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『観る』と『見る』の境界

『映画的なもの』とはこれである。

この映像は『革命アイドル暴走ちゃん』が2012年にドイツのハンブルグでのゲリラパフォーマンスを記録し編集した公式のものである。『革命アイドル暴走ちゃん』とは作演出の二階堂瞳子、加藤真砂美、アマンダ・ワデル、高枝枝里の4人とオーディションで選ばれた役者によってパフォーマンスを行う劇団である。彼女たちのパフォーマンスはあれよあれよと世界に広まっていき、今ではAndroidのCMに登場する存在までとなった。
 映画史研究家・批評家の渡辺大輔は、『映画的なもの』についてこのように語っている。
膨大な匿名の有象無象のなかから、ひょんなことで映像圈的なリアリティを強固に固着させ、不特定多数のひとびとの注目を引くようなある種の「作品」(コンテンツ)としてのブレイクスルーを達成する基礎的な触媒、あるいはその特質を、とりあえず本論では折に触れ、「映画的なもの」や「映画的」という表現で呼んでおく。
                                                           渡邊大輔著『イメージの進行形 ソーシャル時代の映画と映像文化』より
 『革命アイドル暴走ちゃん』のパフォーマンスは、ネット上にあふれているネタで満載だ。使用されている楽曲は涼宮ハルヒの憂鬱で使われた「God knows…」である。そして緑の長いツインテールのかつらを被った高枝枝里は、まさに初音ミクである。金髪のアマンダ・ワデルは椎名林檎のように拡声器を持って歌う。そしてセーラー服を着た彼ら、彼女らはサイリウムを持ってヲタ芸を繰り広げる。その上そのセーラー服を脱ぎしててスクール水着姿になるのだ。これは渡邊が『映画的である』の一例としてあげている『踊ってみた』をさらに作品として強度を高めた『映画的である』ものと言って良いであろう。二階堂瞳子は日常的にあるものから取捨選択してフラットに再配置することで、それらに耽溺する人間の熱狂と熱狂せざるを得ない悲痛な叫びを描き出すことに成功している。映像ではないがまさに『映画的』と言えるだろう。その上このパフォーマンスを記録した映像は、その熱狂と悲痛な叫びが伝わるように編集がなされている。2つのゲリラライブを1つに編集し、俯瞰した視点と縁者と同じ平面の視点を組み合わせてスピーディな1つの映像にまとめ上げることでMADのように新たな作品を作り上げている。まさに『映画的なもの』と言えるだろう。
そして『映画的でないもの』とはこれである。

 この映像は『革命アイドル暴走ちゃん』が2015年02月に行った横浜でのゲリラパフォーマンスを記録した誰かのものである。出演者は若干異なるが、同じ内容のパフォーマンスだ。だが、この映像は『映画的である』とは思えない。それはこの映像が『映画的である』パフォーマンスの記録映像であり、演出的意図を持って編集されていないからだ。あくまで横浜の街の日常で起きた事件の記録なのである。そしてこのような『映画的でない』映像は刺激的な経験を他者と『共有』するために用いられるものである。共有するためには『革命アイドル暴走ちゃんのゲリラパフォーマンス』である必然がない。別の刺激的な映像で代替可能なのだ。
 『映画的である』と『映画的でない』の境界はここにある。映像は意識的に編集されて初めて『映画的である』となるのではないか。先の映像は複数のゲリラライブを編集して1つにまとめ、『革命アイドル暴走ちゃん』のパフォーマンスを多面的に描き出していた。それにより彼女たちのパフォーマンスがより美しく映し出されていた。それは先の映像には『伝えよう』という意思が溶け込んでいるから『観て』しまうのである。すなわち映像自身が語り出しているのだ。そしてその映像が語る言葉を視聴者が感じ取る。つまり、『映画的である』とは映像を介しての制作者と視聴者の対話なのだ。後の映像はその映像を介して撮影者との対話は成立しそうに思えない。だから『映画的ではない』映像として『見る』ことになる。
 だが、後の映像は本当に『映画的ではない』のだろうか。いいや、そうとも言い切れない。後の映像でも『革命アイドル暴走ちゃん』のパフォーマンスを『映画的である』と感じ取ることができれば『映画的である』として『観る』ことができるのだ。つまり『映画的である』とは映像に映し出されたものに『意識』を感じることができるかにすぎない。今まで私が語ってきた『映画的である』とは、先の映像自身に『意識』を感じたから『映画的である』と感じ、後の映像自身に『意識』を感じなかったから『映画的でない』と感じているにすぎない。もし、後の映像を私の知る人物が私に見せたとしたら、何故私にそれを見せようとしたのだろうというその人物の『意識』を感じ取るだろう。すると後の映像も『映画的である』として『観る』ことになってしまうのである。
 『映画的である』とは流動的なもので、主観的なもののようだ。その結果『映画的である』は各人固有の『観る』、『見る』という『反応』へと還元されてしまうのである。それはまさに黎明期の映画が持つアトラクション的な体験へと回帰してしまうようだ。そして映画の発生以前まで回帰してしまうようである。その結果『観る』、『見る』が関心が『ある』、『ない』までに還元されて『映画的である』はついには映像を越えてしまうのだ。

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