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「人生を棒に振る」という言葉にのせて 未完

2012年12月に中村勘三郎が亡くなった。突然の訃報だった。盟友の野田秀樹はその死を災害であると称した。死を悼む以上に今後の演劇はどうなってしまうのだろうという空気に覆われたのだ。彼は古典的な歌舞伎だけでなく、藤山直美との喜劇や串田和美とのコクーン歌舞伎でも活躍し、彼なくしては成り立たない程の存在感を放っていた。そして歌舞伎を色んな人に観てもらおうと、ニューヨークなどに劇場ごと持っていった平成中村座。勘三郎は何とも型破りなことをしていたのだ。そんな彼は生前この様なことを言っている。型がある人間が型を超えようとすることが型破りで、型がない人間が型を破ろうとすれば形なしだと。型を作ることがどれだけ重要なのかを説いていたのだ。それは大きく跳び上がるための土台と足腰の強さの大切さと言って良いだろう。勘九郎、七之助が評判を上げているのは、勘三郎のこの考えによって教え込まれた結果と言えるかもしれない。
2015年5月に扇田昭彦が亡くなった。突然の訃報だった。多くの劇評家はその死を災害と受け取った。死を悼む以上に今後の演劇はどうなってしまうのだろうという空気に覆われたのだ。彼は劇評を書くだけでなく、テレビで対談番組、演劇プロデュース、そして劇評講座の講師などを行っていた。
東京芸術劇場で行われた扇田昭彦を送る会には演出家、役者、劇評家、演劇愛好家など多くの人々が駆けつけた。麿赤兒、嵐山光三郎、四谷シモンが並んで状況劇場の頃、密着取材をしていた扇田のことを懐かしそうに語っていた。平田オリザ、三谷幸喜、ケラリーノ・サンドロビッチ、野田秀樹が扇田との思い出を楽しそうに語っていた。そのなかで、このような発言があったように思う。
「誰にどう思われても構わないが、扇田さんにはつまらないと思われたくなかった」
これは送る会に集まった演出家、役者の共通の想いだろう。彼らは扇田を通して観客を設定していたと言えるのだ。そして彼の書いたものが我々と繋がる。つまり扇田昭彦というハブによって演劇人と我々は繋がっていたのだ。そのことは彼が演劇を体現していたと言えるのではないだろうか。彼がやってきたことを知れば、演劇という大きな枠組を理解できるのではないだろうか。そして扇田が体現していた演劇を、演劇を愛する我々で継いでいく必要があるのではないだろうか。そのような想いに囚われている。だからこそ彼の書いた『日本の現代演劇』と『舞台は語るー現代演劇とミュージカルの見方』を手掛かりに「演劇」を、そして「扇田昭彦」を理解していこうと思う。
1995年に出版された『日本の現代演劇』は1960年代、1970年代、1980年代、1990年代と章立てて書かれているが、1960年代の章が大部分を占めている。そこには唐十郎をはじめ佐藤信、鈴木忠志、蜷川幸雄といった面々の若かりし頃の行動と時代そのものが描かれている。
1960年6月、東京大学文学部に在籍していた扇田昭彦は安保闘争のデモの中にいた。国会議事堂への突入の瞬間も現場にいたらしい。しかし、その行動は特別な思想を持っていてではない。周囲の熱に突き動かされたものであったようだ。ワンダーランドで行われた、マームとジプシーの『COCOON』を用いての劇評講座で扇田は戦争を知らない世代が戦争を語ることを、戦争を知る世代がどのように思っているのかを語っていた。それは調べたことから生まれた作品と体験したことから生まれた作品の違いに対する違和感を語っていた。その時に空襲によって何もなくなった東京の姿を未だに鮮明に覚えていると語っていたのが印象的だった。戦争に対する体験があったからこそ、安保闘争の熱に感化されたのだろう。扇田は東京大学卒業後、朝日新聞に就職して学芸部の記者となった。そして出会ったのが状況劇場の唐十郎である。彼らは演劇を通して世の中を変えようという熱を発していた。扇田はその熱に再び感化されたのだろうか、状況劇場の南下興行についていくのである。その時の状況は扇田の処女作『開かれた劇場』や唐十郎についてまとめられた『唐十郎の劇世界』に掲載されている『状況劇場南下す』に詳しく書かれている。それは状況劇場の役者たちとの刺激的な旅を紹介することで彼らへの誤解を解くというものを目指していたようだ。その後も扇田は多くの演劇人と交流する。そしてそれらの人々との記憶を記載している。個々に行っていたことや事件を扇田昭彦という身体を通って現されている。そこには取材対象に対する扇田の愛に溢れている。扇田は彼らに共感し、彼らを紹介することを買って出たのだ。
東京芸術劇場で扇田昭彦が関わっていたRooTSという企画があった。この企画は過去の名作と言われている戯曲を現代の若手演出家に演出させると言うもの。その第2弾として上演されたのは、清水邦夫の戯曲『狂人なおもて往生をとぐ 〜昔、僕達は愛した〜』を熊林弘高が演出したものである。この作品は安保闘争に参加していて警官に殴られたことで狂人となってしまった兄とその家族の物語である。兄は自分たちの家を娼館だと勘違いしてそれを告発している。家族は兄の妄想に乗っかって家族ゲームをすることで兄に自分たちは家族であることを思い出させようというものであった。第1幕は1人の狂人によって崩壊した家族の悲劇なのだが、第2幕は弟の婚約者が加わることで家族ゲームの配役が変わる。すると狂人が言っていることの方が正しく、実は家族の方が狂っているのじゃないかと思わされてくるのである。いや、実際狂っているのだ。むき出しになった家族の本性はまさに家族ゲームであり娼館だったのだ。そのサスペンスフルな展開に私は何が正常で何が異常なのかが分からなくなった。正常とは権威の押し付けでしか与えられないと言うように。私はそのように思ってワンダーランドの劇評セミナーに劇評を書いて提出している。しかし、1960年代に上演された扇田はこのようなことを言っていた。
「時代にとても密接な戯曲だったんだと改めて分かった」
1960年代から1970年代の安保闘争は当たり前に存在するものだった。それに賛成、反対の態度をとらないノンポリの人々にとっても。当時の世の中がどのような空気だったのかはまさに時代として平等にのしかかっている。だからこそ、この芝居を観た人にはこの作品の裏にある日本政府、アメリカというものを容易に想像することができるのだ。だがそれは私の生まれる前の話。どのような状態だったのかは当時のニュース映像などでしか知りようがない。知識としてはあったとしても、体験として蓄積したものがないのだ。それはこの作品だけの風潮なのか。そうではない。清水邦夫の『鴉よ、俺たちは弾丸を込める』も同様な主張がある。1971年に蜷川幸雄によって演出されたこの作品は、フェスティバル/トーキョー2014の主催公演として同じ蜷川幸雄の演出でさいたまゴールド・シアターの役者によって上演された。物語は爆弾魔の青年2人が裁かれている法廷に、彼らの祖母たちが武装して乱入する所から始まる。祖母たちは裁判官や検察、弁護士を人質に法廷を占拠してしまう。そして裁判官、検察、弁護士はお互いグルでただ裁判ゲームを楽しんでいるだけだと皆殺しにし、己の甘さで爆弾を爆発させなかったと青年たちを告発して殺してしまう。祖母たちは突入してきたものたちの放つ銃弾に倒れていき、そこには若々しい魂を持つ死体が折り重なっているところで終わる。さいたまゴールド・シアターは設立当初から55歳以上の人々で構成されていて、今では平均年齢は70歳を越えている。当時の戯曲を、当時と同じ演出家が、当時を生きていた人々と作り上げた公演は、なるほど、とても力強い。だがこの作品も時代というものを大きく背負っていて、当時を知らない私にとっては地続きなものと感じることができないのである。これは清水邦夫だけではない。RooTSの第3弾としてマームとジプシーの藤田貴大が演出した寺山修司の『書を捨てよ、町に出よ』も同様であった。藤田は現代の視点と劇中の視点を交差させて現代との接続を試みていたのだが、家族を捨てての平等を標榜するシェアハウス的な共同生活は何なのかさっぱり分からなかった。舞台上の彼ら彼女らは過去の亡霊に見えてしまったのである。1960年代の演劇はこのように時代ととても密接な関係を持っていた。演劇単体では成り立たないものだったのである。それを表現するためには、時代を、そして扇田自身も描く必要があったのだ。
それ以降は1970年代をつかこうへいなどを例に挙げて等身大の時代、1980年代を野田秀樹などを例に挙げて自分探しの時代、1990年代以降を平田オリザなどを例に挙げて静かな演劇の時代とあっさりまとめている。1960年代は時代が要請した演劇だとすると、1970年代以降はより個人的な葛藤が要請した演劇だと言えるだろう。年代を主軸とした『日本の現代演劇』は年代で語る本ことが難しくなった1970年代以降を詳しく書くことができない。このような人々がいて、このような傾向があったとしかまとめていないのだ。だがこのまとめ方こそが年代そのものを表現していると言えるのである。
年代で語ることのできなくなった演劇を語るため、扇田は彼らが何を行っているのかをテーマと言う軸で探り出す。同志の立場から理解者への立場にスイッチするのである。
そんななか、このような1冊の本がある。『高校生のための実践演劇講座 第1巻 ストレッチ・発声篇』。この本にはつかこうへいの『熱海殺人事件 モンテカルロ・イリュージョン』を観た一般の人々が劇評を書き、扇田と雑誌「新劇」の編集長だった岡野宏文にその講評を聞く劇評講座の模様が記録されている。1997年に出版された本だ。公演は1993年に行われたらしい。まだインターネットは一部の人が使っている時代である。インターネットが普及した今だって、劇評を書こうという人は少ないのだから、当時、劇評を書こうという人物はさらに少数派であったであろう。そこに提出された劇評は、作品を語ったもの、役者の演技を語ったもの、演出家を語ったものなど色々だ。扇田と岡野はそれらに対し、どのように読み取ったのかを答え、さらにどのようなものを読み取りたかったのかを伝えるという方法をとっていた。
「百人の観客が居れば百人の劇評があるんだと私は思っている」
冒頭で扇田昭彦はこの様に言う。同じ人間なんて1人もいない。だからこそ同じ劇評なんて存在しない。なので正解なんて存在しない。劇評家として大きな功績を残している扇田は自分の書き方を正解だとは言わないのである。演劇の前では彼もその他の観客も同列なのだ。彼の演劇に対する愛情は観客にまで拡大したのである。
未完
書き上げることができませんでした。扇田さんの本を出版順に紹介して自分の中に型を作り上げる。そして扇田さんのイズムとは何かを継承する。それは演劇に関わるひと全員に言えることみたいな感じでまとめる予定でしたが、著書を全部読まないとダメでした。今年一年に渡ってまとめてどこかに発表する予定です。

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