者であるパンダと出会うことができました。それは何とも楽しい思考実験だったのです。

でも、それだけで終わりませんでした。なんとパンダと接続できた感覚があるのです。それはまるで「我はパンダなり!」と思えてしまうほど。人でないものと接続したことで、今まで感じることのなかった色々な事を気づかされるようになりました。

人はコミュニケーションをする時に言葉を使います。そして人は思考をする時にも言葉を使います。なので人間にとって言葉はとても大切であり、言葉を理解できないは「意識できない」と同義語となります。だから多くの言葉を知らなければならない。だから多くの言葉を生み出さなければいけない。人の営みは積み重ねられた多くの言葉の継承であると言ってもいいでしょう。パンダは人間の言葉を持っていない。なのでパンダを理解をすることはできないな、だから表現者と捉えることはできないなと思っていました。しかしそれはそうでもないように思えてくるのです。言葉で意識できない部分でも、感覚で意識できるのではないかと。

批評をする際、批評対象に近づいたり、離れてみたりして客観的に観察をすることになります。その時は私の意識を用いて対象と接続しようとする訳ですが、それがなかなか上手くいきません。でも、感覚を用いると接続できそうな部分がするっと現れてくる。そして対象に接続されるとビビビッと電気が流れてくるのです。すると自分の中のどこかがピカッと光ります。その光こそが対象が発するものを「表現」として受け取った瞬間と言えるでしょう。そしてその光が何なのかを言葉としてまとめ上げ、その言葉を伝えたいと思う人々と接続しやすいように、膨らませたり、削ったりと加工します。この一連の流れが「批評」行為なのです。このように批評を言葉にできたことで、今まで多くの批評家の先生から学んできたことが、

・対象を客観的にじっくり観察する

・観察の結果で得られた何かを表す言葉を生みだす

・生んだ言葉を伝えたい人に伝えられるように加工する

の3点に集約されるように思えます。この3点をどのように配分し、どのように表現するのかがそれぞれの批評家の個性によって変わってくるのだなと今は思うようになりました。

誤解、誤読、いきちがいとは私が体験したように、対象と接続するための試行錯誤の結果なのでしょう。そしてその接続が想定と違う繋がり方をすることで、対象のまた別の側面を浮かび上がらせることにもなるのではないかと。誤解、誤読、いきちがいに恐れず対象と接続しようとすることが大切なのだと思います。

誤解から始まったパンダとの付き合いは、誤読によるいきちがいを超えて深いものとなりました。でも、まだ誤解をしているかもしれない。パンダとの間柄をさらに深めるために、今度は上野動物園に行かなければと思うのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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